毒樹の反証-her satellite,dearest moon-

暁帆

第1話

 白いカーテンが微風に揺れる。

 夕焼け色の教室はじんわりと暖かい。漣ひとつ立たない穏やかな時間を感じながら、地鳥ちどりは泣き疲れて眠る月見つきみをただ眺めていた。

 腕を枕にして机に伏している月見は、心地良い窓辺を遠ざけるように顔を横に向けている。その目許は赤く腫れ、白く滑らかな頬には涙の跡があった。地鳥ではない人間へ向けられた想いの跡だった。

「ん……」

 月見の唇からぼんやりとした声が漏れた。起きるかなと思ったが、数秒待ってみても瞼が持ち上がることはなかった。

 グラウンドから野球部のかけ声が遠く聞え、特別棟の方から吹奏楽部のフルートの音色が響いてくる。それに反して教室の中は壁時計の針の音すら聞えてきそうなほど静かだった。教室の内と外で世界が途切れているんじゃないかとすら地鳥は思った。

 だから、それは決して魔が差したとかではなかった。

「…………」

 地鳥と月見の姿が重なった。下から吹き上がってきた風でふわりと広がったカーテンが二人の姿を覆い隠す。地鳥の罪を覆い隠す。

 ゼロ距離の月見からはシャンプーの香りと知らないなにかの香りがした。

 唇を離しても、触れた皮膚はまだ熱を持っているかのように甘くぴりついていた。

「……ごめんね」

 地鳥は自身の唇を指先でなぞり、小さく自虐的に笑った。

 


 性格が正反対の幼なじみはクラスでのグループが別々になってもずっと仲が良いまま、というのはフィクションだけだ。

 現実では付き合う友だちの種類が分かれれば話す機会はめっきり減るし、他に気の合う友だちがいるのにわざわざ疎遠の幼なじみの席にはやって来ない。

 地鳥は廊下側後方の席から何気ない風を装って教卓のあたりへ目を向けた。そこでは月見が友だちに囲まれて笑っていた。月光色の長髪が無骨な蛍光灯の下できらきらと輝く。

 彼女はその名前の通り月に例えるのに相応しい涼やかな美人だ。綺麗に整った造形は一見近寄りがたい印象を与えるが、その周りには常に人がいた。それも当然だろう。美人で人当たりが良く、普通に冗談も通じる相手とはみんな仲良くなりたいに決まっている。

『月は地球のえいせいなんだって。ずっと地球の周りをぐるぐる回ってるってこの本に書いてた! つきみとちどりの名前には月と地球が入ってるでしょ? だから、つきみたちはずっとずっといっしょにいられるよ』

 そう言って棚坂たなざか月見つきみ琉球りゅうきゅう地鳥ちどりに満面の笑みを見せたのももう昔のことだ。

 決して絶交したとかではない。こうなるくらいなら絶交でもしておけばよかったとはたまに後悔する。そうすれば月見の記憶の大きな部分に居続けられただろう。けれど実際はただ単に月見に地鳥以上の友だちができたというだけのことだ。そして、好きな人も。

 勢いをつけたなにかがひゅっと左頬すれすれを掠めた。斜め前の椅子に当たったテニスボールがてんてんと床を転がっていく。

「琉球さんごめん! 大丈夫? 当たってない?」

 突然のことに内心驚いていると、爽やかな男子がこちらに両手を合わせてきた。

「大丈夫。まさか後ろからボールが飛んでくると思わなかったからびっくりしたけど」

「本当にごめんっ。危ないから教室でボール遊びはやめとけって言ってたんだけどさ。まさか俺がやってしまうとか……ノーコンってよく言われるけど俺ってやっぱノーコンなんかな……」

 教室の前の方で三人の男子が早くボール渡せーと控えめに主張している。

 地鳥はしょんぼりと肩を落とす彼に視線を戻した。

「飛んできたボールを投げ返そうとしてくれたんでしょ。一緒になって遊んでたわけじゃないならそんな気にすることないよ。むしろ男子たちを止めようとしてくれてありがとう」

