ラジカルデイズ!!
蘇芳ぽかり
ぼくらのデアイ
ぼくは全力ダッシュしていた。
日頃から自主的な運動とは縁のない生活を送り、当たり前のように体育の授業が天敵。そんな生き方をしていながら、今だけは少なくとも「エウレカ!」と叫びながら全裸で街を駆け回ったというアルキメデスより速く走っていた。むしろ気分は走れメロスだろうか。体力も脚力も皆無だから、全ては意志と意地の力だといえる。もちろん僕は服を──何なら真っ黒な学ランを身につけているけれど。
足が地面について体を前へと蹴り出すたび、視界がぐらんぐらんと揺れる。河川敷の小道は細いけれど長く長く続く。
──意志も、意地も。
そんなものが自分にあったなんていうことが、驚きなんだけど──。
一生懸命走ったって景色は全く変わらない。犬を連れてウォーキングする人や、制服姿の下校中らしい学生たち、芝生の張られた堤防までの坂にすわって黄昏れる人々。並走する川は細かい波の間を黄金色にきらめかせて西へと傾き出した陽の光を乱反射させる。時折魚が水しぶきとともに小さく跳ねる。
小石につまずいて、体勢がかくんと崩れた。その拍子に「ずはぁっ……!」と息を吸い込んで初めて、走りながら
なんで?
なんでぼくが半ば死にかけながらも河原を疾走しているのか。
っそんなの……っ、決まっているじゃないか。
勝ち気な笑顔が思い浮かんだ。「かっかっか」という派手な大声と、どんな辛いことも吹き飛ばしてしまうような強い目と、それから笑うとぎゅっと真ん中に寄って間にしわを一本作る眉が脳裏に弾けた。
『お前は今日から、オレのダチだからなっ!』
ぼくの中にあった、ちっぽけだけどずっと前から確かにあった意志と意地を、思い出させてくれたのはあいつだ。ぼくはあいつに助けてもらったし、つまり恩と借りがある。そして今、今度はあいつが大変なことになっているのだ。半分はヤツの無茶のせいだけど、もう半分はきっとぼくのせい。
だから、ぼくは。
いや違うだろう、「だから」なんて理由をこじつける前に、ただ単純にあいつといると楽しいから。色のない、曇り空のような毎日を、強引にも一変させた太陽はあいつだ。暑苦しいほどに、眩しすぎるほどに、あいつは太陽なんだ。
がばっと顔を上げて一度深呼吸をし、それから再び走り出した。傾いていたメガネをぐいっと力ずくで押し上げた。
気分は走れメロス。うん、なるほどいい例えだ。
ぼくは友を、ぼくのせいでまずい状況に今いる友人を、助けに行く。ぼくは走っていく。あの夕日の沈みゆく方向へ。強く眩しく真正面から照らす光から顔を背けずに。
✵
ハナビシ、サチオ。
その名前を知らない人間は、多分ぼくの通う西高に今いない。
父親は〈
火のない所に煙は立たぬと言うならまあ五割ぐらいは本当かも知れない。ハナビシサチオ本人の素行を見ていると、そのことわざはさておいても噂を否定しきれない。去年西高一年生にして当時の粋がっていた三年生のグループを押さえ、今年に入ってからライバル校であり〈華火師会の〉管轄外にある東高の不良頭を喧嘩で泣かせた(もちろんこれは聞いた話だから本当かはわからない)。年下も女子も容赦なし。暴力上等、口喧嘩も負けなし。売られた喧嘩は一つ残らず買う主義。「ハナビシ様と呼べ」と誰に対しても──教師に対してすら命令。様をつけて呼ばないと殴ってくる(これも真偽不明)。遅刻は当然、授業をサボるのも当然、だけど市の中ではそれなりにいい位置にあるこの西高に入れているぐらいだから勉強はそこそこ(これは多分本当)。不健康な行動に比べて本人は至って健康。たばこはやらないし、毎日九時には就寝。一日に牛乳を一リットル飲むそうだ(もうわけわからない)。
つまり、長々と説明しておいて言いたいのは……一言にまとめると「ハナビシサチオはとにかくヤバいヤツ」。
一年生の間、同じ学年にこんなヤツがいるらしいのをぼくは嘘だと思い込んで暮らしていた。そんなにめちゃくちゃな人間がいることを信じられないあまり、空想上のみに存在する人間なのだと本気で思っていたのだ。だが今年のクラス替え。蓋を開けてみれば同じクラスにハナビシサチオがいた。その時のぼくの戦慄は言い表しようがない。わかってくれますよね?
