√−1
結城綾
変える顔
「ねえ──君、ここのお店何だけど……」
夕暮れの黄昏色に染められた小講義室で、最近話題になっている和菓子屋について話していた。
文字だけじゃ何気ない恋人との会話のように見えるけど、そこには日常であって非日常の光景があった。
電子式フルフェイスヘルメット──いわゆるスマホ機能を搭載したデバイスを被って、互いに
相手側には二次元や三次元の虚空に等しい画像が添付されたり表情認識機能を使った喜怒哀楽が表現され、内側にはネット検索や簡単なARゲーム、SNSなどの充実した機能が使用できる。
俺の生まれた頃からにはヘルメット着用が義務付けられ、生まれてこの方本当の顔をまだ知らない人もいるそうだ。
「ねえ、
「ごめんごめん、考え事してたわ」
「もう、しっかりしてよね」
頬が膨れたギャル美少女の画像が表示され、腰に手を当てる
「でさ、この苺大福今日食べに行かない?」
「ちょっと塾の確認だけしていいか?」
「いいよ〜」
かわいらしい小指をなめらかに触る、同時に甘いシャンプーの匂いも漂ってきて思わず
恋余った感情が出てしまい、彼女の顔が暖かく見つめる画像にへと変化した。
真っ赤になった赤だるま顔のまま、目線を逸らしつつカレンダーを開く。
このヘルメットは脳の知能補助チップと連動しているから、いつでも思い通りにアプリが開く。
最初は思考中に頭がごっちゃになったり脳の神経が絡まった感覚が絶えずしたけど、こんなのは慣れの問題だ。
「えっと……今日塾ないから予定空いてるぜ」
「そう!なら今すぐにでも行きましょう!?」
「焦るな、まあ焦るなって!」
若干はだけたカッターシャツと捲り捲ったスカートが混同して、俺の服とごっちゃになりそうになる。
「そろそろ退いてくれると……」
「私が重いっていうの!?」
「いえ決してそんなことではないんですが……」
「じゃあこのままでいいよね!」
「はいはい」
「これじゃ私まるで子供じゃな〜い!」
「子供だろ」
「あ、そっか」
静寂な放課後の学校に笑いが立ち込めて、賑やかな空間となる。
彼女といるといつもそうだ。
どれだけ冷え切った氷菓の空間でも、愛嬌で全てを変えてしまう。
俺もその愛嬌に救われた人間の一人だ。
彼女の背中には、天にも舞うほどの羽衣を身に纏っているような気さえした。
◇
ヘルメットから溢れる墨色の糸、それは無数で実数の髪の束。
とかした髪は反射板としての役割にも使えると思う。
太ももと左胸にポツンとつけられた点と点、線引きをしたらより一層美貌となるはずだ。
飲みかけのサイダーが机の上に乗せられていて、さながらキャンパスに描かれた一つの作品。
彼女もその作品の一つ、存在するだけで価値のある……そんな人。
「ねえ、富久君……」
「なんだ?」
きょとんとしていた俺を眺めて、ヘルメットに手を添える。
「キスしよう、ねえキッス」
「……キスってどうやって」
「そんなの簡単だよ」
この後の台詞は何となく想像していた、していたしずっと言って見たかったけどなかなか言えなかった。
──
支払いは電子式、顔パスならぬIDパス、食事に見えるは唇のみ。
親でさえもそんな虚数でできた世界を肯定しつつあり、そのうちデザイナーベイビーが主流になるのではと連日ニュースで討論される。
ヘルメットは仮面であり偽りであり、ペルソナでもあった。
多様性を謳い続けた√−1はいつしか実数と間違われ、みんな蛙化に恐れ項垂れていた。
俺もそんな恐怖に支配された内の一人。
何がいいか悪いのか、社会が決め始めているのに気がついて自己肯定感も失いつつあった。
……彼女はそんな壊れた内面を認めてくれたのだ。
趣味や性格、生き様に弱音を認めてくれて、同時に俺もそんな彼女に惹かれていった。
だからこそ見せたくない。
醜い蛙に化かされた俺を、見てほしくない。
「ヘルメ」
「また今度にしよう」
「え?」
彼女が言い終える前に、僕の言葉によってノイズキャンセリングされる。
「どうして?」
彼女は怒るでもなく憐れむでもなくただ純粋に聞いてきた。
「キスならアプリ上でいくらでもできるじゃん」
事実、そういった踏み込んだ行為さえデジタルで完結する。
「どうして?」
「どうしてって……苺大福買わないとね!?」
せっせと小講義室の外にある空の彼方へレッツゴー!
しようかと思い椅子から立ちあがろうとすると、
「どうして?」
と一方通行からの通行止めを喰らってしまった。
ひ弱な腕力で正直いってすぐにでも引き離せたが、それはできそうになった。
「うっ……ううううっっっ」
鼻水を啜る音、首筋が濡れていく様子。
何よりも悲哀に満ちた表情が表示されていたから、これより先前には進めなかった。
「どーどーどー、ごめんごめんって」
「どうしてキスしたくないの!?」
「うお!?暴れんな、怪我するだろ!」
両足をジタバタと右往左往に動かして暴走しようとするのを必死に止めようとする。
そんなのはお構いなしに彼女は周辺にある椅子や物を投げてくる。
「むうううううう、もう帰る!」
待ってと声をかける前に、飛び出して出ていってしまった。
辺り一面には、散らばったゴミとお菓子、そして飲みかけのペットボトルだけだった。
呆然としていると、ふと目にはいった時計には六時三十分の表示。
「やっばい!こんな時間だと何かあっても──おかしくない!」
大急ぎで元の状態に修復してから、ペットボトルを手に持って一階の外へ直通している階段を下っていった。
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