 でもノーコンには違いない、と口には出さずに思いながら微笑みかけてやると、彼はすっかり元気を取り戻していた。

「お礼を言うのはこっちだよ。琉球さんって怒らないよな。おおらかって言うか。……と、とにかくさっきは悪かった!」

 なぜか途中ではっとした顔になり、彼はそそくさとボールを拾いに行った。

「あれは完全にだよね」

「顔赤かったもんね」

 近くの席で話していた女子二人組が、小走りで駆けていく後ろ姿に意味深な目を向けにやにやと笑い合った。

ってなにが?」

 地鳥が尋ねると、女子二人はにやついた顔のまま「こっちの話ー」と声を揃えた。どうやら教えるつもりはないらしい。それならそれで構わなかった。そんなことよりも彼と話していた時に感じた視線の方が何倍も重要だった。

 あの時、人垣の合間から月見がこちらを見ていた。あ、と思ったが期待に反して視線は交わらなかった。彼女が本当に見ていたのは自分ではなく彼の方だったのだ。その月光色の瞳は去り際の彼と同じ色を宿していた。

 地鳥は腕を枕にして机に伏せた。誰にも聞こえない声量でぽつりと呟く。

「やっぱり、さっきあいつにノーコンだって言えば良かった」

 

*    *   *


 『図解でカンタン! 宇宙のふしぎ』

 ――月は地球の衛星です。衛星とは常に惑星の周りを回っている天体のこと。これは知っている人も多いでしょう。では、月が地球から遠ざかっていることは知っていますか?


*    *   *


 同じ制服を着た他の生徒に混じり駅へと歩いていると、後ろから名前を呼ばれた。その声を聞いた瞬間地鳥の心臓がどくんと跳ね上がった。

 女子生徒二人を追い越し、彼女が隣へやってきた。

「月見……」

「同じクラスなのになんだか久しぶりね」

 月見の口許が緩んだ。これは本心からの笑みだと思った。少なくともまだ地鳥は友だちの枠内にいる。地鳥は必要以上に笑いそうになるのをぐっと堪えた。自分は表情が乏しい方でよかったと心から感謝した。

「……実は地鳥に言おうと思っていたことがあるの。聞いてくれる?」

「もちろんだよ。どうしたの改まって」

 口をまごつかせ、言おうか迷っている姿で用件は分かった。浮ついていた気分が一瞬にして地に沈んだ。

 数分経っても月見はまだ迷っていた。こちらから仕向けた方がいいかなと思っても結局何も言わず、地鳥はただ聞き役に徹した。他の話――例えばお悩み相談なら一も二もなく聞き出そうとしただろう。月見の力になれるなら本望だ。だが今回だけはどうしても駄目だった。自分から話を振ってしまったら終わりだと思っていたのだ。

 公園から突き出した木の陰の中で月見が立ち止まった。俯いたためにその表情は見えない。地鳥は静かに息を詰めた。オレンジ色の春風がじわじわと肌に纏わり付いてきて嫌な気持ちになった。胸の前で手のひらを握りしめ、意を決した様子で月見が顔を上げた。

「あのね、地鳥。私……戸坂とさかくんが好きなの」

 戸坂くんとノーコンの彼はすぐに繋がった。というより繋がらないほうがおかしい。なにせ地鳥はずっと前から彼女の『好き』の向かう先を知っていたのだから。

「そうなんだ……。かっこいいもんね。優しいし。好きになるのもわかる気がする。あ、でも私は全然そういうのじゃないから」

「本当? もし私が告白しても嫌じゃない? だって地鳥は……」

 月見はどんな変化も見逃すまいと地鳥の反応を窺っていた。それは獲物を狩る強者の睨みというよりは捕食者の一挙手一投足から目が離せない草食動物のようだった。別に取って食ったりしないのに、と地鳥は胸の裡で独り言ちた。

 そもそも月見は勘違いをしている。地鳥が戸坂を好きだなどとんでもない。

 だが疎遠気味とはいえ幼なじみの好きな人を好きになってしまったのではと悩み、抜け駆けせずに地鳥と向き合おうとする姿は純粋に尊敬するし眩しかった。

 地鳥は丸い声でとぼけた。

「なんで私に聞くの? それは月見と戸坂くんの問題でしょ? 応援するよ。私はいつでも月見の味方だから」

 我ながら白々しい台詞だなと内心で自嘲した。月見の成すことすべて応援したい。その気持ちは嘘ではない。月見が笑っていられるならそれに勝るものはこの世にない。――ないはずだ。

