修繕師タンポポは決意した

江藤 樹里

第1話 修繕師タンポポ


「結婚⁉︎ 聞いてませんけど⁉︎」


 神殿中に響き渡るのではと思うほどの声が出たけれど、声の大きさなんか気にしている場合ではない。あたしは神様を直す修繕師として正式に神官様に依頼を受けてやってきただけだ。それがどうして、着いて早々に婚礼の儀を執り行うなんてことになっているのか。


「言ってないからな」


 当の神官であるシロガネ様はけろりと答える。大真面目な声と作り物めいた綺麗な顔で。ふざけていないのは判る。この数日でこのシロガネ様がどういう人かあたしも判るようになった。


「あの、修繕師様ですよね……? 神殿で神の修繕を行うならば神官様との婚姻は既知の事実……特段シロガネ様よりお話がなくても不思議はないと思いますが……」


 神殿で出迎えてくれた綺麗な女の人がそうあたしに話しかける。そうなの⁉︎ と思うから目を丸くして驚いたら、誰もが頷いた。正式な修繕師になったのはつい二日前のあたしは、くぅ、と顔を赤らめる。知らない。偏屈ジジイもそんなことは言っていなかったし──言うような機会がなかったのは重々承知だけど──世間に疎い自覚もある。


「何だ、俺との結婚は不満か。だが神を修繕するにはこれしか方法がない。まだ神殿から動かす許可が出るほどの状態ではないからな」


 シロガネ様は淡々とそう言うけれど、シロガネ様こそ嫌じゃないんだろうか。あたしみたいなちんちくりん。世間擦れしている自覚はある。でもそれはシロガネ様も同じだろうか。


 嫌なわけではない。でもだからといって良いものでもなくて、何と言ったものか判らずあたしはうめき声を漏らす。噛み締めた歯の隙間からぐぎぃぃ、という音が出ても神殿の誰も表情を変えない。此処は決断の時。腹を括るしかない。


「……分かり、ました。これしか方法がないなら、仕方ありません。早く仕事に移りたいので。結婚しましょう!」


 これは仕事だ。そのために必要な手続きのひとつに過ぎない。神殿の人にとっては当たり前のことで、人ひとりの結婚がどうこうよりも神様の動向の方が最優先だ。何せ、国ひとつの存亡がかかっている。


「あぁ、よろしく頼む、タンポポ」


 シロガネ様は少しだけ頬を緩めたように見えたけれど、真面目な声であたしに言う。よろしく頼む。比類なき依頼の言葉に、あたしは是と答える以外の言葉を持たない。


「勿論です! 修繕師タンポポに、まっかせてください!」


 だからあたしは張った胸に片手を当てて自信満々に笑ってみせる。こんなことになるなんて思いもしなかった。


 話は、七日前に遡る──。


* * *


 ざぁぁぁぁぁ……。


 雨が降る。いつもなら実りの雨と喜ばれるはずの雨が、今は人の心に重たい雲の影を落としていく。空を憂う人々の顔は誰もが不安に彩られていた。何処の橋が流されそうだ、彼処あそこの畑が呑まれたらしい。次は我が身に降りかかるのではないかと怯えるのは道理と言えた。


 ──王都から高名な神官様が派遣されたそうだ。


 ──このチグサの国まで辿り着くのはいつになるかね。間に合うと良いんだが。


 ──隣のワカタケ村だって修繕師が行ったきり帰ってきやしない。今頃“ひずみ神”に呑まれて荒野になってるかもしれんぞ。


 ──このコガモも同じになるだろうさ。チグサの神殿から神様が運ばれてきていてもおかしくねぇ。


 ぬかるんだ地面に足を取られないよう気をつけながら雨の中を進む。喋る相手もいないとくれば先刻耳にした会話を反芻するのはあたしにとってはいつものことで。偏屈ジジイは寡黙だった。あたしが人との会話を覚えるのはそういうやり取りを見て学ぶしかなかったから、心の中でおじさん達の話に返事をする。


 同じになんてさせないよ。修繕師あたしがいるんだから。


 偏屈ジジイと同じようにはできない。あの人は本当に天才だった。修繕師らしからぬ、歳相応の老衰でくたばってしまったけれど。あたしだってあの技を見て盗んできたんだから。家の中の細々した食器とかはあたしが直していたわけだし、偏屈ジジイも眉は顰めたけど文句は言わなかった。


 目的の場所に辿り着く。降り続く雨のせいで増水した川は今や澄んでいた頃の面影をひとつも残していない。堤防は三日前に修繕済みだ。まぁあの偏屈ジジイが完璧な仕事をしていたおかげで、あたしがするのはちょっとしたメンテナンスだけだけど。でもこの橋はあたしが修繕しないと。この国に文字通り降り注ぐ厄災を更に増やすわけにはいかないのだ。他に手が空いている修繕師はいない。皆、隣のワカタケ村に派遣されて行ってしまった。


 ワカタケ村へ続く橋は石で造られているのに、ごうごうと流れる川波に呑まれて徐々に削り取られてしまっている。川は境界だ。どちらの国の神様の力も及ばない。でも、流されそうなのがこちら側なら、修復するのはこちら側の義務だろう。というか向こう側、見えないし。ワカタケ村は暗闇に閉ざされている。


