奴隷世界の神々

森本 晃次

第1話 奴隷制度の神

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和三年十二月時点のものです。それ以降は未来のお話です。


 世の中には、どれだけの種類の宗教があり、さらに、どれだけの神がいるというのだろうか?

 宗教にもまったく違った種類の宗教、つまり、仏教とキリスト教のようなものもあれば、同じキリスト教でも、カトリックと、プロテスタントと呼ばれる、新旧という意味での枝分かれのような宗教もある。一種の暖簾分けのような感じに思うが、本当はもっと奥の深いものかも知れないが、信者でもない一般人に分かるはずもない。

 枝分かれのようなものまで含めると、無数にあるように思うのだが、神様としてはどうなのだろう?

 枝分かれしているとはいえ、崇める神は同じ場合もあるだろう。かと思えば、宗教の中には、神として崇めるものがないものもある。教祖自身が、

「私が神だ」

 などと言っている、胡散臭い宗教だってあるくらいだからだ。

 しかも、一つの宗教でも、神がたくさんいるものもある。かと思えば、宗教とは関係のないところで神が存在したりする。

「一緒にしてはいけない」

 と言われるであろうが、仏様にも、いろいろおられるではないか。

 そして、宗教とは関係のないところで存在する神として、ギリシャ神話に出てくる、

「オリンポスの神々」

 などがいる。

 これらは、宗教というよりも、神話として残っているもので、神話ということであれば、日本書紀や古事記に出てくる神も、宗教とは違うところだといってもいいだろう。

 そう考えれば、

「神様と宗教って、切り離して考えてもいいのではないだろうか?」

 と考えられる。

 つまりは、宗教が、神性というだけではなく、聖なるものであったり、信仰、超自然的な存在ということであり、

「人間の力や、自然の力を超えた信仰」

 という概念があるようで、必ずしも髪を必要とするものではないということだ。

 ただ、その超自然的、超人間的なものの象徴として、神をまつるという発想から生まれてきたのが宗教だということも事実であり、

「神仏あってこその宗教」

 と思っている宗派もあれば、

「偶像崇拝は許されないもの」

 というようなイスラム教のような宗教もある。

 しかも、崇拝神としての、宗教が有名なこともあって、どうしても、宗教と神を切り離すことはできないのだろう。

「キリスト教における、イエスキリスト、イスラム教における。アラー、ゾロアスター教における、アフラマズダ、さらに仏教における釈迦如来」

 などが、有名なところであろう。

 その教えが宗教によって大きく違っている。

「現世の残りの人生をどう生きるか?」

 というものであったり、

「死んでから先、極楽に行けるように、現世を生きる」

 というものなどがある。

 今の世で宗教を頼ってしまうと、一歩間違うと、

「詐欺に遭ってしまう」

 という危険性をどうしても意識するので、信仰心の薄い人は、宗教を毛嫌いする。

 昔の宗教弾圧なども、そうであるが、実際に世界史的に大航海時代からの、植民地建設の歴史を見ていれば、あながち、無理もないことである。

 日本において、戦後七十数年の間にも、宗教画来の事件が数十件起こっていたではないか。

 かつての、

「イエスの箱舟事件」

 あたりから始まって、一連の、

「オウム真理教」

 による、自分たちへの警察の追及を免れるためという理由で、国家に対してのテロ行為を行った事件として、あまりにも有名であるが、宗教というと、

「洗脳、マインドコントロール」

 というものが、一番の問題であって、さらに言えば、

「マインドコントロールされる人というのは、その人が社会から孤立していたり、家庭に居場所がないなどの、一種の社会問題が裏に潜んでいる」

 ということが、実は一番の問題なのではないだろうか?

「家庭に居場所がない」

 などという理由で、起こった

「イエスの箱舟事件」

 さらには、教祖のカリスマ性が宗教を強くし、その洗脳が自分たちの保身と重なって、しかも、その信者が、医者であったり、学者などの集まりという頭脳集団であるから、余計にテロに使う兵器の開発もできたのだろう。

 宗教犯罪というのは、いくら教祖の力が強かったりしても、信者がいなければ、犯罪にまで結びつけることはできない。

 教祖だといっても、神ではないのだ。万能の神であっても、一人では何もできないということは、オリンポスの神を見ていれば分かるだろう。

 万能の神として、ゼウスが存在し、十二神と呼ばれる、

「戦いの神」

「海洋の神」

「美の女神」

 などという、ゼウスの下にはそれだけの神が控えていたのだ。

 しかも、どの神も精神的には実に人間臭い。

 嫉妬深かったり、人間を滅ぼすことに何の罪悪感もなかったりするのを、人間はどうして神として崇められるのだろうか?

 そこにあるのは、尊敬や崇拝ではなく、恐怖の回避を求めているからではないのだろうか?