「……ありがとう。ずっと気になってたの。応援するって言ってくれてすっきりした」

 月見が木の陰から一歩、二歩と踏み出した。夕日を浴びて黄金のように照り輝く横髪を耳に掛けてこちらに微笑みかけてくる。地鳥も頬の筋力を叱咤して綺麗に笑みを形作った。

「うまくいくといいね」

 上手く笑えている自信はあった。なにせ以来この感情を押し込めて生きてきたのだから。それに、完璧な笑顔でなかったとしても頭上の木の影が上手く隠してくれる。



 数日後の放課後。月見は戸坂に告白し、そして丁寧にフラれた。

 偶然を装って遭遇した月見の話によると、他に好きな人がいるからというありがちな、けれど勝ち目のない理由だった。

 月見は地鳥が近くにいることも忘れて泣いて泣いて、泣き疲れて眠ってしまった。

 それほどまでに棚坂月見は彼のことが好きだったのだ。

「……月見」

 夕焼け色の教室で白いカーテンが微風に揺れる。

 この罪はきっと煉獄の炎でも雪げないだろうなと思いながら、地鳥はそっと薄く開いた唇に顔を寄せた。


 それから高校を卒業するまで二人は、連絡以外の言葉を一度も交わさなかった。


*    *   *


『図解でカンタン! 宇宙のふしぎ』

 ――月は毎年約3.8cmのペースで地球から遠ざかっています。これには地球と月の間に働く引力・潮汐力ちょうせきりょくが関わっています。この力は――。

 

*    *   *


 春が来て大学生になった。

 地鳥は月見と同じ大学に進学した。学部は違っても共通の講義で目にする機会は週に何度かある上、サークルも同じとくればもしかしたらという希望はあった。けれど季節が夏に突入してもまだ疎遠状態は続いていた。

 とはいえそれも当然と言えた。地鳥は友だちをする気満々でも、好きになった相手の好きな人が自分の幼なじみだったというのはそう簡単に割り切れるものではないのだろう。絡まり合った三角関係をすぱっと解決してくれるナイフなどどこにも売っていない。

 こんな関係は友だちとは呼べない。もはや幼なじみとも名乗れない気がする。ならば自分は彼女の何なのだろうと地鳥は自問した。どの名称を当て嵌めれば傍にいても許されるのだろう。

 大学生になった月見は相変わらず綺麗ですぐに彼氏ができた。もし道ばたでばったり戸坂と会ったとしても、今なら自然と挨拶できることだろう。告白の当事者同士の感情はとっくに精算されているのに、離れたところにいた地鳥だけがまだあの教室に囚われている。まるで業火の太陽から離れられない水の星のようだった。

「地鳥ちゃん、黙り込んでどうしたの?」

「あ、いや。ちょっと考え事してただけ」

 隣から上がった声で自分のいる場所を思い出した。ここはアイススケートサークルの部室だ。珍しくこの大学にはスケートリンクがあるのだが、屋外に設置されているために氷の張れない春夏は滑れないのだ。だからといって部活と違って緩いサークルが基礎トレーニングに励むほど熱心なわけもなく、この時期は基本的に部室に集まり駄弁だべるのが主な活動内容となっていた。

「考え事? なにか悩んでるの? あたし聞くよ! 地鳥ちゃんの話だもん。むしろ悩みじゃなくてもなんでも聞きたい!」

 同学年の地鳥の友だち――日奈ひなが目の中に星を散らして顔を寄せてきた。

 日奈はぱっちりとした二重の明るい女性だ。低身長なところが愛嬌に繋がっていて、派手なネイルもかわいいに昇華されている。ぎらぎらした人が苦手な地鳥としても付き合いやすい相手だった。

「悩みというか……ほら、さっきまで月見いたでしょ」

 そう言った瞬間、日奈の表情がすっと抜け落ちたように見えた。一瞬のことだったから見間違いかもしれなかった。

 日奈はいつもの顔で月見が出て行った扉へと目を向けた。

「月見ちゃんがどうしたの?」

「なんていうか、様子がおかしくなかった? 元気がなさそうっていうか」

「そうかな? 先輩たちと楽しそうに喋ってたし、あたしには普通に見えたけど」

 日奈はきょとんと首を傾げた。ということは表情が暗いように見えたのは地鳥の気のせいか。今日は汗ばむ陽気なのに長袖長ズボンだったのも、偶然天気予報を見忘れていたとかそういった他愛ない理由なのだろう。

