スペア

吉野玄冬

第1話

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。


 釣鐘型の空間、まるで大きな鳥籠のような部屋の中心に、わたしは立ち尽くしている。

 取り囲む壁は漆黒で、正面と斜め後ろには計三つの真白な扉。

 気を取り直してその内の一つに歩いていき、ノブを掴んだところで声が言う。


「そちらの扉ですね。では、こちらの扉を開きましょう」


 左側にあった扉がひとりでに開かれた。その先には壁しかなく、扉は霧のようにフッと消える。不正解の証だ。


「さて、もう一つの扉に変えますか? それとも変えませんか?」


 わたしは逡巡せずに残った扉へと歩いていき、開け放った。


「っ……」


 眼前に広がったのは、壁。握っていたノブごと扉が消滅する。

 直後、瞬く間にわたしの身体は部屋の中心に移動し、周囲には再び三つの扉が並んでいた。不正解を引くとこうしてリセットされる。


「チャンスは残り二回です」


 わたしがここから出るには、あとたった二回のうちに正解の扉を引き当てる必要があった。





 一条いちじょうみお。それがわたしの名前だ。

 年齢は二十一歳。身長は163cm。体重はしばらく測っていないが、元々痩せ型なのが更に痩せ細っていると思う。健康的な身体をしていたのはもう随分と前の話だ。

 覚醒した時にはこの部屋に囚われていた。意識を失う直前のことは良く覚えていない。大きな断絶と深い靄がある。

 状況が分からずに戸惑っていると、天から降り注いで空間に響き渡るように、玲瓏な声が聞こえてきた。


「三つの扉の中に一つ正解の扉があるとします。あなたがその中から一つの扉を選ぶと、司会者が残った扉の内の片方を開きます。司会者は答えを知っているので、必ず不正解の扉を開きます。その後、あなたは初めに選んだ扉をそのまま開くか、あるいは残ったもう一つの扉に変えて開くかを選ぶことができます。さて、変えない場合と変えた場合で正解する確率は異なるでしょうか?」

「モンティ・ホール問題……」


 わたしは思わず口にしていた。

 確率に関する有名な例題だ。小さい頃に姉に教わったことがある。

 答えは、変えた方が確率が上がる。三つの扉なら、変えない場合は1/3だが、変えた場合は2/3になる。これは初めに選んだ扉が正解かそうでないかで考えると分かりやすい。


「知っているなら説明は必要ありませんね。今からあなたには同じことをしてもらいます。三つの扉から正解の扉を開くことができれば、この部屋から出られます。チャンスは七回」


 それだけあれば、確率的に失敗することはほぼあり得ない。けれど、当然の疑問がある。


「もし七回とも失敗すれば?」

「この部屋からは二度と出られません」


 それは死とほぼ同義だろう。ただ、そのことにわたしは何とも思わなかった。


「さあ、扉を選んでください」


 促されたので、正解を目指すことにする。

 そうして素直に従った結果、わたしは五回連続で外すことになったのだった。

 確率で考えれば1/243だ。絶対にあり得ないとは言わないが、信じられない。

 そうは思いながらも再び試す。扉を一つ選ぶと、残りの片方が開かれたので、わたしはもう片方の扉を開く。眼前に広がる黒い壁。瞬く間に定位置の中心へと戻される。


「チャンスは残り一回です」


 声はいよいよだという調子で述べた。

 これで1/729。いくら何でもおかしい。何か裏がある。そう考えた方が自然だ。

 そもそもの話だが、扉が霞のように消える様や身体の瞬間移動は、とても現実とは思えない。

 この状況は一体何なのか。どれだけ考えても答えが出そうにはなかった。


「次で最後です。今回くらいは変えないことを選んでみますか?」

「…………」


 声は容易いことのように言ったが、わたしは押し黙るしかなかった。

 確かに普通の人なら確率なんて関係ないと判断して、扉を変えないことを選ぶかもしれない。

 でも、わたしにはそれができない。確率という分かりやすい指針に逆らって、自分の意志で何かを選ぶことができない。

 だって、一条澪は己の意志も価値観も持たない、空っぽな人形に過ぎないのだから。





 わたしは姉である一条しずく代理品スペアとして生まれた。

 目も、腕も、足も、内臓も、何もかも、全てが彼女の為に存在した。


 雫は稀代の天才だった。超人的な知性の持ち主だった。

 その要因は、脳が過剰な発達をしたことにあるらしい。リンクスワンがどうとかグリア細胞がどうとか、詳しくは良く分からないけれど、それは本来なら損傷してしまうはずなのに、奇跡的に正常に機能していたと言う。