そんなだったから、ぼくは目をつけられたくないがためにとにかく目立たないように日々を送った。とはいえそこまで努力したわけでもなんでもない。いつもどおり自分の机のある約半畳の区画を住処として、ひっそりと教室に生息していただけのことである。ぼくは平和に生きる草食動物だったし、ハナビシサチオは同じクラスにいてもなお伝説上の生物のままだった。なにせ教室にいるのは朝と授業始めだけで、出席確認がされたらさっさと出ていってしまうから。
共通点がない。生きている世界も違う。きっと今年も、それから先だって、関わりのないまま過ぎ去っていく人。ぼくとあいつの間には、決して決して超えられない深くて大きな溝が横たわっていたはずなのだ。ついでに高いし厚い壁もそびえ立っていたし、時空の歪みだって出来上がっていただろう。だけど。
だけど、なんの悪戯かあっさりと一瞬だけ繋がったきっかけがあった。強欲なあいつはその一瞬を逃しはしなかった。
全てはあの春と夏の境目の日に。
きっかけは自転車だ。
西高の生徒の約半分が電車やバス通学で、残り半分のそのまた半分は徒歩。最後に残った四分の一がぼくを含む自転車通学だ。全校の四分の一、つまりだいたい百五十人が自転車通学だから、日中には校舎裏にある数列の駐輪場が全て埋め尽くされる。
その日授業を全て終えたぼくが帰ろうと駐輪場に行くと、ちょうどぼくが自転車を置いたはずの二列目の隅に人が集まっていた。近づきながら目で数えた。二、三、……四人だ。全員男で、体がでかくて、それから制服をだらしなく着崩している。この列にいるからには同じ学年なのだろうが、あまり関わりのなさそうなタイプの人たちだった。
「あの、すみません……ちょっとぼくの自転車だけ取ってもいいですか……?」よせばいいのにぼくはそのまま近寄って行った。なんでだろう。多分大した意味はなくて、早く帰りたいなあなんて思っていただけなのだ。だってもうすぐ定期テストだし、いつもどおりに全教科百点を取りたいから勉強しておきたい。今回少し危ういのは英語だと思っているので今も手には英単語帳だ。
だけどちょっと考えなし過ぎたようだ。ぼくの言葉に、四人のお兄さんたちはシンクロした動きでこちらを振り向いた。そのうちのワイシャツを第二ボタンまで開けて鎖骨をむき出しにした一人が低く姿勢を落として「あぁん?」と睨め上げてきた。
「この一番端っこの自転車、ぐるぐるメガネのやつ?」
ぐるぐるメガネって誰のことだ。おお、ぼくのことなのか。それを認識すると同時に、「これはもしやまずい状況なんじゃ」と頭の中で警報が鳴り出した。あまりにも遅すぎるんだけど。
「は、はい……ぼくのなんですけど」
「へー、そりゃあヤバいなァ、ぐるぐるメガネ」「一体どうしてくれるんだろうねえ」「ベンショーかな、いやそれじゃつまんねぇか」他の三人のうちの二人──小柄なやつとスポーツ刈りのやつが同調した。
「なにが、ですか」
まずいぞまずいぞ、と頭の中の警報の音量が大きくなる。わかってるってば。でも警報が鳴ったところで脱出不可能なんだってば。──「なにがァだってよお、小生意気に」第二ボタン開け男が鼻で笑った。
「見ろっての。あんたの自転車がトミーの自転車の上に倒れてんだよっ」
トミーって誰のことだ。おお、残るあと一人のことなのか。さっきから一番うしろで無言のまま目の奥を光らせている少し髪をキザに伸ばした男だ。目が白濁しているように見えるのは、カラーコンタクトか。そこに宿るぎとぎととした脂っぽい光は、この状況を面白がっているようだった。……なんて、そうじゃなくて今は自転車だ。ひどい、ほんとに隣のなんだか薄汚い「トミーの自転車」の上に倒れ込んでいる。でも少し不自然じゃないか。いつもどおりにここに停めたはずだし、今日は対して風が強いわけでもないのに、自転車が倒れたなんて。