 深読みしすぎかと地鳥は緩く息を吐き出した。彼女のことになると小さなことすら気になってしまう。この癖はそろそろやめないといけないと常々思っていた。

「それより約束してたお店行こうよ。ほら立って!」

「ちょっとまって。荷物纏めるから」

 狩人に捕えられた獲物の気分になりながら、ぐいぐいと腕を引っ張ってくる日奈に続いて地鳥は部室を出た。


 結論から述べると地鳥の勘は正しかった。

 ショッピングモールの雑踏の中、電話口から絞り出したような声が聞えた瞬間、なぜあの時すぐに追いかけなかったのかと猛烈に後悔した。過剰な思い込みでもなんでもいいから話をするべきだったのだ。

『……ちどり』

 告白してフラれた時とも異なる、縋り付くような弱々しい声が自分の名前を呼んだ。その瞬間、一緒にいた日奈を置き去りにして今度こそ走り出した。

「月見っ!」

 インターホンも押さずに玄関を開けると、暗い廊下の隅で月見が膝を抱えて蹲っていた。月見の顔がゆるゆると上がる。くすんだ月光色の一房が肩から滑り落ちた。

「……地鳥」

 一瞬地鳥は言葉を失った。泣き出しそうに歪んだ頬には生々しい暴力の跡があった。はだけた袖から覗く腕にも青黒い痣が浮かんでいた。傍から見ても上手くいっていたはずの彼氏にやられたのだということは直感的に分かった。

「月見……っ」

 途方に暮れた迷子のような月見の頭を強く抱き寄せた。腕の中の細い身体が震えている。胸元のシャツが濡れた感触があった。よほど怖い思いをしたのだろう。

 なぜ彼女がこんな目に遭わないといけないのだろうか。誰からも一目置かれる存在で、それでいて傲ることもない棚坂月見が傷つくのはおかしい。そんな世界は間違っている。地鳥は本気でそう思った。

「最近……ちょっとおかしいとは思ってたの。一日に何件もメッセージが来て……今何してる? って……。それで今度先輩たちと遊びに行くって言ったら……」

 そこから先は口にするのもしんどいようだった。

「……もう大丈夫。私がいるから。ほら、高校の時に言ったでしょ。私は月見の味方だよ。だから私を頼って。なんでも力になるから」

 抱き寄せる腕に力をこめた。月見に泣き顔は似合わない。彼女には月のように凛とした笑顔の方がよく似合う。

 数分が経ち、震えの収まった月見の口許に微かな笑みが戻った。

「…………ありがとう。地鳥」

 


「――えー、毒樹の果実というのは、自白の強要や証拠の捏造などで獲得した証拠から派生して得られた二次的な証拠のことです。違法収集証拠は証拠能力がないため、それから得た二次的な証拠についても同様の扱いになります。つまり最初の段階で過ちを犯していた場合、そこから何を積み重ねようが無意味というわけで――」

 興味のある法学の授業を右から左へ流しながら、地鳥はノートの横に置いたスマートフォンを操作していた。スマホでメモを取る学生も少数存在することからこの講義ではスマホを出していても咎められない。そのため地鳥は堂々と月見とやりとりができていた。大学生さまさまだ。

 月見は今、地鳥が借りているアパートの一室に居候している。彼氏もよく知る自宅から離れるための暫定的な逃避法だった。

 その提案に下心が一切なかったかと問われると弱い。でも、だからこそ月見が安心して過ごせる空間を作りたかった。

 それにしても地鳥には一つ気になっていることがあった。なぜあの時月見は自分に電話してきたのだろうか。よく一緒に行動していて、緊急時の相談相手にも相応しい友だちが何人もいるはずなのに。

 考えたところで、電話帳の数ある番号の中から地鳥を選んでくれたことには変わりない。

 じゃあ四限の講義が終わったら噴水のあたりで、とメッセージを打ち返し、地鳥は教授の話に意識を戻した。そういえばこの前リンゴ食べたいって言ってたなと講義とは関係ないことを思い出した。


 電車を降り、最寄りのスーパーに寄った。

「あ、リンゴ。この前食べたいって言ってたよね。買う?」

「ううん。いらない」

 月見がさっと目を伏せた。

 それは地鳥にかかれば結構簡単な間違い探しだった。イタリアンチェーン店の間違い探しより何倍も分かりやすい。

 ――月見に避けられている。

 あからさまに顔を逸らされるし、何かを言いたそうにしているのに口を閉ざす。何かしてしまったのかと記憶を辿っても思い当たる節はなかった。まさか奥底に封じ込めた気持ちがバレたわけでもないだろう。