 雫は幼少期から異常な能力を持っていた。本を速読し、瞬間的に記憶し、正確に理解する。それは瞬く間に彼女を大人でも太刀打ちできない領域へと押し上げた。

 その異次元の天才ぶりはすぐに政府に認知され、協力を依頼されることになった。


 雫が様々な分野で次々と成果を出していく中で、両親は考えた。彼女の身体に何かあった時の為に予備を用意しておこう、それは神にも等しい子供を授けられた自分達の義務だ、と。

 その為に子供を作った。それが、わたし。一条澪という人間。


 わたしに求められたのは、とにかく健全な体を維持すること。

 ある程度の教育は必要だと考えられ、学校には行かせてもらったが、危険なことは徹底的に禁じられた。送り迎えは車でなされ、体育の授業は見学、友達と遊びに行くこと等は決して認められなかった。

 学校から家に帰ると、外から鍵の掛けられた部屋で過ごし、ノルマの運動をこなした後、栄養管理された食事を食べて、風呂に入って眠る。各行動の時間も厳密に定められている。それが小学生のわたしのルーティンだった。


 その頃、雫は既に多くの偉業を成し遂げていて、国家の判断までも委ねられるようになっていた。彼女の存在は国家機密に指定され、外部には秘匿されていた。

 雫の扱いは現人神そのものだった。偉い人達の多くが彼女に神託を求め、その指示に従った。


 けれどわたしにとっての姉は、目を覚ました時になぜかよく同じベッドで眠っている人でしかなかった。毎日ではないが、夜中の内に潜り込んできているようだった。わたしが布団から出る為に動いても起きる様子は微塵もなく、いつもあどけない寝顔を晒して熟睡していた。

 時折、わたしが起きている時間に帰ってきて、少し話をすることもあった。当時はまだ九九も習っていないわたしに、体の成長が止まっているかのように幼い姿の雫はこんなことを言った。


「これがモンティ・ホール問題。情報によって変動する確率の不思議さが分かる。人はいつだって世界を蓋然性で理解しているし、その根幹には確率がある。だから、確率という概念については学んでおかないといけない」

「うん、わかった、お姉ちゃん」


 その時々で様々な知識を授けてくれたが、いつもすぐにこくりこくりと船を漕ぎ出すので布団に運んだ。朝は彼女が起きるよりも先にそのまま両親がどこかしらへ連れて行った。政府の機関だったり、他国だったり、その日によって色々だ。


 そんな風に日々は過ぎていったが、わたしが中学校一年生の時。

 雫は死んだ。交通事故だった。ハンドルを誤った車に轢かれて命を落とした。

 彼女は常に厳重に警護されていたはずだったが、その時だけはなぜか一人きりでいたらしい。他国の陰謀が疑われたものの、その証拠はどこにもなかった。

 それに、雫から大きな恩恵を受けていた政府や多くの機関、そしてわたしの両親は謎を追及するどころではなかった。彼女の授ける神託抜きで物事を判断する能力は失われており、上り調子だった経済は急落していき、良好だった政治は悪化の一途を辿った。


 いつものように部屋の中で過ごしていたわたしは、珍しく両親にリビングへと呼び出された。電気も付いていなくて、滅茶苦茶に荒れ果てていた。

 今にもバラバラに崩れてしまいそうな様子で、両親はわたしに縋りつくように言った。


「澪なら雫と同じことができるようになるわよね。姉妹なんだから」

「もちろん今すぐじゃなくてもいいんだ、な?」

「うん、わかった」


 それは雫の体のスペアという役割を果たせなくなったわたしに、新たに与えられた役割。今度は彼女の存在そのもののスペアになる必要があった。

 けれど、今のままでは姉と同じことは到底できないのが明らかだった。彼女と同じように森羅万象の知識を蓄え、犀利さいりの知恵を獲得しなければならない。


 まずは東京大学の理科三類に入るように両親に言われた。日本で最難関と言われている学力試験で、それくらいは容易に突破しなければならないとのことだ。雫は小学生時代にはその問題を易々と解いていたらしい。