「なにぼーっとしてんのぉ? まずはトミシマくんにごめんなさいでしょー」
一番小柄なやつがニヤニヤしながら唇を尖らせた。「トミシマくん、オキニの自転車傷つけられて悲しんでるよぉ? しかもめちゃくちゃ高級なやつなのに」
「ご、ごめんなさ……」
「そんなんで許すわけねえだろうがよっっっ‼」
その瞬間凄まじい衝撃が膝裏から全身に抜けて、痛いと思う間もなくぼくは膝を折ってへたり込んでいた。そのまま後ろから右肩に重みがのしかかってきて大きく上半身が前に崩れる。
「ぐはっ……」
唾液が口の端から垂れた。顔のすぐ前にコンクリートの灰色の地面があった。なるほど、声からしていつの間にかスポーツ刈りが背後に回り込んで、俗に言う膝カックンをかましてきたらしい。で、今は足で押さえつけているというわけだ──などと冷静に俯瞰して自分を観察している存在がいるということは、既にぼくの意識は途切れかけているわけで。
視界がゆっくりと斑に黒くなってフェードアウト……できなかった。今度は襟首を掴まれてガクガクと揺すられていたからだ。
「おいこら、寝るんじゃねえ」
「俺らのトミー様はお怒りなんだよ」
「ここでシメると後でセン公とめんどくせぇことになりそうだから、いったん場所変えるぞ」
えぇ……?
そういうわけで、半分気絶した状態のままぼくは
仰向けに芝生の上に転がされた。
そして蹴られた。
まずはボール遊びだ、とばかりに四人がかりで蹴られ、ぼくはぐふぐふと呻いていた。分厚いメガネが嫌な音を立ててどこかに飛んでいった。酷いことに人間というのは案外タフに作られているらしい。ぼくの意識は半分ぐらいぼくの体を出ていながら完全には抜け出せないのだった。おかげでずっと苦しいじゃないか。
涙とも言えない水滴の滲んだ目を薄く開けて、内心笑っていた。もちろんその間キックの嵐は続いているわけなんだけど。なんだか本当に可笑しかったのだ。
これってただの憂さ晴らしなんだろう。
誰でもいいんだろ……ぼくじゃなくても、誰でも良かったんだろ。
今までぼくは自分で言うのもナンだが真面目に生きてきたのだ。少なくとも名前も知らない人に迷惑をかけるようなことは無かったはずだ。なのにどうしてこんな目に合わなきゃいけないんだろ。こいつらからすれば、ぼくなんてぼくじゃなくてもいいその他大勢だ。あーあ、いるとなんて思ってないけどそれにしたって神様はあまりに理不尽だな……まあ仕方ないのかな、所詮ぼくはそういう役柄ってわけ? ツキのない運命ってやつですか。
「やっぱいいストレスカイショーになるわ」
「さーて、次はこれっしょ」
「お、さすがトミシマくん準備がお早い! 金属バットを持参してくるとはお見事っ!」
「いけいけ、やっちゃえよ、トミー」
もうなんだか他人事みたいにどうでも良くなってしまったぼくは、静かに瞼を閉じた。薄く眼球の周りに張っていた水分が、溢れて耳の方に零れ落ちた。もういいよ、さっさととどめを刺してくれ。
「じゃあせっかくだしカウントダウン! ……さん! にぃ! いぎゃっっ」
がこん、どさ、どさ、という音を地面を通じてもろに感じた。おいおい、なんで地面を殴っているんだよ。っていうか「いぎゃっっ」ってどんな掛け声だよ。抗議しようと思って目を開いたら、さっきまでとは違う顔が視界にぬっと入ってきた。空の夕焼けで逆光になっていたし、視力の関係で全体的にぼやぼやしているが、そいつがチェシャ猫みたいににっと笑ったのはわかった。