「月見。なにかあった?」

 スーパーの袋をリビングの床に置いてから率直に尋ねてみた。

「なんでもな……ううん。やっぱり地鳥に確かめたいことがあるの」

 そう言って、月見は射貫くような瞳を向けてきた。月見がこちらを見ているだけなのになぜか急に呼吸がし辛くなったような気がした。足元の床がぎしりと音を立てた。

「戸坂くん覚えてるでしょう? 高三の時のクラスメイトで、私が告白してフラれた」

「うん。……あれは残念だったね」

「それはもういいの。戸坂くんの好きな人が他でもない地鳥だったこともね。でも……ねえ地鳥。嘘吐かないで答えてよ。あなた――戸坂くんを誘ってたの?」

「え?」

「私が好きなことを知ってて、わざと彼があなたを好きになるように仕向けたの? ……別に、地鳥も本気で彼のことが好きだったのなら許せたわ。いえ、他人の感情を私が許す許さないというのも変な話だけど。でも、戸坂くんに告白されて……地鳥は断ったのよね?」

「……私は……」

 心臓がばくばくと早鐘を打つ。

 月見の話は真実だった。

 告白されたのは月見が告白してから数日後のことだった。彼が自分の想いを伝える気になったのは、月見が勇気を出して伝えてくれたからだというのだから報われない。最初から月見の想いが成就することはなかったのだ。

 だがそれは地鳥が望んだことでもあった。

 月見の好意に気付いてすぐに行動を起こした。月見とは比べるべくもないが、地鳥も少しはモテていたから可能性はあると踏んだ。その結果があのオレンジ色の教室だ。地鳥の望みは完璧に叶った。

 きっと地鳥は死んだら地獄行きだ。鳥のように空の上で過ごせるなんて夢にも思っていない。けれどそれでもよかった。たとえ世界で一番大切な人の幸せを奪ってでも、誰かのものになってほしくなかった。

 知られてしまったらきっと怒られると思っていた。恨まれ、黒い感情で煮詰めた鍋を叩きつけれるんだろうなと。

「なんで黙ってるの。なにか言ってよ……。日奈が言ってたことは本当なの?」

 けれど月見が見せた感情はそのどれでもなかった。柳眉をきゅっと寄せ、こちらを見つめる彼女の声は震えていた。それはまるで――。

「地鳥。答えてよ……!」

「………………ごめん」

 視界の隅でスーパーの袋が倒れ、月見の好みに合わせて買ったフローラルの香りの柔軟剤が袋から飛び出した。

 顔を上げられなかった。何か小さな呟きが聞えた後、足音が地鳥の横を走って玄関に向かった。何の迷いもなくドアが開かれ、バタンと強く閉じられた。残響音が耳鳴りとなり、振り返ることもできなかった地鳥の鼓膜を刺激し続けた。



「単刀直入に訊くよ。なんで戸坂くんとのことを月見にバラしたの。そもそも高校も違う君がなんで知ってたの。日奈」

「…………」

 日奈が笑顔を引っ込め、チョコフローズンフラペチーノをテーブルに置いた。カフェのざわめきには似つかわしくない沈黙だった。何を考えているのか読み取ろうと日奈の顔を注視しても、霧の中で目を凝らしているようで何も見えてこない。こんな日奈は初めてだった。

「……あたしと地鳥ちゃんは似てると思うんだ。地鳥ちゃんなら分かってくれるはずだよ」

「何も分からないよ。私、日奈のことは友だちだと思ってた。でも本当は私のことが嫌いだったの? だから私を傷つけようと」

「ちょっと待ってなんでそうなるの? 違うよ反対だよ。あたしは……あたしは、地鳥ちゃんのことが好き」

「私のことが……好き……?」

 周囲のざわめきが消えた。すぐには言われた意味を理解できなかった。けれどこちらを見つめる日奈の瞳はよく知っていたものだった。月見が特別な相手に見せていた、戸坂が地鳥に向けていた、熱に浮かされたようなあの瞳だ。

「あれ、気付いてなかった? 地鳥ちゃん敏感だからバレてるかもって思ってたけど」

「……全然気付かなかった。……ああ、だから私と日奈は似てるって……」

 つまり二人は全く同じことをしたのだ。振り向いてほしい背中に手を伸ばすために、それを阻む者を排除しようとした。部室に入った途端、地鳥がまず誰を探すのかを日奈は知っていたのだ。そしてそれがどうしても気に食わなかった。