 それからは勉強漬けの日々が始まった。これまでの生活とは一変したが、少しも辛くはなかった。わたしはただ与えられた役割に従うだけで良いのだから。


 約六年の月日が流れ、わたしは無事に合格した。

 その後すぐ、両親は首を吊って自殺した。遺書によれば、六年もあったのにわたしが首席合格じゃなかったことに絶望したらしい。わたしは雫と同じにはなれないと悟ったようだ。

 そうしてわたしはまた役割を失った。次の役割を与えてくれる人もいない。


 しばらくの間は大学の指示に従い、学生としての生活を漫然と送った。

 ある時、同学科の男子に付き合って欲しいと言われたので付き合うことにした。こんな見た目にして欲しいと言われたからそうした。求められる度に体を許し、相手が望むことは何でもした。最後は人形のようでつまらないと振られた。別に何とも思わなかった。

 ただ、その交際を通じて学んだこともあった。美味しいとか気持ちいいとか、体が感じる快楽は意思を委ねさせてくれる。それはわたしが生きる新しい指針となってくれた。


 そこから後は快楽に溺れる日々だった。酒、煙草、セックス、薬。それらは自ら求めなくても勝手に向こうからやってきた。僅かに触れただけで引きずり込んでくる底なし沼のようなもので、堕落は簡単だった。

 猥雑で、退廃で、凄惨な光景が続く。その辺りの記憶は不連続で曖昧なことが多く、どれもダイジェストにした映像のようだった。後に進むにつれ欠落が増えていき、果てにはプツリと途切れている。暗黒だけが広がっている。


 そこから考えられる結末は、一つだった。





「……そっか。わたし、死んだんだ。だからこんなところにいるんだ」


 わたしは記憶を順番に辿っていき、ようやく現状に納得した。

 改めて自身の姿を見直す。皮と骨しかないような手足。病的に青白い肌。内も外も昔の健やかさは見る影もない無残な身体だ。いつ死んでもおかしくないような状態だったに違いない。


「厳密には、生きたいと思えば生きられるし、死にたいと思えば死ねる。そんな状態ですよ」


 釣鐘型の部屋に響き渡る声が訂正した。

 どうやらここは死後の世界ではないらしい。それなら、正解の扉を開ければ生きるということで良いのだろうか。そう思ったところで疑問が浮かぶ。


「じゃあ、生きたいと思えばここから出られるってこと? どの扉とか関係なく?」

「そうなりますね。選んだ扉が正解になるのは生きたいと思うことが条件です」


 声はしれっとした様子で言った。

 確かに『三つの扉から正解の扉を開くことができれば、この部屋から出られます』とは言っていたが、その中に常に正解があるとは言っていなかった。屁理屈も良いところだけど。

 モンティ・ホール問題になぞらえているだけで、これは問題でも何でもない。そんなものに確率論に従って挑む様はさぞ滑稽だっただろう。

 まあ、別にどうでも良いか。現状が分かってしまえば、もはや部屋を出る理由もなかった。


「生きたいと思ったことなんてない。死にたいと思ったことも」


 わたしは一条雫のスペア。それ以上でも以下でもない。既に役割を失った虚ろな人形。

 多分、世界は虚無的だ。本当は何の価値もない。全てが平等に存在しているに過ぎない。

 だけど、人はそこに価値を見出すことができる。それを意志と呼ぶのだろう。

 ならわたしは、普通の人のように意志を持たない。だから、この虚無的な世界に美を見出すことはできない。価値を感じることはできない。良いも正しいも美しいも何も分からない。自分で決められない。誰かの言葉に従うことや、体の快楽に流されることしかできない。


「もう、選ばなくたって良いんだよね?」

「構いません。じきにタイムリミットが来ます」


 手持無沙汰なわたしは、自然と楽な姿勢を求めて寝転がっていた。このまま眠ってしまえば、勝手に終わってくれるかもしれない。


「あなたにとって一条雫はどんな存在でしたか?」


 何の前触れもなく声は問いかけてきた。

 わたしは困惑する。そもそもこの声は何なのだろう。神様? それなら雫のことを知っているのは何もおかしくないのかもしれない。


「いつも穏やかな寝顔だった、かな」


 わたしにとっての姉はそのイメージしかない。話した時間で言えば大したことはないし、詳しい事情は両親が話していたのを漏れ聞いた程度で、具体的なことはほとんど知らないからだ。

