夢よ生えて

おくとりょう

過ぎた色々

「はぁーっ!腰いてぇーっ!」

 カンカンと照りつける夏の日射し。小さな畑のど真ん中で、ぐぅーっと背伸びをした。バキバキだった身体を伸ばすと、すぅーっと何かが流れていくみたいな気がして、思わずホッと息がこぼれる。

「もう半分くらいは植え終わったかな」

 独りごちて辺りを見渡すと、ひんやりとした風が苗を優しく揺らして吹き抜けて行った。お洒落な美容院でハサミを握っていた自分が、数年後まさか泥まみれになって土いじりをしてるなんて想像すらしなかった。数ヶ月前には自分の店も開いたところだったのに。いや、美容師をやめたわけでもないけど。

 それに後悔や迷いがないわけでもない。ただ、閉じたまぶたに浮かぶのは、風になびく黒い髪。子どもがつくった色水みたいに鮮やかな青空の下。彼の男性らしからぬ長い髪は妙に艶やかで、ほんのり甘い香りがしていた。


――――――――――――――――――――――――――――――


「よっ!久しぶり」

 その日も、照り返すアスファルトの熱がユラユラ見えるほどの快晴だった。お客さんもいなくて、人も車もまばらな道をぼんやり眺めていた夏の午後。もうずっと終わらないようにすら思えたそんな日に、先輩は突然訪ねてきた。

「最近暑いから少し髪の毛すかして欲しいんやけど、今、パパッと切れたりする?

 長さはこのままで。いつもみたいに。ほら、お前やったら、ええ感じにできるやろ?」

 少し汗ばんだ顔で微笑む彼は、昔より少しやつれていて。……なぜかとても幸せそうだった。


「急に押しかけてしもてごめんなー!最近忙しくってなー。今日はちょっと買い物で出てきてんけど、お前の店がこの辺なん思い出してん。暇やったら、切ってくれるかなーって」

 相変わらず、マイペースな先輩。

「はは、ごめんな。いつも勝手ばっかりうて」

 ちょっぴり寂しそうな横顔。二人きりのときにだけ見せるその表情は昔から全然変わらなくて、やっぱりズルい人だと思った。


 初めて会ったのは中学のときだった。部活がオフなのを忘れて、更衣室に行った後。誰もいない更衣室の暗さに、妙に気持ちが萎えてしまって、いつもは通らない校舎の側を歩いていた。

 すると、ふわーっと薫る胃袋を刺激する匂い。花に誘われる虫のように、ふらふらと引き寄せられた。

 匂いの出所は家庭科室。女子が家庭科で使っているのは知っていたけど、男子は金属加工で別の授業だから、俺たち男子には関係のない場所だと思っていた。

 でも、家庭科室にいたのはひとりの男子。長い髪を頭の上の方でまとめ、ワタワタと机の前を動いている。野菜を切っているかと思えば、鍋の様子を見て、冷蔵庫に何かしまって、何かを出して……。

「おっ、珍しい。お客さんやん。そろそろ出来上がるし、食べてってや」

 にっこり笑う彼を見ながら、「エプロン姿がよく似合うなぁ」とぼんやり考えていたことを覚えている。

「好き嫌いある?苦手なヤツは置いといてええから、とりあえず食べれるヤツを食べて感想聞かせてよ」

 あれよあれよという間に、目の前にちょっとした定食が並べられる。その温かな薫りは、見知らぬ男子の手料理だというのに、食欲を強く刺激した。

 だが、このときの料理の味を俺はもう覚えていない。ひょっとしたら、食べなかったのかもしれない。

 俺が茶碗に手を伸ばしたとき、先輩の手がぽとりと落ちた。まるで、手品みたいに。

「悪い、オレの手たまに落ちんねん」

 先輩は恥ずかしそうに笑うと、照れ隠しでもするように、「かじると甘いねんで。デザートにひとくち行っとく?」と頬を赤らめて首を傾げた。ヤバい男に話しかけてしまったと後悔した。


 ……なのに。

「おっ、いらっしゃい。今日は肉じゃがあるで」

 なのに、俺は家庭科室に頻繁に行くようになった。

 先輩は料理部に入っているらしい。他にも部員はいるのだが、すぐ身体がもげる先輩の体質にビビって、幽霊部員になったのだとか。

「別にいつでも取れるわけちゃうんやけど、急に隣でバラバラになられたら、そりゃ怖いわな」

 先輩は哀しそうにしながら、今日取れたらしい手首をかじっていた。取れる体質の人たちも無闇にバラバラになるわけではなく、感情が動いたときだけ取れるらしい。

 初めて会った日以来、彼の身体が落ちる場面を俺は見ていない。作った料理を俺が食べるのを見ながら、自分は落ちた指とか手とかをかじっているので、いつも取れてはいるようだけど。