「起きたな、
こいつ誰だ? こんなやつ見たこと無……いや、ちょっと待った。見たことあった。毎日授業始めだけ教室にいていつの間にかふらっと出ていく──。
とっさにぼくは叫びながら体を起こした。
「ハナビシ様!」
それから体の至るところの痛みに「あうっ」と顔をしかめる。ついでに周りを見たら「トミシマくん」以外の三人が芝生の上に伸びていた。完全に白目を向いている。信じられない、ぼくは今さっき気絶することの難しさを知ったところだったのに。
意外と近くに落ちていた日々の入ったメガネを拾い上げてから、慌てて目の前に仁王立ちしているハナビシサチオの方を向いた。絶対にこいつだけは怒らせるわけにいかない……などと思いながら顔を見たら、ハナビシサチオはきょとんとして目を見開いていた。束の間の沈黙の後、ヤツは笑いだした。「かっかっか‼」とのけぞりながら、心底おもしろそうに。
「初対面で様付けかよ。かかかっ……ウケるじゃんか、机坂勉クンよ」
ハナビシサチオはぴんと人差し指を立てた。
「決めた! これからオレのことは
「はぁ……?」
「お前は今日から、オレのダチだからなっ!」
えー、ちょっと待って下さい。全然意味がわからないんですけど。というか。
「なんでぼくの名前知ってるんですか」
訊ねてから、なんて馬鹿な質問だろうと思い直した。この人とは一応同じクラスに存在しているわけだから知っていて当然だ。ところがハナビシサチオは「別に前から知ってたわけじゃねえ、知ったばっかだよ」と言う。そういえばヤツは既にぼくのことを初対面呼びしているのだった。
「これが落ちてたからな、そうじゃねーかって思っただけだよ」と掲げて見せたのはぼくの英単語帳だ。それを見てようやくはっとなった。
「あっ早く帰って勉強しなきゃ」
そうだそうだ、こんなところでぼくは何を。
座ったまま単語帳を返してもらおうと思って手を伸ばした。ところがハナビシサチオはひょいっと単語帳を川の方に投げてしまった。ひゅーん、どぼん。そ、そんなあ……。
「こんな勉強なんて人生って短い時間の無駄遣いだろ」
「……」
「家帰るより先に落としてきた荷物取りに行くぞ」
そういえばそうだった。荷物なんかも全部置いてきて──というか落としてきてしまったのだった。ハナビシサチオは駐輪場にこれが落ちていたのを見て、それから折り重なって倒れた自転車を見て、それで状況を察知したらしい。学校を出れば探すまでもなくここにいるのは見える。でも、だからって。
「なんで助けに来てくれたんですか」
ヤツは笑っただけだった。「なんとなく」
「ってかダチなんだからデスマス禁止な」
「でも……」
「オレは生まれついてのヒーローってわけだ」
「ヒーローが人を殴っていいのかよっ……じゃなくていいんですか……いや、いいのかな」
「っせえ!」
せえって……、文脈から察するに「うるさい→うるせえ→っるせえ→っせえ!」ってわけか。まったくもってわけがわからない。ため息を押し殺したぼくに気付いた様子もなく、ハナビシサチオはくるりと背を向けて真っ直ぐに夕日の方を指さした。カッコつけすぎだろ。びしっという空気の鳴る音が聞こえてきそうだった。
「オレは一匹狼だ。群れて弱いやつを襲うような汚えことはしねえ、そういうやつこそ殴って矯正してやらなきゃだめだよなっ!」