 けれど、そこで声は驚きの真実を告げる。


「では知っていましたか? 彼女が重度の不眠症だったことを」

「えっ……?」


 思わず息を呑んだ。

 そんな話は初めて聞いた。両親が話していた覚えもない。


「過剰発達の影響か、雫の脳は常に膨大な演算を行っており、睡眠に支障をきたしていました。しかし、彼女はそれを周囲の人間には上手く隠していましたので、誰も気づくことはなかったでしょう」


 声は淡々と語っていく。わたしが知らない姉の姿が描き出されていく。


「雫は澪の前でだけは静穏な気持ちでいられました。妹は彼女に何も求めなかったからです。そこではただの、ありきたりの、姉と妹でいられたからです。それは彼女の孤独を満たし、深い眠りを与えてくれました」

「そんな……」


 悲痛な声が口から漏れた。

 知らない。あの寝顔の裏にそんな事情があったことも、想いがあったことも。


「雫は妹をその役割から解放することを考えていました。彼女の命令であれば、両親は素直に従うからです。一方で葛藤もありました。今のままの澪だから、純粋で透明な彼女だから、自分は安心できるんじゃないか、と。そうでなくなってしまえば、自分は唯一の安らげる居場所を失うんじゃないか、と」


 超越的な存在に見えていた姉の、人間らしい悩み。その中心にはわたしがいた。

 声の語りが止むことはなく、更に雫の心情を抉り出していく。


「その答えを出した直後のことでした、雫が命を落としたのは。彼女の傍には基本的に両親や警護の人間が付き添っていたので、一人でいることはありませんでした。ではなぜ、命を落とした時は一人でいたのでしょう?」


 誰も解き明かすことがないまま忘れ去られた謎。それを今、声が明らかにする。


「雫は自ら逃げたのです。課せられた全ての役割を投げ捨てる為に。もはや周囲の人間は彼女に只人としての生を許さない。であれば、逃げ出すしかありませんでした」


 姉はその役割を望んでいるのだと思っていた。

 けれど、違ったのだ。彼女はずっと囚われていた。だから、逃げ出した。


「その知性があれば、人を欺き脱走することは簡単でした。向かおうと思っていた場所は、自宅。その途上で思わぬ動きをした車に轢かれることになりました。予知に等しい演算能力を持ってしても、世界は混沌カオスで見通せるものは限られており、咄嗟に回避することは不可能でした」


 雫の死を他国の陰謀だと疑う者がいた。けれど、実際には単なる不運でしかなかった。彼女が脱走を決行したことが一因なのは間違いないが、それでも、運命の悪戯があっただけ。

 と、そこでわたしは一つの疑問を覚える。


「どうして、自宅に……?」


 雫が自宅を目指す理由が分からなかった。最初から別の場所へ向かっていれば、事故に遭わずに済んだかもしれないのに。

 しかし、声はその理由を明瞭に告げる。


「雫は澪を連れていこうと考えていました。もし妹が健やかに成長すれば、他の人間に対してと同じように、自分は静穏な気持ちでいられなくなるかもしれない。それでも、彼女と二人で生きていきたい。そう望んだからです」


 その言葉だけでも衝撃的だったが、声は姉の心情を端的に述べる。


「雫は、妹の澪を誰より大切に想っていました」


 わたしは未知の想いで胸中が満たされていくのを感じる。この感情は何と名前を付けるのか、分からなかった。

 疑問もある。どうしてこの声はそんなことを言えるのか。両親さえも知らない、きっと誰も知らない、姉の死の真相をどうして知っているのか。

 神様かそれに類するような存在なのかもしれない。それなら知っていても何もおかしくない。

 だけど、もっと簡単な答えが、一つ。


「お姉、ちゃん……?」


 わたしの呼び掛けが天を穿ち、素早い反応を呼び起こす。


「違う──いえ、違います。私が一条雫であれば、こんなことは赤裸々に語れません。恥ずかしすぎて死んでしまうでしょう」


 他人という体にすることで素直に口にできる、という意味にしか思えなかった。わざわざ喋り方まで変えて。どうして今まで気づかなかったのだろう。気づいてしまえば、姉の声にしか聞こえなかった。


