祟り

めへ

第1話

顎の辺りに水を感じ、満ち潮がようやくここまで来た事を悟った。

右の目は投げつけられた石によって潰れており、何も見えない。もう片方の目も腫れて殆ど今は役に立たない状態だ。


満ち潮が頭頂にまで達したら、もはや虫の息すらできなくなるのだが、不思議と恐怖を感じなかった。

十字に作られた木に両手を広げる形で縛り付けられ、折られた腕が体の重みに悲鳴をあげていた。海に沈めば、この腕を苦しめる重力からも解放されるだろう。


しかし水が頭頂に至る前に、縛り付けられていた手足がふっと軽くなった。そして、そのまま深い海の底へ体が沈んでいくのを感じながら、徐々に気が遠くなる。



目覚めると、視界の先に木でできた天井があった。目が見える、それも両目共に。触ってみたら、潰れたはずの右目が元通りになりもう片方の目の腫れもひいていた。体中が痛かったのに、今は不自由無く動かす事ができる。


周囲を見渡すと、そこは日本式の家の一室の様で、布団が一式敷かれそこに清潔な白い寝間着を着せられ寝かされていた。


障子を軽く叩く音がし、びっくりして見ると障子の向こうに人影があった。

声を出す事もできずに、どうすれば良いのか分からず固まっていたら戸が開き、花模様の着物を着た黒い長い髪の女が「あら」と少し驚いた顔をしている。


「目が覚めたのね、具合はどう?」


女が労わる様に、しかしさりげなく言いながら側に寄り、正座した。

女は抜けるような白い肌をしており、切れ長の一重瞼、ふっくらとした桃色の唇の平凡な顔で、どこにでもいそうな平凡な、そして親しみ易い顔立ちをしている。


「骨や内臓なんかは治しておいたから大丈夫。痛くないでしょ?」


女は「安心しなさい」とでも言うように微笑んだ。

骨や内臓、潰れた眼球などを元通りにするこの女は一体何者なのか。そしてここは冥界かと思ったのだが、どうやら違う様だ。


「あの…」


「なあに?」


「あなたは一体、誰なのでしょうか?」


まず助けてもらった感謝を述べるべきであった、と言ってしまってから気付き後悔した。

しかし女は不快に思う様子も無く「私は海の神。海神。」と答えた。


信じられない事を、あっけらかんと目の前の女は言う。しかし、あれだけ損傷していた体をこうも元通りにされてしまったのを見ると、女の正体が腑に落ちる。少なくとも、人間ではない。


海神といっても彼女は世界中の海を支配下に置いているわけではなく、この辺り近辺、一部の海域を治めている。海神各々の治める海域の範囲は人間のあずかり知らぬところであるとの事だ。


ある日、水面に異常を感じた海神が見に行くと、木に縛りつけられた満身創痍の女が一人居た。何事かと驚きつつも、その女の拘束を解き自らの屋敷に連れ帰ったのだと言う。

その女が私であった。


私は自分の事を話すべきだと思ったが、満身創痍の体が治っているにも関わらずかなりの疲労を感じており、とても話せる気がしない。

それでも何某か話すべきかと考えていると


「今日はもう、休んだ方が良いと思うわ。」


海神がそう言って私を寝かせ、布団をかけた。


「喋りたくなったら、何でも話してちょうだい。私の方は全く急いでいないから。」


そう言うと、襖を開け部屋を出た。

私はしばらくまどろんでいたが、間もなく海の底へ沈むように、夢も見ないで済む深い眠りに落ちていった。

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