第15話 交換条件

「荒れているな」

 面白がるような声が背後から聞こえて来た。

「……皇帝」

「愛しい男の首と胴が泣き別れになるのだから、無理もないだろうが」

「違うって言ったでしょ!」

 私は足を踏み鳴らし皇帝の前に進み出る。

ジン総督と直接会話したのは、今日が初めて! これまで会ったこともない人間と、どうやって浮気できるのよ! 物語の人物と設定や名前が似てたのは偶然。いい加減にして! どうすれば納得してくれるの!?」

「 ……そうだな」

 皇帝の手が、私の髪に触れた。

「お前の心があの男にないと言うのなら、俺を受け入れられるだろう」

(は?)

「俺はお前の夫だぞ? なぜ俺を拒む。それは別の男の面影がその心にあるからではないのか?」

 何を言ってるんだ、この男は。

 散々翠蘭スイランのこと放置しておいて、興味が湧いたから襲い掛かってきて、受け入れられなかったから浮気を疑ってる?

 自分がその気になった時、いつも相手がもろ手を挙げて受け入れ万全だと思ってる?

(ふざけるな)

 そう怒鳴りつけてやりたいのを、ぐっと堪える。

「私があなたを受け入れさえすれば、井総督の処刑はなくなる?」

「かもしれんな」

(くっ……)

 いやだいやだ、気持ち悪い。いくら相手がイケメンでも、受け入れがたい要求だ。

(でも、人の命がかかってる……)

 私は自らの帯に手をかける。頭に香麗シャンリーの哀しそうな顔が浮かんだ。

(ごめん、香麗。私だっていやだ。でも、こうしなきゃ罪もない人が殺される……!)

 帯を解かなくては、言う通りにしなくては。

 そう思うのに、手がびくとも動かない。

(あの人を窮地に追い込んだのは私だ。だから、これくらいのこと!)

「……もうよい」

 ふいに皇帝の乾いた声が耳を打つ。

 はっと顔を上げれば、ぱたたっと私の顔から雫が落ちた。

(涙?)

 皇帝は眉根をしかめ私を見下ろしていた。

「気が失せた」

「……陛下?」

「体中に虫を這わせているかような顔をしおって。そんな女を、誰が抱きたいものか!」

 言い捨て、皇帝は足早に部屋から立ち去る。

(あぁ……)

 私はその場にくずれ落ちる。帯を掴んだ手は、その形のまま強張っていた。

(どうしよう)

 安堵と共に襲い来る、どうしようもない後悔。

(私は、ジン総督の命が助かるチャンスを、自ら捨ててしまった)


■□■


 夜半、私はそっと牢に向かった。

 見張りはいたが、いくらかの金品を与えると嫌な笑いを浮かべながらも通してくれた。

「井総督!」

 私の声に、牢の中の人物が身を起こす。

「皇后陛下。なぜこんなところへ」

「逃げて」

「え」

「私が書いたもののせいで、こんなことになってしまってごめんなさい」

「……」

「あなたは無実だもの、ここで死ぬ必要なんてない。今、鍵を開けるから」

「……お気持ちだけありがたくいただいておきます」

 井総督の言葉に私は顔を上げる。

 クールな面差しに、やわらかな、そして諦めたような笑みを浮かべていた。

「ですが、私は逃げません。皇帝陛下の命に逆らうわけにはまいりませんので」

「だけど、あんなの全くの事実無根じゃない!」

「それでも、私は受け入れます」

「どうして……」

「もとより、この命は皇帝陛下に捧げたもの。その形が、思い描いていたものと少々違っていただけのこと」

「こんな身に覚えのない汚名を着せられて、納得できるの?」

「陛下の御望みであれば。それが私の矜持でございます。部屋にお戻りください、皇后陛下。ここに来たことが知れれば、貴女の身が危うい」

(あーっ、もう!)

 私は頭を抱える。

(こういうところも、オークウッド中尉にそっくりだし!!)

 クールで落ち着きがあり、戦場では鬼神のごとき奮闘。それでいながら、上司に全てを捧げ、命令に逆らうことは決してない。その不器用なところも、私は好きだったのだ。

(なんで似ちゃうのよ、性格まで……)

 私は目を上げる。中尉と全く違う顔立ちなのに、表情は似ている気がした。

(その声でそんな風に言われたら、これ以上私は何も言えない)


 部屋に戻った私は、架子床ベッドに倒れ込むと大きく息をついた。

(あんな小説、書くんじゃなかった……)

 ストレス発散、自分のための娯楽。それが人の命を奪うことになってしまうなんて。

 後悔に胸が焼かれる。

(私は二度と、小説なんて書くべきじゃない)

 暗闇の中で私は目を閉じる。

 しかし時が過ぎるほどに自己嫌悪は闘志へと変化した。

 作品にアンチコメントが届いた際、一度は落ち込んでも、次第に妙なやる気が出てくるあの現象だ。

(このまま引き下がってなんかやるものか……!)

 急速に、私の頭の中で一つの物語が構築されてゆく。

「ふふ、ふふふふ」

 暗がりの中、私は笑った。

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