想う二人は花を見る
方田しん
想う二人は花を見る
『離婚しよう』
たった五文字という短くも強大な力を持った言葉。
僕は、周りの視線も気にせずにその場に膝から崩れ落ちた。僕のことを怪訝な目で見てくるが、ここが現実かどうかすらも認識することができない僕が気づくはずがない。
部長に何度も声をかけられるまでしばらくその状態だった。
しかし、放心状態のままであった僕はその後の仕事に一切身が入らなかった。
そんな姿を見て、当然ながら上司は僕に帰るよう言った。荷物を纏め、重い足取りで会社を後にした。
いつもの帰り道は、だいぶ早く帰路についたせいか、まだ若い子たちが多くいて、皮肉なほど明るく、駅までその調子が続いていた。
外を見ながら電車に揺られていると、子連れの夫婦がいた。
道端のタンポポに目を奪われしゃがみこむ小さい子ども。少し後ろを歩いていた両親らしき人たちは柔らかい微笑みを浮かべていた。
思えば、妻は一度も僕に笑顔を向けてくれなかった。
なぜ彼らのようにはなれなかったのだろうか。
なにが、なにがいけなかったのだろうか。
いや……きっと5年前のあの日からだ、何かが狂ったのは。
▼▼▼▼▼▼
その日は結婚して初めてのクリスマスだった。
当時は商品開発ではなく、商品販売をする仕事だったため、この時期になると仕事はいつもの何倍にも忙しくなっていた。
しかし、その日の仕事は順調で、嬉しい誤算として、仕事を上がる以前に商品が全て売り切れたため、僕の予想よりも早く帰路につくことができた。
毎日通っている道を歩く人々はクリスマスだからか、僕含めみな浮足立っていた。
そこで、僕は目撃してしまった。
いつもよりオシャレをしている妻。隣にいる、僕よりも高身長で、顔もいい男。
……そして、その男に優しい笑顔を浮かべる妻。
おもわず足を止めてしまい、僕に対し恨みがましい視線をいくつもの人がくれていくが、それどころではない。
あぁ……僕では駄目だったのか。彼女を幸せにすることができないのか。
ふと家にいる時の僕を想起する。
上手くできなくて焦げてしまった料理。
洗濯を失敗してクシャクシャになってしまった服。
今思い返すと、確かに僕は失敗ばかりだった。
本当に僕は、だめな人間だな……。
愛想をつかされるのは当たり前か。
少しふらつく足で今度こそ帰路についた。
「ただいま」
「……」
リビングに向かってそう発したが、何も返ってこない。
まだ……一緒にいるのだろうか。
すでに空は茜色に染まり始めている。いつ頃帰ってくるのだろうか。
いや、もしかしたら今日は帰ってこないのかもしれない。
ピロリン♪
バッグの中にあるスマートフォン軽快な音を立てた。その音に妻からのメッセージかもしれないと取り出した。
『ごめん。今日帰るの遅くなる。たぶん九時ぐらい』
ロック画面に映るその文字に、やはりそうなんだという確信と、今日は帰ってくるのかという安堵感を感じた。
心にぽっかりと空いた穴を感じながら、『そうなんだ。気をつけてね』と返す。
『それで、彼女こう言ったのよ。いえ、私はあなたの未来の姿。今のままでは恋人との関係は続かないって。最初は半信半疑だったんだけど、話を聞くうちに本当のことような気がして……』
時刻はすでに10時を回っている。
妻は、まだ帰ってこない。
このドラマのように過去に戻れたら彼女を幸せにすることができるのだろうか?そんなことを考えながら、ドラマを見る。
『大丈夫さ、きっと。二人ならどんなことだって乗り越えられる』
『えぇ。そうよね。私達だもの』
どうやら物語もクライマックスらしい。主人公もヒロインもお互いに熱っぽい視線を浴びせている。
そのまま顔を近づけ、瞼を閉じた。
そして唇が重なる、ところでガチャと音を立て玄関の扉が開けられた。
その音に驚いてテレビを消してしまう。
「まったく、鍵はちゃんとしてっていつも言ってるのに」
「ごめん。忘れてた」
帰り道で見た格好とおりの妻。友人と遊ぶときも同じぐらいのおしゃれをしているから、もし見ていなかったら何一つ気がつかないだろう。よく見れば紅潮している頬。酒のせいだろうか? はたまた別の要因だろうか? 考えても答えはわからない。
妻に近づくと、ほんのり甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「遅かったね」
震えそうになる声を必死に抑えながら言う。
「それはごめん。友達が悪酔いして中々返してくれないから。放置するのも悪いし家まで送ってから帰ってきたの」
聞かれることは想定済みなのだろう、とって繕ったような言葉には思えない。
もしかしたら事実なのかもしれない。ただ友人というのがもっと深い関係なだけで。
荷物を下ろしながら僕に問いかける。
「ケーキはもう食べたの?」
首を横に振ってまだ食べてないことをアピールする。
「食べてても良かったのに」
「夫婦として初めてのクリスマスだし、一緒に食べたかったから」
「そう。じゃあ食べましょうか」
「わかった。準備するよ」
妻が荷物を置いてくる間に冷蔵庫からケーキを出しておく。
そしてタンスの中に入れてあったプレゼントを取り出す。
「それは?」
後ろから妻に問われる。「クリスマスプレゼント。ずっと欲しがってた時計」
「ありがと」
感謝を述べ時計を受け取るが、しかし妻の顔にはそんなに喜びの表情は伺えない。
本当に嬉しいのかわからない。先のことのせいでどうしても疑ってしまう。
そんな疑問をよそに、時計を受け取った妻は長四角の箱を渡してきた。
「はい、これ」
これは、「眼鏡?」
「そう。その眼鏡使って結構長いって言ってたでしょ?だからそろそろかなと思って」
確かに今僕がつけている眼鏡は五年以上前に買ったものだからそろそろ変えようかなとも思っていた。
この前視力のこと聞いてきたのは、これのためか。
「ありがとう。大切にするよ」
これ以上ケーキを放っておくと溶けたりしそうなのでプレゼントは置いておく。
「食べようか」
「それもそうね」
「いただきます」
「いただきます」
僕がフォークを取ると、妻もフォークを手に取り食べ始める。
一口、また一口と食べ進めるが、一番人気のショートケーキの味はよくわからなかった。
▲▲▲▲▲▲
それからも僕はずっと普段通りの生活を続けていた。クリスマスに上げた時計がなくっていたが少し聞くだけで特に追求はせず夫婦生活を続けた。
たまに男と一緒にいる妻を見た。
きっと証拠でも集めて弁護士にでも相談すれば、もっと言えば妻に直接問いただせばよかったのだろう。
けど僕は表面上の幸せでさえ手放してしまったらきっと本当に壊れてしまう。
そう思うとできなかった。
五年、五年だ。
表面上の幸せだけで生きてこれた。十分とはとてもじゃないが言い難い。でも、妻が側にいるだけでよかった。
けど、仕事中に送られてきたメッセージは『離婚しよう』だった。
きっと心の中ではわかってた。
いずれその日が来るだろうと。
わかっていても理解できるわけではない。
きっと僕では駄目だったのだろう。何もかもがいけなかったのだろう。
怒りなんてない。
悲しみなんてない。
呆れなんてない。
ただただ、ひたすらに絶望感と虚無感が支配する。
僕は一人の女性さえも幸せにできない。
帰り道に枯れたムスカリの花があった。本来の青色は見る影もなかった。
□□□□□□
クリスマスのとき、私は過ちを犯した。私にはその方法しかなかった。彼があなたを救ってくれるなら、私のからだなんかいくらでも差し出した。
その翌日から“僕”と“私”たちのメッセージが私の元へと届くようになった。
そして、“私”たちはソレを使って平穏な日々を過ごしていた。
でも、きっとどこかで彼と会っているところを見られてしまった。夫が急に素っ気ない態度を取るようになった。
クリスマスに貰った時計がなくなっても少しも気に留めず、形ばかりの心配をしていた。
でも、私はそれでも幸せでした。あなたが隣にいてくれる。あなたが夫であるということが。
これが間違っているということはわかっている。
けど、終わりというのは突然現れる。
ソレは、来た。
『あの人が死んだ。どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――』
スクロールしなくてはならないほど長くどうしてと書き連ねられているメッセージ。
前からこういうメッセージはいくつもあった。そのたびに“僕”が書くことを止めたことも知っている。
けど、今回は違った。全員がソレを書いていた。恐怖すら感じるほどの統一されていた。
いや、正確にはその後もメッセージを書いていた“僕”がいた。
途中で私と離婚していた人だった。
だからきっとこれが最善なんだ。迷って迷って迷った結果下した決断。
ごめんなさい、あなた。
私にはあなたを幸せにできなかった。
緊張して笑えなくてごめんなさい。本当はあなただけにしか見せない笑顔を出したかった。不必要に緊張していた私の責任です。
毎日夜遅くなってしまってごめんなさい。
あなたに相談できなくてごめんなさい。本当は全部言いたかった。真実を。
何も上げられなくてごめんなさい。
本当はすごく楽しかった。その気持ちを伝えられなくてごめんなさい。
今までもこれからもずっと。
震える手を必死に抑えて文字を打ち込む。
途中で涙が溢れてくる。視界が滲んで文字を何度も打ち間違えた。このまま打てなくていいと何度も思いながら最後まで打ち込んだ。
『離婚しよう』
その日の帰り道、私の足取りは酷く重たかった。
反対側からこちらに歩いてくる人々。そこで信号が青だということを認識して、一歩足を踏み出した。
その直後……宙を舞う私。
真っ赤に咲き誇るアネモネを横目におぼろげながら思う。
決断、遅かったなぁ。
想う二人は花を見る 方田しん @Hoda-S
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