「お姉ちゃん、わた、わたしは……」


 何を言えば良いのか分からないでいると、突如、部屋全体にノイズが走ったような感覚を得た。


「おっと、そろそろ時間のようですね」


 空間が崩壊していく予兆のようなものを感じる。きっとわたしの死が迫っているのだろう。


「あなたがもし生きることを選んでも、多くの苦難が待ち受けていることでしょう。このまま何も選ばずに死んだ方が楽なことは間違いありません」


 滅茶苦茶な生活を送ってきた代償は大きいだろう。人並みの生活を取り戻すには時間が掛かるだろうし、完全に戻ることはないかもしれない。

 そんな苦労をするよりも、ここでなら姉と一緒にいられるんじゃないか。あんなにもわたしのことを想ってくれる彼女が導いてくれるなら、他には何も必要ないと思える。


「ですが、雫はあなたが生きることを願っています」

「っ……」


 それはあまりに残酷な願いだ。わたしはショックを受ける。

 しかし、姉は言葉を重ねていく。


「モンティ・ホール問題には正解があります。けれど、人が生きることに正解はありません。生きることの正しさはあなたが決めるしかありません。その上で言います」


 空間の崩壊が加速していく。上の方から消滅し始めていた。もう一刻の猶予もない様子だ。

 そんな状況でも、姉の声は澄み渡って聞こえた。


「あなたは一条雫のスペアなどではありません。一条澪という一人の人間です。それを私が保証します。あなたが生きることの全てを祝福します。だから、あなたの好きなように生きなさい。あなたが美しいと思える道を行きなさい」


 微笑を零すようにしてから、付け加える。


「雫は、そう心より祈っている」


 姉の言葉は慈しみに満ちていて、何より温かかった。それはそっと背中を押してくれるようで、わたしは自然と立ち上がっていた。扉のノブを握ると、即座に残った内の片方が開かれて消えた。


「さて、もう一つの扉に変えますか? それとも変えませんか?」


 形式を守るように姉が問いかけてきた。言っていた通りなら、どれを選ぶかというのは重要ではないのだろう。それでも、わたしは自らの意志を伝える為に言う。


「変える、変えるよっ……!」


 そうして、もう一つの扉を開け放った。これまでのように黒い壁が立ち塞がることはなく、眩い閃光が溢れ出した。

 その先へと一歩、足を踏み出す。途端に意識が吸い寄せられるように薄れていった。





「…………」


 朧気な光景が徐々に像を結んでいく。無機質な白い天井に蛍光灯やカーテンレールが見えた。

 どうやら病室のようだ。身体は思うように動かず、目だけ動かすと何本もの管が伸びていた。

 かなり危険な状態だったことが分かる。どこでどういう風にそんな状態になったのかは覚えていないが、誰かがちゃんと救急車を呼んでくれたらしいことには感謝するしかない。


 それにしても、とわたしはたった今まで見ていた不思議な体験を思い出す。

 一条雫。声だけとは言え、既に死んでいる姉との邂逅。

 あれはわたしが自分の脳内に作り出した都合の良い存在かもしれない。勝手に辻褄が合うように構築しただけで事実は違っているのかもしれない。

 けれど、生前に催眠暗示のようなものを刷り込んでいたのかもしれないし、本当に生死の境で会える霊魂だったのかもしれない。あの姉なら何ができてもおかしくはないと思う。

 だから、わたしはあそこで聞いた話を素直に信じることに決める。わたしにとっての真実として心に抱いていくことにする。


 今になって自分が失ったものの大きさを知った。

 この世でただ一人、わたしのことを想ってくれていた姉。


「……う、あぁ……ぅぅぅ……ああぁぁぁぁっ……」


 わたしは声を上げて泣いた。胸の内から想いが溢れ出して止まらなかった。

 それは多分、わたしが生まれて初めて自分だけの感情として、誰かのスペアじゃない、一条澪として流した涙だった。

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