秘密7

 小城裕也の一日は平凡だ。朝起きて出勤して帰って寝る。それだけの一日を一年間繰り返す。時々、久保が声をかけてくれて岡崎と三人で合コンしたり、どこかへ行ったりするが、それがなければ裕也は常に一人だった。

 一人、会社の喫煙室でタバコを吹かしながら、頭の中で孤独という短い二文字を思い浮かべる。案外悪くないものかもしれない。他人を気にしなくてもいいし、問題は常に自分が起因していることしかないのだから、自分を正せばいいだけのこと。日々の生活は十分足りているし、恋愛をする気力は既に枯れている。ただ、この前の合コンで会った彼女には少しだけときめいてしまった。だが、たいした話もできなかった男はただ過去を振り返るだけだった。

 カタリ、と喫煙室の扉が開いた。透明ガラスで外部と仕切られただけの部屋だから、誰が入ってくるかはわかっていた。岡崎だ。彼は裕也を見ると小さく舌打ちをして裕也から最も遠い所でタバコの火を点けた。裕也は岡崎が自分のことを嫌っていることを知っている。というかあからさまな態度だからわからざるを得ない。それに対して久保は裕也に好感を持っているようだ。何かと彼は裕也を誘いたがる。それを岡崎が嫌がっていることがわかっているのかどうかまでは知り得ないが、どちらにしても、これはあの二人の好き嫌いの違いの問題で、裕也にはあまり関係のないことだった。タバコの煙が風に流され消えた後どうなるかを考えるようなことだと思う。人の感情なんて湧いては消えていく。変化していく流れを読み取ることなど徒労でしかない。

 それにしても岡崎もよくやる。嫌いな相手である裕也と日長過ごす時間が他の人よりも多い。同期で同じ部署で役職も同じだから下手をすれば久保よりも裕也と過ごす時間の方が多いのではないだろうか。久保が誘うから休日も会うはめになる。嫌なのに嫌だと言えずに律儀に裕也の相手をするのだから器用なのか不器用なのかわからない。

「……おい、久保を見なかったか」

 突然、その岡崎が声をかけてきた。裕也は珍しいと思いつつも、「いいや」と首を振って答えた。岡崎は「そうか」とだけ言ってあとは視線を床に落としながらタバコを片手に沈黙した。チリチリと先が赤く焼ける切っ先はポロポロと零れていく。

 久保も不思議なやつだ。皆の人気者で、何と言っても美しい外見をしている。さらにそのことで周りに引け目を感じさせないような気配りができるのだからもはや恐ろしい。

 そう、裕也にとって――彼はどこか恐ろしかった。人間ができている。出来過ぎている、と感じるのだ。一つひとつの動作も、言葉も声音も、彼の存在自体が非現実めいている。まるで作られた人形……いや、「理想的な人間像」のイメージを具現化したかのような、そんな存在だ。その完成された人間性が裕也を怖がらせる。そんな人間がいるなんて思いもしなかった。自分のように彼は他人のハイヒールを見つめたりはしないのだろうか。

 人気者、という言葉が、裕也にある情景を思い出させた。サッカーを蹴る十八歳の少年。タバコの味を知らない、汗と制汗剤の匂いを漂わせる無垢な子ども。彼らの輝いた視線の先には揺るがない希望で満ちていた。その希望とは多くの人間の誠実と、言葉にできない愛と信頼で出来上がっていると思っていた。

 裕也は咽せた。チラリと岡崎がこちらを見るが、何も言わない。口元を手で抑えながら、少し裕也は笑った。

 岡崎もきっと、そう信じていたのだろう。以前問いつめられた。「なぜサッカーを辞めたのか」。縋るような目をしていたことを覚えている。だから叩き付けた。もうそんな夢を彼に与えないために壊した。つまり「俺、サッカー続ける才能がなかったみたいだ。全然楽しくなかったからさ」と笑いながら答えたのだ。

 岡崎には悪いと思う。だけど、裕也はあの世界を許してはいなかった。金、賄賂、怠慢、駆け引き、嫉妬、売春、いじめ、暴力、暴言、猫なで声、手のひら返し、そして殺人。

 裕也がその現実を見たのはほんの八ヶ月の間のことだった。たったそれだけの時間に、それだけの罪を見せつけられた。そして、それを大人たちはなかったことにした。罪は食事なのだ。罪を犯すまでの流れを調理と見立てれば、罪こそは出来上がった料理。そしてそれを口に入れて咀嚼し、味を確かめるのが全ての証拠を消し去ったハイエナども。彼らは食べたのだ。全ての秘密を。

 秘密はやがて飲み込まれて消えていく。暴露することはできない。ならばこれ以上犠牲者を増やさないことを心がけるべきだ。

 だから裕也は岡崎を希望から遠ざけた。やがては罪にまみれて押し潰される希望なんて、持たない方がいい。

 裕也は喫煙室を出た。やはり、タバコは苦いがやめられない。

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