秘密5
仕事を終えた岡崎は久保と共に、明るい都市の夜に乗り込んだ。ネクタイを緩めて先ほど火をつけたばかりのタバコを咥える。唇をツイツイっと動かすと煙もそれに合わせて暗闇を踊る。大通りから少し外れた比較的人通りが少ない道で、彼は軽く伸びをしながら深く息を吐いた。「おつかれさま」と久保がそんな岡崎を見て笑う。「これからどこか行こうか」と二人でブラブラと歩く。
岡崎は久保のことを気に入っていた。歳が近く、仕事もできる同じ部署の後輩。何気ないことにも気を利かす頭のいい奴。年下とか後輩とか関係なく、岡崎にとって久保は自慢できる隣人だった。昨日の合コンでも、女たちの視線が彼に注がれるのを見て、自分のことでもないのに岡崎は嬉しく思った。彼が注目されると、その分自分も満たされる。岡崎にとって久保はすでに友人の枠を越えていた。自分の人生に多大な影響を与える、なんとも言葉では表現しがたい存在となっていた。
久保という男の表情は常にどこか不思議な憂いを帯びたもので、彼が入社した当初、新人社員の不安な表情だと誤解した岡崎が、同じ仕事の後輩ということもあり話しかけたのが彼との交流のきっかけだった。以後、岡崎は久保に何かがあれば真っ先に話すようになり、彼も包み隠さず岡崎になんでも話すような仲になった。少なくとも岡崎はそう信じている。未だに彼はいつも眉を寄せて困ったような顔をしているが、もう慣れてしまった。逆にそれこそが彼の魅力でもあるのだと思う。
彼らが行きつけのバーはいつもと比べて人が多かった。入れないだろうかと思ったが、ちょうどカウンター席が二人分空いていたので、そこに腰を下ろした。照明の暗い、落ち着いた店で気に入っていた。二人はそれぞれ注文すると、各々黙って物思いにふけた。この店に来るとお互い口数が少なくなるのはいつものことだ。黒を基調とした店内の間接照明がちょうど良い明るさで隣の男の顔もとを隠してくれる。お互いの存在を気にせず、だけど近くにいるという存在感が自分を安心させる。この距離感が岡崎は好きだった。
岡崎が中学生の頃、久保とよく似た男に会ったことがあった。同じサッカー部の後輩。背が高くて声が低い男。ギリシャ彫刻を想起させる、男性として理想的な肉体を手に入れた男だった。だが、彼は気弱だった。背を丸めていつも腰が低い。相手の様子を伺うように始終瞳が揺れている。よく吃るし勉強もそこまで得意ではなかった。彼と久保はよく似ているが、同時にまったく似ていない人間だった。
岡崎はそいつが嫌いだった。久保と同じように人間として優れた要素を持っていながら、それを活用しない宝の持ち腐れ。岡崎にはないものをこれ見よがしに見せつけておいて、その権利の活用を放棄する愚者。岡崎は彼に対して憎しみに近い感情を抱いていた。それは同時に憧れの感情を含む、赤黒く濁った複雑な色相だった。
「いらないのなら俺にくれ。お前が傍にいるだけで苦しくなる。俺の理想がお前であるはずがないんだ。だから俺の意識の中から消えてくれ」
何度も岡崎は自分の頭の中で彼の首を絞めた。その度に、想像の中の岡崎は涙を流していた。理想が目の前にいるのに、それが手に入らない。想像の中で殺すしかない自分の無力さに泣いた。そいつのことを苦しめているつもりが、実は最も苦しんでいたのは岡崎自身だった。
久保はそんなことはない。彼ならば、岡崎は自分の理想像であることを認めるだろう。自分の才能を遺憾なく発揮し、そのことを自慢することもない謙虚な態度の彼ならば。
そう思いながら、いつの間にか置かれていたお気に入りのカクテルを岡崎は一気に飲み干した。久保も隣で緑と白の濁った風変わりの液体を飲んでいる。「フー」と一息着いて、彼らは黙ってお互いが次の注文を申し出るのを待った。その時、岡崎は脳裏に見たくもない奴の影を見かけて思わず舌打ちをしてしまった。それを誤摩化すためにマスターを呼んで適当なものを注文した。
――小城。
彼も岡崎が嫌いな人間の一人だ。中学時代のさきほどの後輩と同じく、自分の才能を放棄した醜い男。
彼と初めて顔を合わせたのは今勤めている会社の入社式の時だったが、彼のことはその以前から知っていた。何せ小城は高校サッカー界のスターなのだから。岡崎が憧れていた全国高等学校サッカー選手権大会に於いて最も注目された選手。それが彼だった。
忘れられないのは彼が緑のコートを走り抜けるその姿。草の上を転がるボールを自由にドリブルしながら、敵のディフェンスなどまるでいないかのようにすり抜けて行く、流れるような動き。岡崎はテレビ越しにその姿に見惚れていた。そして、ふと自分の手元を見下ろす。なぜ岡崎は家で茶碗を片手にテレビを見ているのだろう。なぜ、あの緑のコートの上に、自分はいないのだろう。岡崎はその頃からテレビを見ながら箸を噛む癖がついた。今もよく噛む。そして壊す。
小城は将来を期待されていた。プロになることは自明の理だった。それはいい。岡崎はおおむねそのことについては納得していた。彼には才能があり、そして自分にはなかった。それだけのことだ。小城は間違いなく素晴らしいサッカープレーヤーだし、彼はその約束された将来へ続く道を着々と進んでいた。岡崎はきっと彼とは一生会う事はないだろうと思っていた。彼は結局テレビの中の有名人の一人で、自分のような現実世界で生きる人間とは違う。そう思えば彼の事は憎む対象ではなく応援するべきアイドルなのだ。
なのに、なのに。小城は岡崎が就職した会社にいた。あのテレビの中の偶像が自分と同じ、そこらへんの会社員の一人になるなんて。そして自分と同期なんて。
ふざけるな、と岡崎は叫びそうになった。
「なぜ、その才能を放棄した。自分にはない、努力しても妬んでも勉強しても俺では手に入らなかったその力をなぜ手放した。いらないのなら俺にくれ。お前にあり、俺にないものを全部くれ。俺は狂おしいほどお前のそれが欲しいのに」
岡崎は思いのほか強くグラスをカウンターに叩き付けてしまった。久保はそれを怪訝そうに見る。
「すまん、なんでもない。力加減を誤った」
そうですか。と久保は頷く。あぁ、と岡崎も誤摩化すように笑う。その時、二人は一瞬目を合わせた。が、すぐに岡崎は無意識的に目を反らした。久保もそれを気にした風ではなく、引き続き先ほどの奇妙な液体を美味しそうに飲んでいる。
時々、岡崎は久保を直視することができない。完璧という言葉が似合う久保は時折人が変わったようになることがある。それは豹変というよりも、スイッチを切り替えたと表現する方が近い。いつもそれは突然で、次に目を合わせた時には普段通りの久保に戻る。
しかし、不意に訪れるその瞳の色は、決して久保のものであるはずがなかった。もはや別人のものと言った方がよいのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます