ヴェロニカのハンカチ

笠井 野里

聖ヴェロニカのはなし

「私のハンカチに、変な顔が浮かんでるの!」

 ヴェロニカが自分の災難を誇示するように見せつけたのは、真っ直ぐこちらを見ている、無表情な男の顔が真ん中に描かれた、気味の悪いハンカチだった。

「元々真っ白だったのに…… これ多分あの罪人キリストの顔よ」

 そう断言する彼女に、私は首肯しかねた。私はナザレのイエスを詳しく知らない。知っているのは死んだということだけだ。その旨を伝えると、ヴェロニカは、おしゃべりな女によくある饒舌で、喜々としてイエスについて語りだした。


――――

 よくわからないんだけど、イエスキリストって人が十字架引いてやってくるっていうから、暇だし見に行こうと思ったの。噂程度だけど、あのイエスのことも知ってたし。――え? どんな人もなにもないわよ。

 救世主を自称して、弟子に裏切られた男よ。マヌケじゃない? 教会の生臭坊主ファリサイ派も胡散臭いけど、この「ユダヤの王」もどうも大したことはなさそうな…… 奇跡を起こした! とか言って、パンとワインを手品のように出したってのが一番のエピソードみたい。俗っぽい、そんな救世主よ。

 ともかく暇だし見に行ったらね、行列が出来てて、皆でイエスに罵詈雑言ばりぞうごんを飛ばしてるの。聞いてて痛快なぐらい。イエスは頭にはが、フフフ。茨の冠ってのも変よね、でも仕方がないわ「ユダヤの王」なんだから。王冠ぐらいはつけてあげないと。

 皆で「ユダヤの王、万歳!」なんて言って唾を飛ばして、ボコスカなぐるから、全身真っ黒の血だらけでね、足の爪も剥がれてるし、十字架持ってるのにフラフラしてるの。生臭坊主どもが皆をたきつけてね、お祭りみたいだった。


 イエスが靴職人の家の前で休みたいっていうの、隣よ、隣の家。あの靴職人、そう。アイツ、イエスが死んでから頭がおかしくなったの。不死がどうとか、罪がどうとかずっと騒いで、夜中にわんわん泣くんだから、うるさいったりゃありゃしない。

 靴職人はまあイエスを無視して、それどころか跪いた真似して馬鹿にしてんだから。そうなるとしょうがない。イエスは泣きそうになりながらまた歩くんだけどね、アイツ体細いし、まあ体力も底つきたって感じかね。私の家の前で倒れてたのよ。

 兵士が鞭で叩くんだけど、家の前でそんなことされるのも嫌でしょ? 外に出て道路の一つ思い出が血で真っ黒のイエスの顔じゃ、外出の度憂鬱だわ。元々私ローマ兵も嫌いだし、早くどっか行ってほしいし、ハンカチをわたしてあげて兵隊を困らせてやろうと思ったんだけど、あの人もう動けないってんだから、ため息が出るわ。


 しょうがないから私が顔を拭いてあげたらイエスはニタっと笑ってね、なにか言おうとするんだけど、声がもう出ないみたいで、ハアハア聞こえるだけ。気味悪い。

 でも野次馬がいい子だねえなんて口笛吹きながら言うのは悪くなかったわね。ああいう皮肉は幾分か本当の褒め言葉が混じってるのよ。少し誇らしくなっちゃった。

 でもイエスは泣き言言って動かなくなっちゃって。兵士が野次馬の一人の、なんか浅黒いキレネのシモンに十字架を背負わせてたね。いやそうな顔してイエスに文句ばっか言ってたわね。――え? その黒いのは断じて弟子じゃないよ、彼の周りに弟子らしきものは一人も居なかった。驚いたよ。五千人を集めたって噂だったんだし。それなのに十二人のお弟子さんさえ周りにいないんだから。救世主ってんのに、そんなもんかねえ、人徳がなかったのかも。


 私は結局ゴルゴダまでついていったわ。暇だし。あそこの野次馬全員暇なのよ。人が死ぬとこは面白いけどね、あれは娯楽でしかないわ、仕事があったらそりゃあ仕事に行かなきゃ。

 イエスが磔にされてボロクソ言われてるのは面白かったわね。腹を抱えて笑ったわ。とくに、

「神の子ならば、自分を救ってみせろ」

 ってのはケッサク、そうだそうだなんて隣の強盗にまで言われるんだから、神の子もへったくれもないねえ。私も当然野次を飛ばしたわよ。


 昼の十二時ごろ、お腹も空いたしもう野次馬をやめようかなと思ったころ、どこからともなく雷でも降りそうな雲が現れて…… 急によ、急に。雨降りそうなら普通帰るけど、本当に奇跡が見られるかもと思って皆残ったぐらいだし、私はおかしくない。結局空は暗いだけで雨も雷もないから、期待して損したと思って罵倒するわよね。

「雷ぐらい降らせたらどうだ!」

 ごもっともだわ。そうして投石やらあの愉快な「ユダヤの王、ナザレのイエス」の貼り紙までついて大喜びよ。やっぱりお祭りみたいね。

 三時間ぐらいどんちゃん騒ぎが続いていたんだけど、ついにイエスが初めて口を開いたの。


「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」

 こんなことを大声で、しかも泣きながら言うんだからもう皆爆笑。

「おお、エリヤを呼んでる!」と腹をよじりながら言って泥水をかけようとする人

「まあまて、エリヤが来るか待ってよう」

なんて洒落た提案する人がでるんだから笑えるわね。中々楽しかったのだけど、私は夕飯の準備もあったし、家に帰ったから、あの後結局エリヤさまが来たのかは分からないわ。


――――

 彼女はケラケラ口を歪めて語りを終えた。ハンカチの気味の悪い文様もんようのことは、お喋りの間に忘れてしまったかのようだ。

 ちょうどそのとき、息を切らした白髪のペトロが家へ駆け込んできた。彼の目は泣きはらした後なのか、充血していて目の下にはクマが出来ている。

「もしかして、あなたが主を、イエス様のお顔を拭いて下さったのですか?」

 男は感激した様子で彼女の顔を見ていた。泣きはらした目がまた潤んでいるのを見た。

「……ええ」

 ヴェロニカは当惑した様子で頷いた。男の勢いに押されていた。男はキリストの熱心な弟子のようだったが、野次馬をずっとしていたはずのヴェロニカは、彼を初めて見たようだ。

 男は彼女の手をがっしりと握って、祈るようなポーズをした。そのとき、ヴェロニカのあのハンカチがひらりと落ちた。


 男は布を拾って、眼を見開いて絶句した。どうも大げさな男は、彼女に言った。

「ありがとうございます、主を助けて下さって、ありがとうございます。このハンカチは奇跡でございます、そうです、あの人が残した奇跡でございます」

 結局、私も彼女も彼が帰るまで、彼の勢いに圧倒されてほとんどなにも喋らなかった。もちろん彼女がイエスの死を娯楽にしたことも。

 帰り際になって、ヴェロニカは男に、キリストの教えを信じているであろう男にハンカチを渡そうとした。しかし、男はハンカチを持って行かなかった。あげると言っても固辞こじしたのだ。

「あなたが持っているべきだ。それはあなたが聖人たる証、あなたが天国に行ける証である」

 と言って、頭を縦にふらなかった。


 結局、の手元には、悪趣味で呪いのようにしか思えない、あの救世主イエスキリストの真顔が大きく浮かび上がった、奇跡のハンカチが、聖者の証が残ったままであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヴェロニカのハンカチ 笠井 野里 @good-kura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