 推しアイドルの追っかけさながらに地鳥の過去を追っているうちにそれを知ったのか、はたまた意識的に致命的なネタを探し回っていたのかは分からないが、知ったところで大した意味もない。

「地鳥ちゃんは、地鳥ちゃんだけはこの気持ちを間違いだなんて言わないよね? ね、あたしにしとこうよ。あたしなら絶対地鳥ちゃんだけを見てあげるよ」

 日奈が両手で地鳥の右手を包み込んだ。冷えたフラペチーノに触れていたせいで温くなった手のひらはなんだかちょっと不快だった。

「……ひとつだけ聞かせて」

「ひとつと言わずいくつでもいいよ!」

「あのことを月見に教えた時、日奈はどんな気持ちだった?」

 尋ねると、日奈は出題者の意図が読めない生徒の表情で小首を傾げた。

「どんなって……うーん。正直に言うとその後の展開ばっかり気になってたかな。あたしが描いたシナリオ通りに進んでくれるのか、どういう言い方で伝えれば望む方向に持って行けるのか……とか?」

「……そう。それならやっぱり私の答えは一つだよ」

 流れの変化を感じたのだろうか。日奈の様子がぴりっと張り詰めた。

 地鳥は日奈の手中から右手を引き抜いた。

「私たちは全然似てない。私は私のしたことが罪だってちゃんと自覚してる。あれは紛れもなく醜くて浅ましい間違いだ。私はあれを正当化するつもりも美化するつもりもないよ」

 半分で月見の応援をしながら、もう半分で正反対のことをしていた。それも、自分の重力が届く範囲から逃れないでほしいという身勝手極まりない願いのために。

 月見に出て行かれても仕方がない。むしろ当然の報いだ。裏切りはこの世で一番重い罪なのだから。

 けれど間違った手段で手に入れたものに意味はないというのは嘘だ。たとえ直接話しかけることは許されなくても、先輩の冗談に笑う姿を近くで見られるだけで十分意味はあった。泥のように汚い罪を重ねた先で訪れた、たった数週間の同居には百万の宝石以上の価値があった。

「私は私を好きな誰かより、私が好きなただ一人を好きでいたい」

「……! そんな、地鳥ちゃ――」

 我に返った日奈が追いかけてくるより先に店を出た。夏が始まった最近の夜は蒸し暑い。地鳥は捨てそびれたコーヒーの残りを流し込んだ。氷で薄まっていてなんとも言えない味がした。



 夏真っ盛りの日差しが大学の中庭に降り注ぐ。

 次の講義があるA棟に向かっていると、少し離れた場所で地鳥の好きな月光色が風になびいているのに気付いた。向こうはまだこちらに気付いていない。

 あれから日奈のおかげで理解できたことが一つあった。

 ずっと気になっていたのだ。なぜ暗い廊下に蹲っていた月見は、他のどの友だちでもなく地鳥を選んだのだろうと。

 けれど理由はなんてことなかった。月見にとって地鳥は幼なじみで、まだ友だちと呼ぶ間柄だった。それだけのことだったのだ。

 絶対に離れたくない月見との間に亀裂を作ってくれた張本人のことを、地鳥はまだ友だちだと思っている。もちろん煮え滾るような怒りはあったが、ならば日奈のことが嫌いになったかと問われればそれは違った。

 つまりはそういうことなのだ。

「あ……」

 まさか地鳥の視線に気付いたわけではないだろうが、月見がふいにこちらを振り向いた。動きに合わせて月光色の長髪が扇状に翻る。

 二人の視線が交わった。月見が何事かを喋ったのは口の動きでわかったが、遠くて内容までは聞き取れなかった。月見がふっと笑いかけてきたように見えた。それだけで地鳥の気持ちは大空に舞い上がった。

「やっぱり好きだなぁ……」

 地鳥はバツが悪いような嬉しいような、なんとも言えない表情で微笑んだ。

 A棟とは反対の棟へと月見が歩き出した。「やばっ、時間が」という後方の声につられて腕時計を見ると、確かにもうすぐ講義開始のチャイムが鳴る時間だった。地鳥は早足でA棟へと向かった。

 

*    *   *

 

『図解でカンタン! 宇宙のふしぎ』

 ――月が地球から離れていく。ならばいずれ月はいなくなってしまうのではないか、と心配になるかもしれません。ですが月は永遠に離れ続けるわけではなく、500億年後には一定に止まるのです。その頃地球は――。

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