北海の旭日旗
@philomorph
プロローグ
”The Rising Sun at the North Sea,1916"
#1 Prologue
1916年5月31日午後、ユトランド半島西方沖。
大ドイツ帝国海軍高海艦隊(ホッホゼーフロッテ:注;第一次大戦当時のドイツ海軍主力艦隊の呼称で、日本の連合艦隊やイギリスの大艦隊(グランドフリート)に相当する。「大海艦隊」と訳される場合もあるが、イギリス大艦隊と区別しやすいように「高海艦隊」の訳語を使うことにする)に所属する、偵察部隊の主力である5隻の巡洋戦艦(それは当時ドイツが保有していた巡洋戦艦の全てであった)は、20隻あまりの駆逐艦などからなる水雷戦隊を伴って、一路北上を続けていた。
その先頭を進む旗艦リュッツォーの艦橋の上で、司令官ヒッパー中将は、刻々と寄せられる報告に耳を傾けていた。
すでに数十分前、前衛部隊の軽巡洋艦から敵巡洋艦を発見、交戦に入ったとの知らせが入っていた。
今日の彼に与えられた任務は後述するように小艦艇の支援などよりはるかに重大なものであるが、ともかく味方が敵—つまりイギリス海軍の部隊と接触をしたことはたしかである。
そして、イギリスの小艦艇の近くには、彼が求めている目標がいる可能性も高い。さしあたり彼はその救援に向かうつもりであった。
突然、艦橋の上にある射撃指揮所で観測鏡に張り付いて、西方はるか水平線付近に目を凝らしていた観測員から新しい報告が入った。
「西方より大型艦約10隻、復縦陣にて接近中。両側に小型艦艇30隻以上をともなう。距離約3万6千メートル。速力約24ノット。進路、ほぼ東。我が艦隊に真っ直ぐ近づいてきます。このままの速度では30分以内に主砲の射程内に入ります」
にわかに艦橋内が騒然となった。参謀達が口々に叫びながら双眼鏡を手にして西方の水平線付近を見つめる。
ヒッパーも自分の首に提げていたカール・ツァイスの双眼鏡を手にし、西方海面を覗いてみた。
水平線から西の空に立ち登る幾すじかの黒い帯と、水平線近くの海面に小さな黒い影が彼の視野の中にもはっきり捉えることが出来た。
黒い帯とは艦艇の煙突から出される排気煙に間違いない。
「艦型を確認せよ」
艦長が偵察員に命じた。
「……距離が遠い上、ほぼ前方からしか観測出来ないため、確認は困難です
が、先頭艦のマストにイギリス海軍の戦闘旗と将旗が見えます。旗艦に間違いな
いと思われます」
偵察員が少し間をおいてから報告した。
専任参謀が口を開いた。
「敵はイギリスの巡洋戦艦部隊とみて間違いないでしょう。24ノット以上の速
力が出せる大型艦は、イギリスには巡洋戦艦10隻と最新鋭のクイーンエリザベス
級高速戦艦5隻しかありません(当時の弩級および超弩級戦艦の最大速度は平均
21~22ノットしかなかった)。従って、敵はローサイス軍港から出撃してきたビ
ーティー中将の指揮する巡洋戦艦部隊以外に考えられません。」
他の参謀達も同意を示した。
ヒッパーはその言葉に小さくうなずいただけだった。ただ、彼の口にはかすかな微笑が浮かんでいた。
(ついにこの日が来た…我々ドイツ海軍軍人は皆、開戦以来この日を待ち
続けてきたのだ)
ヒッパーはこれから自分が果たすべき任務の重大さを感じて名状しがたい高揚感を覚えた。
ヒッパーは、1年数カ月前にも、少数の巡洋戦艦などを率い、ビーティーの率いるイギリス巡洋戦艦部隊と砲火を交えている。
1915年1月24日のドッガーバンクの海戦である。この海戦は、イギリスの沿岸砲撃に向かったドイツ艦隊の行動を察知したイギリス海軍がこれを阻止しようとしたため生起した。
このとき、ヒッパーはビーティーの旗艦ライオンを航行不能に陥れたものの、ドイツ軍は数で劣っていたこともあり、旧式な装甲巡洋艦ブリュッヒャーを撃沈され、他の艦もいくらかの損害を受けて逃走した。
ヒッパーの頭にはもちろん、前年の借りを返したいという気持ちもあったが、その時の経験から個艦の能力でドイツ艦がイギリス艦に決して劣ってはいないと確信はしていたが、2倍の敵と正面からぶつかって勝てると思うほど愚かではなかった。
