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イヴァンが屋敷を出て一週間後、路上で凍えていたところに車が止まり、あの男性が降りてきてこう言った。
「さあ、家に帰ろう」
それから風呂に入れられ、温かいスープとパンを与えられ、その日は何も言わずに部屋のベッドで眠った。
翌日、朝食の後でイヴァンは男に呼び出され、執務室のドアを叩いた。
「入れ」という、普段よりもやや強い語気に怯えながら入室すると、男は書類仕事をしていた。イヴァンは何を言われるものかと覚悟しながら男の言葉が聞こえてくるのを待ったが、一向に何も話し出さない。流石に耐えられなくなり、イヴァンの方から頭を下げ「すみませんでした」と謝罪をした。
「謝るのなら、何故あんなことをした?」
「どうしても確かめたかったんです」
「何を?」
「ぼくの春が、既に失われているのかどうかを」
男は羽ペンを置き、腕を組んでイヴァンを見た。低く唸り、彼が続きの言葉を紡ぐのを待っているようだ。
「春の意味を考えなさいと、先生は言いました。それでぼくは他の子たちに聞いたり、図書室で本を借りて調べたりして、自分なりに春というものについて答えだと思われるものを見出しました」
「だから家出をした、と?」
「家出というより、以前の暮らしの感覚を思い出そうとしたんです。男娼をして日々を生き延びていた頃、どう感じ、どう生きていたかを」
「それで、どうだったんだ? 私が見つけた時には凍え死ぬ寸前だったように見受けられたが」
「比べるまでもなかったです。今の、この暮らしの方がずっといい。ただ」
そう。イヴァンは家出をする前からそうなることは予想できていた。少なくともここにいれば食べること、寝ることの不安はない。友人と呼べる人間はいないが、助けを求めれば誰かは手を差し伸べてくれるだろう。寝ていて突然殴ったり蹴られたりすることもない。空腹が嫌で、何とかするためにゴミ箱を漁る必要もない。
それなのに「ただ」という言葉が漏れる。
「ただ?」
「一歩踏み出した先に何が起こるか分からないという驚きや期待感は、ここにはありませんでした」
その答えに男は「ほお」と低く唸り、頬を緩ませる。
「ではそれが君の春ということかな?」
「いえ。あんなものが春ならそれこそさっさと売ってしまいたかったですよ」
「やはり君は少し他の少年たちとは違うようだ。勉強に励み給え」
それだけ言うと先生は再び書類仕事に戻ってしまった。もっと何か言われるものだと思ってしばらくそこで立っていたのだが、ただ部屋にペンが紙の上を滑る音だけが響く。
イヴァンは「失礼します」とだけ言って退室すると、自分の部屋に戻った。
学校の授業は相変わらず分からない部分が多かったが、それでも読み書きの能力だけは次第に向上し、分からない言葉を調べながら簡単な本を読めるまでには成長した。
屋敷にやってきてから半年が過ぎ、イヴァンの定位置は図書室へと変わっていった。春とは何か、という問いについて何度か先生に「こう思うんだけど」と話してみたけれど、どれも「それは違う」としか言われず、その度にイヴァンは自分の考えを捨てなければならなかった。ただ、そういうやり取りを楽しいと、次第に感じるようになってきてはいた。
窓から覗くと落ち葉が風に流されていくのが見える。そんなある日、図書室の奥で古びた一冊の本を見つけた。『春を食べる鬼』という子ども向けに書かれたと思われる本だ。表紙にはゆるゆるとした太い線で角を生やした大男が描かれ、その前を子どもたちが逃げ回っている。内容はかつてこの世界に“鬼”と呼ばれる化け物が暮らしていて、その鬼は人間を食べて生きていたそうだ。しかも鬼の好物は「人間の春」で、鬼に春を食べられた者は抜け殻のようになってしまうという。
けれどその鬼にもやがて寿命が訪れる。人間よりは遥かに長く生きたものの、それでもいつかは死ぬのだ。お話の中の出来事なのに、その単純な事実がイヴァンには酷く印象的だった。
道端で倒れたまま動かなくなった鬼に、一人の少年が尋ねた。
「どうして春を食べているのに死ぬの?」
それに対する鬼の回答はこうだった。
「いくら精神が若々しく保たれていたとしても体は朽ちて果ててしまう。そのことに本当は気づいていたけれど、若さはそれを無視してしまっていたんだ」
慌てて帰宅したイヴァンは執務室の扉を叩いた。だが中から返事はなく、玄関前を歩いていたジェームズに大声で尋ねると、ついさっき救急車で運ばれて行ったところだと教えられた。
男にも寿命が訪れたのだと、その時のイヴァンは思った。
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