 幸いにも削られた箇所は少ない。今は川の傍も危ないからと門番さんもいないようだ。この雨の中を暗闇に閉ざされたワカタケ村に行こうという人もいないと判断されたのだろう。その隙にあたしが橋の修繕を行って、流されるのを防ごうとしているわけで。


「よーしよし、修繕師のタンポポちゃんが来たからねぇ! 待ってて!」


 水を弾く加工が施されたローブのフードをあたしは少しだけ上げる。そっと濡れた石橋に触れれば、橋が助けを求めているように感じた。


 物には神様が宿る。


 大切に扱えば扱うほど神様はあたしたち人間を慈しんでくれる。大切にした人を、その家を、その家がある土地を、神様は守ってくれる。でも物はいずれ壊れてしまう。その時の神様はひずみ神になってしまっていて人間を守ってはくれない。これまで与えてきた祝福は同じ量の呪いとなって人々に降り注ぎ、命育たない不毛の土地に変えてしまう。だから修繕師がいる。


 あたしは背負っていた仕事道具の大きな刷毛ハケを取り出した。既に雨に濡れてしまっていたけれど、問題ない。あたしが使うのは空気中に漂う神気。纏った神気は例え火の中水の中、関係なく振るえるものだ。理論上は。


「火の中で使ったことはないけど、でもまぁ雨の中ではあるから。大丈夫大丈夫、タンポポちゃんにまっかせて!」


 あたしは深呼吸をひとつして、刷毛を構える。集中して空気中から神気を集めれば、神気が雨を弾いた。


「えいっ」


 振りかぶって、刷毛を下ろす。右に左に上から下へ。撫でた刷毛の下で削られていた石橋が徐々に修復されていく。削られた欠片はとっくに流され、もしかすると既に跡形もないかもしれない。それでも神気を集めれば、物は形を取り戻す。


 元の形を思い出させ、無から有を生み出すには相応の神気が必要だ。左から右へ刷毛をたった一度滑らせるだけでも大きく息を吐きたいほど集中が必要だった。呼吸を大きくしたって纏った神気に影響はないけれど、あたしは何となくそれを避ける。


 石橋は気にしなくても修繕中の物に息は吹きかけないものだ。息吹は生み出すものに必要なのであって、修繕師には必要ない。それが偏屈ジジイの拘りだった。


 だからあたしもそれに倣う。数少ない教えだ。外での修繕だってこっそりついて行ったから知っていた。屋内と屋外とでやり方は変わる。作法は変わる。外では懐紙を咥えることはできないから、せめて呼吸を整えて。


 此処には優秀な修繕師がいた。寡黙で、偏屈で、人付き合いが下手で、それなのに捨てられ泣きじゃくる赤ん坊を拾って十八年も住まわせてしまうような老爺だ。修繕師としての腕前は右に出る者がいないくらいで、そんなあの人を村の人も国の人も頼りにしていた。何でも直してきた。“ひずみ神”でさえ直してしまえるのではないかと囁かれていた。実際に直したことがあるとも噂になり、依頼人は後を絶たない。彼が老衰で亡くなった今でさえ。


「……あたしにだって、できるんだから」


 彼を訪ねてやってきた依頼人は誰もがもう彼はいないことを知ると目に見えて落胆した。その弟子だとあたしが名乗りをあげても首を振るばかりで。偏屈な修繕師は弟子を取らないことで有名だった。其処に居ついた娘が弟子だと言っても信じないのも仕方がない。仕方がないけど。


 だからといって偏屈ジジイがしていた仕事を引き継がないのは話が違う。村の誰も其処までのことはしない。人々の依頼を受けるだけで、依頼もない昔に作られ其処にあるものには目を向けない。あの人はそれに目を向ける人だった。誰もいないなら、あたしがやるしかないじゃない。


 刷毛を右へ、右へ、上から下へと優しく撫でて。石橋を撫でて、撫でて、撫でて。纏った神気が霧散しないようにぎゅっと集中して、あたしは石橋を修復した。ふう、と額の汗を拭って少し首を傾げる。うん、まぁ、愛嬌でしょ。可愛い可愛い。


 名前の通り少し黄色みを帯びた気がするけれど土砂降りの曇天にはこれくらいの華があった方が良いだろう。別に誰も石橋の一部が黄色くなったからって気にしないだろうし。


 あたしはフードを上げて額に張り付いた名前色の髪の毛を指先でぱらぱらと散らした。お日様が出ていれば綺麗に輝くあたしの髪は今は大雨の下でも強く咲くタンポポの花そのものだ。偏屈ジジイが名付けに困って春先に咲いていた花と同じ色の髪を見てあたしをそう呼んだ、と思っている。聞いたことはないから知らないけど。


「よーし、おーわりっと!」


 あたしは刷毛を背負い直す。霧散した神気は空気中に戻った。家に帰って着替えなくては。


 そう思って踵を返そうとした矢先、橋の向こうから声がした。


「待ってくれ、お前、修繕師か?」


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