この日、出撃していたドイツ艦隊は、ヒッパーの偵察部隊だけではなかった。総司令官シェーア中将の直率する高海艦隊の主力—そのほぼ全兵力がヴィルヘルムスハーフェンを出航し、ヤーデ湾で集結を終えた後、ヒッパー部隊の南方海面に展開していたのである。
つまり、ヒッパーの偵察部隊は最初からイギリス艦隊を引きつけるためのおとりなのであった。
世界第二の海軍国とはいえ、ドイツ海軍は当時世界最大のイギリス海軍と比べて、弩級・超弩級艦の数では6割にも満たない。
イギリス海軍を殲滅し、北海の制海権を奪取して海上封鎖を解かなければ、限られた資源しか持たないドイツの戦争経済はたとえ陸上の戦線は維持し続けたとしても、いずれ破綻する。
そこで、ドイツ海軍がイギリス海軍に勝つために考えられたのが、イギリス艦隊の一部を誘い出してこれを各個撃破し、その結果戦力の均衡が得られたならば、乾坤一擲の艦隊決戦(日本海海戦のような)を挑もうという計画であった(しかし、その決戦に勝てば良いが、負ければドイツの敗北がいっそう早まることもまた明白であった)。
従って、この日、ドイツ海軍主力はまだイギリス海軍との決戦を考えていたわけではなかった。ところが、ドイツ海軍のまだ知らぬところで、イギリス海軍は別の考えに基づいて行動を起こしていたのである。
まもなく、ヒッパーは艦長に面舵180度回頭の命令と、後続艦に対し旗艦に追従し順次回頭せよの旗旒信号の掲揚を伝達させた。
このまま北進すれば、シェーア中将直率の高海艦隊主力から距離が離れすぎる。
彼の任務は直接戦闘で敵を殲滅することではなく、敵巡洋戦艦部隊をドイツ主力の口元におびき寄せることにあった。
そこで、高海艦隊主力の展開する南海面に向かって転舵したのである。
結果、ドイツ艦隊は、東進しながら急速に接近するイギリス艦隊の進路上を横切るかたちになった。
もし、イギリス軍がそのまま接近を続ければ、水上艦同士の戦いで最も有利な陣形とされる、T字戦法をドイツ艦隊はイギリス艦隊に対してとれるのだが、イギリス海軍もそれは承知しているから、距離2万メートルあまり、互いの主砲の有効射程に入る直前で面舵を取り、南南東に変針して単縦陣をとった。これで両艦隊はほぼ同航しながら次第に距離を詰めて行くこととなった。
「全艦、右舷砲撃戦用意せよ」
旗艦リュッツォーから艦隊に旗旒信号で命令が伝達される。
「観測員、敵艦隊艦形照合せよ」
艦橋から伝声管を通じて射撃指揮所に命令が飛ぶ。
今度は、距離が詰まっている上、敵艦隊をほぼ側面から視認出来るため、艦形確認は容易になっている。
しばらくして、報告が送られてきた。
「敵艦隊主力艦単縦陣計10隻、先頭より1番艦ライオン級巡洋戦艦、2番艦ライオン級、3番艦ライオン級、4番艦タイガー級、5番艦インディファティガブル級、6番艦インディファティガブル級、7番艦…タイガー級?…8番もタイガー級?…9番艦もタイガー級?…10番艦まで…タイガー級?…と推測…」
観測員の報告の後半は、はなはだ不明瞭で自信のなさがうかがえた。連絡員の忠実な復唱を聞きながら、ヒッパーは思わず苦笑を浮かべた。
「馬鹿者、イギリス海軍にタイガー級巡洋戦艦は一隻しかないはずだ、5隻もあってたまるか、もう一度よく確認しろ!」
報告を聞いた直後、艦長が怒声を投げ返した。
「後続の4隻はクイーン・エリザベス級でしょう。他に巡洋戦艦に追従できる戦艦はないはずですし、インヴィンシブル級はスカパフローの主力艦隊に編入されているという情報が入っています。」
参謀のひとりがヒッパーに問いかけた。
ヒッパーは無言でうなずき返した。
彼の推測も同じであった。そして、2度目の報告を待ちながら、彼も右舷に見える敵艦の艦列に自分の双眼鏡を向けた。
先頭に将旗をかかげているのはビーティー中将の旗艦ライオンに間違いない。4番艦がタイガーだ。そして、彼は順に視線を後ろに移していき、件の7番艦に目を留めた。
「おや…?」
と、彼はふと違和感を抱いた。
そのシルエットは確かにタイガーに酷似しており、彼の記憶するところクイーン・エリザベス級とは異なるように思える。
(イギリスは新しい巡洋戦艦を建造していたのか…?)
