秘密4

 久保が目覚めると、隣で紀子が寝ていた。それを見てから、自分がちゃんと「久保」であるということも確認した。

「……大丈夫、私は久保だ」

 久保は小さく息を吐いて体を起こした。彼女を起こさないように静かに移動しながら出勤の準備をする。『先に出ます。部屋の鍵は玄関の花壇の下に置いておいてください』と書き置きを残し、紀子には一度も触れずに部屋を出た。

 駅のホームに、新調した革靴の足音を鳴らしながら、久保は左手の時計を確認した。右手で軽く前髪を搔き上げて深呼吸すると、眠かった頭が気持ちを仕事用に切り替えた。朝の冷気が頬を刺す。

 十一月の終わり頃。まだ息を吐いても白くはない季節。ただ、喉を通る風は確かに冷たい鋭さを持ち始め、その鋭利な空気が肺を満たす感覚がする。

 会社に着くと、昨日の合コンを企画した先輩の岡崎が「よぉ」と軽い調子で声をかけて来た。彼は「昨日の子はどうだった?」とか、「ゆきなちゃんがめっちゃ可愛くってさー。あのあとな……」と嬉しそうに、俗っぽく唇を舐めるような口調で久保に話しかけて来た。

 愛想笑いで適当に相づちを打ちながら、久保は「そういえば、小城先輩はどうだったんだろう」と彼が嫌がるのをわかっていながらも、何気ない風を装って聞いた。途端、彼は「あぁ、だめだめ」と梅干しでも食べた時のような渋い顔をして肩を竦めた。

 二人はエレベーターの乗るためボタンを押した。すると、ちょうどタイミングが良かったのか、すぐに機械的な音を起てて扉が開いた。

「……と、噂をすればってやつ?」

 久保が顔を上げると、眠そうに瞼を重くする男の顔がそこにはあった。小城だ。彼はキョトンとした顔で首を傾げた。「なにか?」という問いに「別に」と岡崎がのっぺりとした笑顔のお面を被って彼の肩を叩いた。

「昨日はどうだった?」

「うん、楽しかったよ」

「悪いな、突然呼んで。ちょうど浅生が急用で抜けちまってさ」

「だからいいって。楽しかったし」

「でも、お前全然女と話してなかったよな」

「そうか? 色々と話したさ。あぁ、そういえば可愛かったな、なんて言ったっけ。あの子。……そうだ、ゆきなちゃん」

「そうか。俺はそうは思わなかったぜ」

 彼らは細めた目でお互いの懐を睨み合う。そんな様子を見て久保はクッと喉を鳴らした。誤摩化すようにそのまま咳をする。

「どうした久保。風邪か」と、あからさまに小城に対するものとは異なる声音で話しかけてくる岡崎に久保は首を振った。

 あぁ、そういえば「山下」と誰も久保のことを言わなくなったのはいつからだろう。久保は懐かしいような気がした。山下の意識がこの体の奥底に沈んでから随分経った。時折久保の他に「金田」と「マツダ」、それから女性の人格の「美知子」と意識のチャンネルを交代することがあるが、基本的に山下の体は「久保」に独占されていた。他の人格はいくつか問題があったため、今は眠っている。

 もはやこの体は山下ではない。「久保」なのだ。時々思い出したかのように意識がなくなるが、慣れればコントロールができる。この体は久保のものだ。

 久保は数ある人格の中でも山下の体に於いて、この身体を最も最大限に活用し、スマートに利用することが出来る理想的な人格だった。山下の体は久保である時こそ完成される。そのためか、久保は八番目に出来た人格であるにも関わらず、多くの人格が混在するこの体の中で主導権を握っていた。

 彼は完璧だ。仕事ができる。ミスはしない。人付き合いもうまく、その外見と知識から多くの人を魅了する。頭の回転も早くて運動神経も抜群だ。――ただ、時々意識を失ってまるで別人のようになる――だけど、それがどうしたというのだ。些細なことだ。

 岡崎と小城のいざこざをエレベーターに取り残して、彼は鼻歌混じりに自分のデスクへ向かった。廊下を抜けていざ仕事に向かおうかという時に、ふとトイレの標識が目に入った。そういえば、今日はまだケータイをチェックしていなかった。久保は毎朝ケータイをチェックする。彼の体の中にある意識たちと共有して使っているケータイだ。彼らはここに自分たちの意見やメモを残して掲示板代わりに使っている。個人的にはケータイよりも手帳に手書きで書き残していく方が好きなのだが、ケータイの方が手軽のため仲間内ではこちらが主流となっている。まだ時間があると判断した久保はトイレの個室に入り、ケータイを開いた。普段通り、各人格たちの雑談やいくつかのメールをチェックしながら、ふとひとつ気になるメモがあることに気づいた。

「朝のニュースを確認すること」

 これはどの人格が残したメモだろう。久保は首を傾げた。久保を含めて彼らはあまりテレビを見ない。唯一「金田」だけはお笑いや芸能関係のものを好んで見ているが、これまでメモに残したりするようなことはなかった。

 久保は自分のデスクに向かうとパソコンを開き、ネットで今朝のニュースを検索した。ありきたりな芸能人の離婚騒動。地元付近で起こった殺人事件。某企業の新商品。株の下落や首相の問題発言。

 これといって特に気になるものはなかった。

 久保は首を傾げた。

 このメモは一体、誰が何を意図して残したものなのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る