皇后さまの官能小説

香久乃このみ

第1話 アラフォーヲタク、結婚予定はありません

 年に二回開催される超大型同人即売会『Comicコミック universeユニバース』、通称コミバス。

 自作の小説本をそれなりに売り上げ、ネットの創作仲間とオフ会を楽しみ、私は最高の気分だった。帰宅すれば段ボール一箱分の新たな同人誌が待っている。そう思うと、帰りの電車では頬が緩みっぱなしだった。


「ただいまぁ」

 玄関には小さな靴が行儀よく並んでいた。

 結婚して家を出た弟が、家族を連れて帰省したのだ。年末年始をこの家で過ごすために。

 奥からはおせち料理を作っているらしい、出汁のいい匂いが漂っていた。

「……お帰り、朱音あかね

 エプロン姿の母に、私は東京土産を手渡す。

「これ、お菓子。蒼真そうまたち来てんでしょ? みんなで食べよう」

 私はうきうきと階段を上り自室の扉を開ける。

(年末年始は部屋にこもって同人誌三昧、ひゃっふぅー!)


 けれど私を待っていたのは、信じがたい光景だった。

「……へ」

 何が起こったのか、理解が出来なかった。

 中はひどく閑散としていた。同人誌を隠してあった場所は全て開かれ、空っぽになっている。全開にされたクローゼットの中にも、あるはずの段ボールの山がなかった。壁のポスターも、机のアクスタも、何もかも消えていた。

「な……」

「捨てたわよ」

 ぞっとするほど冷たい母の声。

 私は振り返り、強張る口を何とか動かす。

「……え? 家に送った本、も?」

「当たり前でしょうっ!」

 突然母がキレた。

「あんたいい加減にしなさいよ! もうすぐ40にもなるのに、いつまでも独身のまま好き放題やって!」

 その剣幕に息を飲む。頭から、氷水をぶっかけられた気がした。

「蒼真はちゃんと結婚して家を出て、子どももいるのに! お嫁さんの百花ももかさんなんて、一緒におせち作ってくれているのよ! それに比べてあんたは、いつまでもマンガマンガで手伝いもせず、フラフラ出かけて!」

「ご、ごめ……。でも……」

「お正月明けたら、あんたにはこの家を出てってもらうからね! 独り立ちしなさい!」

「えっ? でも、家借りるお金、ない……」

「貯金はどうしたの!? お給料、全部マンガにつぎ込んだなんて言わないわよね?」

「……。小説とか、グッズとか、イベントも……」

「もうっ、いやっ!」

 母は両手で顔を覆うと、さめざめと泣きだしてしまった。

「あんた、私たちが死んだらどうするつもり? 結婚も出産もしないままじゃ、いずれ待ってるのは孤独死じゃない。あんた、どうやって生きていくつもり? 蒼真にも迷惑かかるのよ?」

「……」

 母がトーンを落とすに従い、私の中に怒りがふつふつと湧き上がってきた。

「捨てること、ないじゃない……」。

「何?」

「だからって! 本捨てることないでしょ!? 酷い!」

「朱音! あんたまだそんなことを!」

 声を発したのをきっかけに、私の目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

「結婚なんてしたくないよ! なんでそのことを責められなきゃいけないの? 押し付けないでよ!」

「私はあんたのためを思って言ってるのよ?」

「何が私のためよ! 人の宝物根こそぎ捨てるとか、もう心の殺人じゃん!」

 私は母を押しのけ、階段に向かう。

「わかった、この家に私の居場所はないんでしょ! もういい! 消えてやる!」

 普段出さない大声を出したのがいけなかったのか。

 本を連日徹夜で作り、イベント中は興奮でまともに寝てなかったせいだろうか。

 大切なものを丸ごと捨てられたショックのためだろうか。

 突然目の前がちかちかと白く染まり、重力が狂ったように体が揺れた。

「朱音!」

(あ……)

 足の下の感覚が消え、私の体は空中に投げ出される。

 そして次の瞬間、したたかに叩き付けられた。幾度も、幾度も、幾度も。

(あ、が……)

「朱音!」

 全身を襲う激痛、そして私の名を呼ぶ声。それらはやがて急速に遠のいてゆく。

 悲鳴に似た誰かの声を聞いたのを最後に、私は意識を手放した。

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