ヒッパーの頭に疑念が芽生えたとき、彼の目に敵の7番艦の艦尾マストに掲げられた旗が目に留まった。
それは、ユニオンジャックでもイギリス海軍の戦闘旗でもなかった。中央の赤い丸から周囲に赤と白のストライプが放射状に伸びている。
「あの旗は…見たことがある。しかしあの旗は、まさか…!」
ヒッパーの頭脳が感情的には認めたくない論理的な解釈にたどり着いたのとほぼ同時に、それまで必死に各国海軍の艦形図を繰って調べていた観測員からようやく二度目の報告がもたらされた。
「報告訂正。敵主力7番艦から10番艦は金剛級。大日本帝国海軍の金剛級巡洋戦艦と確認」
大日本帝国海軍。彼らがわずか11年前、ツシマ沖でロシア第2・第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)を完膚無きまでに打ちのめし、近代海戦史上空前の完全勝利を挙げた事実は、その司令官アドミラル・トーゴーの名とともに、少なくともこの時代の世界の主要海軍の将官・士官の中に知らぬ者はまずいるまい。
「馬鹿な、なんでイギリスの巡洋戦艦部隊に日本艦隊が混じっているんだ!」
「やつらはオーストラリアからインド洋までしか進出していなかったんじゃないのか?」
「イギリスが日本に頼んで借りたのさ。イギリスが主力艦の数でいくら多くたって、世界最強の巡洋戦艦の金剛級は、喉から手が出るほど欲しいだろうよ」
「馬鹿を言え、世界最強の巡洋戦艦はわがドイツのこのデァフリンガー級に決まっている!」
「それはもうすぐ目の前でわかることだろうよ」
艦橋の中に一斉に巻き起こった参謀たちの喧噪をよそに、ヒッパーは双眼鏡を手にしたまま、凝然として立ちすくみ、敵艦隊の方をぼんやりと見ていた。
(俺たちは、イギリス艦隊だけでなく、日本艦隊とも闘わなければならないのか…あのトーゴーの部下たちと…果たして本当に勝てるのか…?)
彼の手のひらにはいつしかべっとりと汗がにじんでいた。
先ほどの高揚感は消え去り、ずっしりと重い不安が彼の全身にのしかかっていた。
すでに両艦隊の距離は2万メートルを切り、互いの有効射程に入ろうとしていた。
その時、日英混成の巡洋戦艦部隊の7番艦—大日本帝国海軍第3戦隊の旗艦である、比叡がそれであったのだが―の後部鐘楼に新たに信号旗が掲揚された。
旗艦リュッツォー他のドイツ艦隊からもそれは望見された。
「信号機Z」。
それは、11年前、対馬沖で大日本帝国連合艦隊旗艦「三笠」の艦上に掲げられたのと同じ旗だったのである。ヒッパーは、その意味するところを知っていた…
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