火のないところに

煙は立たない

「人が落ちた時の音、聞いたことありますか?」


 コミュニティスペース内の椅子に深く腰掛けた初老の男性が切り出した言葉は、それまでの態度と異なる口振りだった。

 外は薄曇りで、閑静な室内に僕たち以外の人はいない。対面に座る僕は次の言葉を継げず、金魚のように口を動かす。目の前の白髪混じりの柔和な男性が数年前まで地元の中学で教鞭を執っていたことを思い出したのは、数秒経ってからだ。


「マツキさん、急にどうしたんですか……?」

「インタビューでしょう? 〈あなたの忘れられない話〉。あのコーナー、毎週の楽しみなんですよ」


 眼鏡の奥で笑みを作るマツキさんの表情に変わった様子はない。地元新聞の取材ともなれば緊張する住民も多いが、彼が堂々としているのは人前に立って来た経験からだろうか。

 僕はメモ帳を片手に続きを促す。事前に許可を取ったICレコーダーの秒数表示は進み続けている。


「10年ほど前になりますか。私が勤めていた中学校で、女子中学生が屋上から飛び降りました。文化祭を間近に控えた午後7時。まばらに残った生徒も、会議中だった教師も、その日はPTAの会合で集まっていた親御さんも、全員が揃って窓を注視しました。骨が砕け、血と共に意識が絶えていく音。私も長い年月を教師としての人生に捧げましたが、あんな音を聞いたことはありません」


 10年前。僕とは別の校区で起きた事件だが、それ自体に聞き覚えはあった。全国ニュースで取り上げるまでもない、地方紙の3面に載るような事件だ。


「PTAの中には現役の看護師だった方がいましてねぇ、女生徒が落ちた校庭に全速力で駆けていくんです。グラウンドの砂地に出来た血溜まりに膝を付いて助け起こそうと触れた瞬間に、その人は黙って首を振りました。打ちどころが悪く、即死だったそうです。折れた鼻から止めどなく血が溢れ、そこかしこを濡らしていました」

「それが、マツキさんの忘れられない話ですか?」

「……続きがあるんです、この話には」


 マツキさんは眉根を寄せ、ゆっくりと口を開く。


「不可解な出来事でした。屋上に遺書などはなく、靴を脱いだ痕跡もない。だからといって抵抗のために争った痕跡もなく、捜査は難航しました。事件、事故、自殺……。どの可能性もある事が警察から発表され、我々は頭を抱えました。センセーショナルな事件です。パニックになり精神の均衡を崩す者がいないか? 最悪の場合、後追いで更なる犠牲者が生まれるのではないか? 第三者委員会の設立も検討されていた頃に、ひとつの噂が流れたのです」


 女生徒は、いじめを苦に自殺したのではないか?


「根も葉もない噂でした。全体の仲が良く、風通しのいいクラスです。担任が見落としでもしない限り、そのような事実は報告されていなかった」

「でも、当時は学校裏サイトなどが流行っていた時期ですよね? 教師や親が見落としていても、生徒同士でのトラブルは……」

「火のないところに煙は立ちません。学内で聞き取り調査を行い、改めていじめの事実確認を行うことになりました。そんな時に、一人の女生徒が職員室に現れました。彼女は泣きながら、『あの子を殺したのは私です』と繰り返し言うのです」


 女生徒は丸めた遺書を持っていたという。自らが関与していることが発覚するのを恐れて隠したらしい。遺書を受け取った教師があげた小さな悲鳴を、マツキさんはいまだに覚えていた。


「そこにはビッシリと〈ゆるさない〉という文字が書かれていました。遺書を渡してきた女生徒の筆跡です。聞き取り調査でもトラブルはおろか話したところさえ見られていない2人ですよ? 調査委員会は、タチの悪い悪戯として処理しました」


 次に流れた噂は、「死んだ女生徒と担任教師が唯ならぬ関係だった」というものだ。誰が流したのかさえわからない噂だというが、それは瞬く間に広まった。その後、例の担任教師が青ざめた顔で自首をしたという。


「若く、男女問わず生徒に人気のある先生でした。そんな彼が震えながら、『私が殺しました』と繰り返し言うのです。自殺した女生徒のことを愛していた。そう呟く彼は、2人が並ぶ写真を待ち受けにした携帯電話を掲げました。画像に映る女生徒の姿は、すべてが同じ画角です」

「……それって」

「切り抜いた女生徒の写真を使ったコラージュですよ。撮影日は、すべて彼女が死んだ後でした。聞き取り調査を行なっても、2人がそういった関係である証拠はどこにも無かった」


 担任教師は、その直後に自己都合で辞職したらしい。


「その後も様々な噂が流れては消えていきました。飛び降りる瞬間に『たすけて』と繰り返し叫ぶ声を聞いた者。事件当日に学内に謎の影を見た者。そのどれもが証拠不十分で、数度の捜査の後に警察も匙を投げました。未解決事件、そういうことになっています」

「それが、マツキさんの忘れられない体験ですか……? こんなの記事にできませんよ」

「話を最後まで聞きなさい」


 マツキさんは眉根を寄せ、それでいて口許は笑っていた。奇妙な印象さえ残る曖昧な表情だ。そのまま口を開くと、彼は大きく溜め息を吐く。


「私は知っています。本来、校舎の屋上は教師が施錠する決まりです。そんな状態で、彼女がなぜ屋上に行くことができたのか。簡単な話ですよ。その日の施錠担当は、私でした」

「マツキさんが施錠を忘れていた……?」

「不思議なことに、捜査中にそれを追求されることはありませんでした。無数の容疑者のおかげで誤魔化す事ができたのでしょう。それでも、意識ばかりは隠せません。ある日、飲みの席で件の話をふと口走ってしまったんですよ」


 マツキさんは苦笑しながら、僕に自らの手を見せる。その手は、小刻みに震えていた。


「消えないんですよ、感覚が。そんなはずはないのに。ただ施錠を忘れただけで、彼女が死に至る原因には何も関わっていないはずなのに」

「……マツキさん」

「火のないところに煙は立たないはずなのに。噂が流れて、この手は覚えている。人を突き落とした感覚が、飛び降りる瞬間の背中が。こびりついて消えないんですよ」


 流れた噂の正体は、聞かなくても想像できる。それは、きっと。


「言うなッ!」


 マツキさんは大きく口を開けて笑う。ハハハッ、ハハハハッ。

 火のないところに煙が立ち、虚は真に変わっていく。その瞬間を、ICレコーダーだけが捉えていた。


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火のないところに @fox_0829

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