だめだよなって言われても。しかもあっさりと「ダチ」であるぼくのことを「弱いやつ」と言いやがった。いやいや、そもそも「ダチ」ってぼくは認めてないし。なんでこの人はこんなにもツッコミどころ満載なのだろう。意味分かんないよ。意味分かんないーって思うのに、なんでだろう。ぼくは肩を揺らして笑っていた。そんなぼくに、ハナビシサチオはくるりと振り向いて驚くでもなく満足げな表情で一つ頷いた。「立てよ」と言った。もうすぐ沈む日が、真っ赤に辺りの何もかもを焦がしていた。
「立て、机坂。体が痛かろうが痣だらけだろうが、お前は自分の意志で立ち上がらなきゃいけねえ。立ち上がって殴ってきた相手を睨み返すぐらいの根性、見してみろ」
わかってる、とぼくは呟いて、差し出された手を取った。ふらつきかける足をぐっと踏ん張って対上がる。相変わらずズキズキ言っている全身が更に悲鳴を上げたけれど無視だ。それよりも握ったヤツの手に、ぼくは少しはっとなっていた。
「この手で、三人も伸したのか……」
ハナビシサチオの手は、ぼくのものよりも小さかったのだ。驚くことでもないのだろうが、以外だった。ヤツは一瞬だけ表情を止めてから、また「かかかっ」と笑った。手がぱっと離れる。
「三人どころか、累計でいけば楽々二十人は行くぜ? 三人は余裕だな」
「痛くないの?」思わず訊ねた。どうせ「そんなの痛くも痒くもねえ」的な答えが返って来るのだろうと思っていたが、違った。
「痛いさ」
「……!」
「痛いに決まってらあ、人殴ってんだから。だけどそれが大事だ。人に痛みを与えるなら、殴る自分もそれなりの痛みを感じるべきだ。やっぱ素手じゃなきゃな。そうは思わねえか?」
ぼくは何も言えなかった。だって当たり前だ。人を殴ったことなんて、激しい口喧嘩をしたことだってないのだから。変な間をおいて突っ立ったぼくに、ハナビシサチオは「ほら、学校戻るぞ」とだけ言ってさっさと歩き出した。
駐輪場に置いていた自転車は壊れていた。ボコボコに凹んだボディとグニャグニャに歪んだカゴを見るに壊されていた、といったほうが正しいか。多分ハナビシサチオの襲撃に遭って一人逃げた「トミシマくん」が憂さ晴らしに蹴りつけて行ったのだろう。重なって倒れていたはずのもう一台は消えていたから。使い物にならなくなったぼくの自転車と、それからカラスに襲われたゴミ袋並みに中身が散乱したリュックサックが、暗くなってきた学校の自転車庫に転がっていた。
「ああっとその……なに、落ち込むなよ」
後ろからハナビシサチオに言われて、ぼくはゆっくりと振り返った。なぜだかぼくは、ちっとも落ち込んでなんていなかった。なんて言えばいいんだろう。ぼくを明確に狙ってきたやつがいて、でも結局殴られるのも蹴られるのもぼくじゃなくていい役柄で、それがなんとなく悲しくて。悲しかったんだけど、なんだか今は。
「おいってば、なんとか言えっての。自転車ぐらいオレがどうにかこうにかして直せるさ……多分」
「大丈夫」
呟いてから、そうだこれが言いたかったのだと腑に落ちた気がした。あんまり辛くないのは、辛いけどでも平気だって思えているから。ハナビシサチオが変な顔をした。ぼくは笑いながら「大丈夫だよ」ともう一回言った。
「花ちゃんが直そうとしたら、余計にひどいことになりそうだし」
ハナビシサチオが──花ちゃんが大きく目を見開いて、それから満面の笑みで親指を立てた。眉根がぐっと寄ってくしゃくしゃになった顔は、少しだけ幼く見えた。
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