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「……どうして僕なんかのことが好きなの?」

 ついに悠乃が僕への想いを言葉にして告げてきたとき、最初に口をついて出たのはそんな疑問だった。後から思い返すと、それはひどく残酷な言葉だったのかもしれないと思う。それでも彼女は真っ直ぐ僕と向き合い、その質問に答えてくれた。

「実はずいぶん昔に一度咲人くんと会ったことがあるの」

 それは僕が親の転勤について、各地を転々としていたときのことだった。ちょうど中学に上がる直前くらいの時期で、僕はすでに新しい土地で友達を作るのを諦め、何とか周囲に煙たがられないよう振舞うのが上手くなっていた。

「私は当時運動も勉強も苦手で、背が低くて太っていたから、自分のことが大嫌いだった。クラスではよく言えば愛されキャラ、悪く言えばみんなから見下されていて、どん臭い私がいることで周囲を安心させていた。そんな自分が嫌で嫌で仕方なくて、でも嫌われるのが怖くて、何もできずにヘラヘラしている毎日だった」

「そんなとき、私のクラスに転校生としてやってきたのが咲人くんだった。他の同級生たちよりも大人びた雰囲気があって、光のない真っ黒い瞳がちょっと怖かったのを覚えてる」

「別に咲人くんとは仲良くなったりすることもなかった。転校生だからって意識したのは最初の数日で、その後は正直クラスにいることも忘れていたくらいだった。咲人くんはそれくらい目立たない子だったし、きっと自分から目立たないようにしてたんだよね」

「だから、私が咲人くんと会話したのは一度だけだった」

「その日はみんなで近くの公園に行って、好きなものを模写してくるという授業があった。私は隅に生えていた真っ赤なツバキの花に目を奪われて、それを夢中で観察しながら描いていたの」

『何描けばいいかよくわかんなーい』

『その辺のお花とかは?』

『えーなんかおばさん臭くない? どうせ花を描くならもっと可愛いヤツがいいなー』

「近くを通りかかるクラスメイトの会話が聞こえてきて、私はハッとした。こんなのを描いてたら、またみんなに馬鹿にされてしまう。そう思うと急に怖くなって、途中まで描き進めていたスケッチブックをめくって、もっとみんなが集まって描いている方に向かうことにした」

 ――どうして途中で止めちゃうの?

「一度も話したことのない咲人くんが、突然後ろから話しかけてきたからすごく驚いた。そして同時に、見られたくない場面を見られていたことが恥ずかしくて、半ば自暴自棄な気持ちでさっき思ったことを口にした」

 ――でも、描きたいと思ったから描いたんじゃないの?

「そう言って咲人くんは不思議そうに首を傾げていた。馬鹿にしているんではなくて、純粋に疑問を抱いているような感じだった。その顔を見て、私は急に堪え切れなくなって、自分がずっと悩んでいたことを打ち明けたの」

 ――もっと自分を大切にした方がいいよ。

「私の支離滅裂な吐露を聞いて、咲人くんはそんなことを言ってくれた」

 ――どんなに馬鹿にされても、嫌われても、自分だけは自分自身を許してあげないといけない。

「結局私はツバキの花を描かずに、公園の真ん中にある噴水を描いた。咲人くんともその後は一度も会話しないまま、すぐに転校して会えなくなった。でもずっとそのとき言われたことが頭の中に残っていて、そのおかげで少しだけ前向きに生きられるようになったの。どんなに馬鹿にされたって、嫌われたって、自分っていう味方がいれば大丈夫なんだって」

 正直言って、悠乃の話はまるで記憶になかった。彼女の顔をまじまじと見てみても、幼い頃の姿が想像すらできない。そもそもあの時は全部がどうでもいい気がして、ただ毎日が過ぎていくのを眺めていただけだったから、ほとんど何も覚えていなかった。

 しかし、だからこそ当時の僕がそんなことを言ったのが意外だった。他の人に興味なんてなかったし、変に周囲から浮かないように余計なこともしないようにしていたはずだ。それなのに、わざわざ話したこともない女の子に説教染みたことを言うなんて、よほど彼女に対して思うことがあったのだろうか。

「だから、高校に入って咲人くんがいたときは本当にびっくりした。仲良くなっていくと、やっぱりあのときの咲人くんだってわかって、ずっと私に勇気をくれた君のことが好きだったって気付いたの」

 こんなにも必死に想いを伝えてくれる彼女に、僕は何も答えられなかった。彼女は変わらないと言ってくれたが、そのときのことを覚えていないどころか、今の僕はそんなことを言えない自分になってしまっている。