「気持ちの影響が大きいから、慣れたら"普通の人"のふりもできんねん。……いや、できるはずなんやけどなぁ」

 俺は何といえばいいか分からずに、黙って肉じゃがを頬張る。黄色と茶色の中に紛れた優しい朱色。先輩の肉じゃがにはいつもニンジンが入っている。ほどよい歯ごたえの甘いそれは、普通のニンジンより美味しい気がした。

「はーぁ、鍛練が足りませんわ」

 先輩は取れた手をポイっと口に放り込み立ち上がると、いつものように「宿題しとき」と言って俺の食べた食器を流しに持って行った。さすがに全部まかせるのは申し訳なくって、机の周りを片付ける。

「のんびりしといてくれたら、かまへんのに」

 皿を洗う先輩の後ろ姿。窓から流れ込む風がカーテンを揺らし、視界の端に青空が映った。

 あぁ、彼の艶やかポニーテールを横目に、俺はあの日何と言ったのだったか。あのとき、振り向いた先輩の驚いた顔と嬉しそうな顔が今でも忘れられない。


――――――――――――――――――――――――――――――


「おーっ、涼しくなったわー!さすがやなぁ。ありがとぉ」

 先輩の声にハッと我に帰った。少し高めに留めたポニーテール左右に揺らして、鏡を覗き込んでいる先輩。俺はその綺麗なつむぎをぼんやり眺める。長身の先輩を見下ろすのはこうやって散髪をするときだけだ。

「……もっと短くしなくて、よかったんですか?」

 何とはなしに言葉が口から出た。他のお客さんにもたまに言っている言葉だった。

「えぇねん、えぇねん。義弟おとうとがさ、この髪お気に入りみたいでな。短くするってうと寂しそうな顔をするから」

 先輩が立ち上がると、髪の切れ端がふわぁっと舞った。ちゃんと全部払ったつもりだったのに。

「あー……そういや、言ってなかったな。こないだオレ、結婚してん」

 嬉しそうに揺れる黒髪。その下の、妙に白いうなじ。お会計の後、「またオレん家にも遊びに来てや」と笑う先輩に「こちらこそ、またのお越しをお待ちしてます」と返した俺は意外と穏やかな声をしていた。それにホッとしながら、閉まった扉のガラス越しに歩き去る黒髪をぼんやり眺めていた。それがよかったのかは今でもわからない。

 仕事に戻ろうと振り返りかけた瞬間に、大きな影が青空を隠して、先輩の身体が吹っ飛んだ。『人通りが少ないから、ちょっと油断していた』らしい。トラックの運転手がそう言っていたとあとで聴いた。


 そのあとのことはあまり覚えていない。

 ただ、お通夜のあと、店に帰ると切った髪がまだ残っていて、さっきまで先輩はここに居たんだなぁと少し寂しい気持ちになった。いつもなら、すぐに捨てるその黒い塊が何だか大事なものに思えて、捨てずにしまった。



 それから、しばらくして。スーパーで新じゃがを見かけたとき。急に先輩を思い出した。側にニンジンがあったせいだと思う。

 彼が亡くなって、二年くらい経っていた。

『またオレん家にも遊びに来てや』

 最期になった彼の言葉はきっとそういう意味ではないのだろうけど、一度お参りに行こうと思った。彼の家は見るからに新しく大きいマンションで、オートロックはもちろんあるし、玄関ホールも広かった。ハイテクな感じのエレベータを降りた先。ピカピカの廊下に並んだ扉から、不安そうに顔を出したのは物静かな男の子だった。

 彼のお姉さん、つまり、先輩の奥さんは仕事で居ないらしく、俺はとりあえずお線香をあげさせてもらった。知らない大人の男が居るのは義弟くんも落ち着かないだろうと思い、すぐに帰ろうと振り返ったとき、動物みたいな息遣いが聴こえた。義弟くんの胸に抱えられたのは、死んだはずの先輩の頭だった。

「えっと、その、姉が研究者で。義兄にいさんみたいな、そういう体質の人たちのことを研究してて。それで、僕が寂しくないように……って」

よく知っているはずの綺麗な顔。いつかのように目が合うと、口から漏れるのは耳慣れた関西弁、ではなく、獣みたいな低い唸り声。義弟くんがあわてて頭を撫でると、気持ち良さそうに目を閉じた。俺はようやく彼が死んでしまったのだと飲み込めた。


「お兄さん、義兄さんのお友だちなんですよね。良ければ、義弟さんの話聞かせてください」

 義弟くんには愛想よく応えられたと思う。「また遊びに来てください」と少し明るい顔で見送られたから。

 だけど、頭の中はもやがかかったようにぼんやりしていて、気づけば広い田んぼの間の道を歩いていた。水の張られたばかりの田んぼに並んだ苗の青はとても初々しく見えた。

 吹き抜ける風が心地よい。優しく揺られる稲の苗に、ふと先輩の綺麗な黒髪を思い出した。

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