 きっと僕は自分自身を許せていない。だから、彼女の想いが羨ましくて、眩しくて、どうしようもないくらいに不快だった。


「私のシナリオはどうでしたか?」

 住野さんのシナリオが終わった日の部活帰り、僕は彼女と二人で電車を待っていた。

「ごめん。僕のせいで結局中途半端に終わっちゃって……」

 体験入部もかねて、いつもと同じように三回に分けて彼女のシナリオを使った『本作り』を行った。みんな初めての恋愛シナリオだったにも関わらず、ちゃんと物語を動かすように振る舞っていて、途中まではいい感じに進んでいたと思う。

 しかし、僕は他のみんなのように上手く役に入り込むことができなかった。というより、役が自分と重なりすぎたせいで、物語を動かすことができずに終わってしまった。

 本来のシナリオの流れでいけば、愛を知らない咲人が悠乃の想いに触れて愛を知っていくというストーリーが自然なはずだった。実際、誰かを好きになるという感情がわからない僕には適任だった。

 松原咲人という人間を掘り下げていくうちに、どこかで彼が見つける愛の一端を僕自身も理解できるのではないかと思っていた。けれど、シナリオが進み、咲人に向けられる様々な悠乃からの感情に触れても、一向に僕の中での変化が起きない。

 何より問題だったのが、次第に咲人と自分の境界が曖昧になり、混ざり合ってしまったことだった。どこかに明確な線を引くことができれば、もしかしたら咲人としては悠乃の愛に応える方法を見つけられたかもしれない。少なくとも、シナリオ上でそういうふりができたはずだ。それなのに、咲人と僕はあまりに芯が似すぎていて、結局役として割り切ることもできないまま、曖昧な結末でシナリオを終えることになってしまった。

「いえ、こちらこそすみません。恋愛ものなんてやりづらかったですよね」

 彼女は逆に申し訳なさそうに言う。新入生に気を遣わせてしまって申し訳ないと思いつつも、上手い返しが見つからず、「そんなことは……」と頼りなく彼女の言葉を否定することしかできなかった。

「先輩はなんで文演部に入ったんですか?」

 そんな僕の態度でさらに気を遣わせてしまったのか、彼女は話題を変えようと質問を投げかけてきた。

「なんで、って言われると難しいな……」

 きっかけは白坂先輩の強引な勧誘であることは間違いないが、辞めようと思えばいつでも辞めることはできたはずだ。今もこうして居座り続けているということは、少なからずあの場所に居心地の良さを感じているということだろう。それはきっと最初の『本作り』で味わったあの感覚が気に入ったからだと思う。

「自分という存在は何なのか。何のために生きて、どうして死なずにいるのか。自分が本当は何を求めているのか。そういうことを知りたいと思ったからかな。文演部で、特に白坂先輩のシナリオを通じてなら、それがわかる気がしたんだ」

白坂先輩は自分自身を騙して生きることはグロテスクだと言った。その言葉通り、彼女のシナリオはいつも深い内省を促し、自分自身と向き合わせてくれる。

「でもそれって何だか自傷行為みたいですね」

 彼女はそんなことを言う。

「わざわざ苦しいこととか答えの出ないことを考えるのって、一見すると正しいように思いますけど、それに陶酔してしまってはいけない気がします。生きるためには自分を大切にしてあげなくちゃいけなくて、そのためには、曖昧で、矛盾していて、不格好な自分を許してあげることが必要なんです」

 そんな風に、松原咲人が語っていたのと同じようなことを口にする。

 その意見はすごく理性的なものに思えた。理屈では理解できるけれど、納得はできない。破滅的だと言われても、生きるために生きるよりも、自ら死を選ぶことのできる人間でありたいと思ってしまう。

 会話が一瞬途切れたタイミングでちょうど電車がやってきて、僕たちは人の疎らな車両に乗り込む。すっかり暗くなった外の景色に対して、等間隔につけられた古ぼけた蛍光灯は少し頼りないように感じる。

 何と返せばいいのかわからないまま、僕たちは微妙に間隔を開けて座席に座った。向かい側には隣町にある学校の制服を着た女子生徒が楽しそうにスマホの画面を見せあっている。

 本来なら気まずいはずの沈黙も、電車が揺れる音が上手く誤魔化してくれていた。数分で次の駅に辿り着くと、住野さんはここで降りると立ち上がって扉の方へ近づいていった。

「……やっぱり、覚えてないですよね」

「え?」

 去り際に彼女が何かを言った気がしたが、扉の開く音に紛れてよく聞こえなかった。

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