「加算砲なのか、減算方なのか?」

 という考えに近いような気がして、

「神話の世界は、やはり宗教とは少し違うのかも知れないな」

 と感じた。

 ということであれば、

「イエスの箱舟なる宗教は聖書を模しているようで、キリスト教に関係があるような感じなのだが、果たして内情はどうなったのだろう?」

 と考えてしまう。

 そもそも宗教というのが、俗世から離れた環境で、悟りを開いたり、修行をするという感覚なので、悪いことだという感じには思えないが、身内の人間からすれば、

「家族を奪われた」

 と思うだろうし、

 それよりも、

「家族が宗教に入信したなどということが分かると、近所に顔向けができない。あるいは、会社は学校で白い目で見られてしまう」

 という感覚の方が強いのかもしれない。

 やはり、問題は、

「信者になった連中が、どうして入信するに至ったか?」

 ということであり、家庭に居場所がなかったり、世間からつまはじきにされてしまったりするそんな社会に問題があるのではないだろうか。

 すべてを宗教のせいにして、自分たちは悪くないと思うまわりの人たちに、それこそ窮境ということで、超自然的な力があるのだとすれば、

「バチの一つでもあたってもいいのではないか」

 と言えるのではないだろうか。

 そんなバチが当たるわけもなく、宗教団体がそのまま問題になる時点で、

「どっちもどっち」

 と言える、泥仕合のようなものが、できているのかも知れない。

 そんな宗教を考えていると、どうしても、神の存在というものがどういうものなのかということを考えさせられるような気がした。

 そこで、一般的にいるはずはないだろうが、

「こういう神がいたとすれば?」

 ということで、神の創造をしてみたいと思う。

 そもそも、神が人間を創造したというのだから、人間が神を創造してもいいではないか。もっともこの理屈は、

「神が本当に存在する」

 ということを前提に言っているのであって、存在しない神が人間を創造できるはずもなく、

「神を創造したのが人間でしかない」

 ということになるのだ。

 そう考えると、

「神というのは、矛盾に包まれた存在なのではないか?」

 とは考えられないだろうか。

 まるで、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 という禅問答のようではないか。

 もっとも、それは、

「生き物は、必ず創造主がいる」

 という考え方に基づいているもので、その理論は、

「人間は、親から生まれる」

 という人間にとって当たり前の発想からきているに違いないのだ。

 だから、創造主がなければ、

「人間はどうやって生まれたのか?」

「神は誰が創造したのか?」

 という発想に至ることもない。

 だからこそ、話は少し飛躍するが、

「タイムパラドックス」

 という発想が出てくるのだ。

 タイムパラドックスというのは、

「タイムマシンやワームホールを使って、人間が過去に行って、過去を変えてしまうと、未来、つまり今までいた時代も変わってしまう」

 という発想である。

 この発想を裏付けることとして、

「親殺し」

 という発想があるのだ。

 過去に行って、自分が生まれる前の親を殺したとすれば、自分は生まれない。殺すまでしなくても、両親が出会うタイミングを少しでもずらせば、自分が生まれてくることはない。

 生まれてこなければ、存在しない子供が過去に戻って、歴史を狂わすわけはない。だとすれば、歴史は変わることなく動くことになる……。

 というのが、タイムパラドックスなのだ。

 つまり、タイムパラドックスの発想というのは、

「親と子が存在しないと、成立しない概念なのだ」

 ということである。

 逆にいうと、

「親と子が存在するから、タイムパラドックスということが起きるのだ」

 ともいえるだろう。

 だとすると、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 という発想も、タイムパラドックスの矛盾という発想と同じものだといえるのではないだろうか。

「世の中にある無数の矛盾というのは、こうやって突き詰めていくと、案外狭い範囲に集約されるものなのかも知れない」

 と言えるであろう。

 宗教と神の関係も、そういう意味では、矛盾というのがキーワードとなって、実に狭い範囲で、ニアミスを起こしているのかも知れない。

「世界は無限に広い」

 と言われるが、実は交わることのないところで、グルグルと回っているだけなのかも知れない。

 神を作ったのは人間であるとすれば、なぜ神にもいろいろな神がいるのだろう。

 純粋に、人間を助け、幸せに導いてくれる立ち位置の神もいれば、オリンポスの神々のように、人間臭い神もいる。

 だが、人間のためになる神を創造するというのは、人間のエゴが作り上げたものだといってもいいだろう。

「フランケンシュタイン症候群」

 という言葉にもあるように、

「人間よりも優秀な、理想の人間を作ろうとしたのに、間違って、人間を滅亡に導くようなものを作ってしまうという小説は、今の人間のおごりや高ぶりを、象徴している」

 のではないだろうか?

 人間というのは、それほど、傲慢なものであるということで、小説のネタになるのだ。

 神を創造したギリシャ神話だってそうではないか。あくまでも、戯曲であったり、小説のようなものであったりするわけで、その中に警鐘を鳴らすものがあってもいいわけだ。

 それにしても、ひどすぎるところはあるが、そこは逆に、

「天変地異などの自然現象も、人間が不利になるような状況に陥れば、それを神の仕業として考える」

 という発想なのかも知れない。

 突如として、大帝国が数日の嵐で全滅し、海に沈んでしまったなどということが本当にあったのかどうか分からないが、それに近いような大打撃を受けたところがあったとすれば、小説の中では全滅したことにして、話として、

「例えば、その国の王妃が、神に好意を抱かれて、妊娠してしまい、子供を宿したとして、嫉妬に狂った国王が、その子供を、悪魔の子と称し、海に流してしまったのを見た神が、自分の子供を海に流したとして、国王にバツを与えようと、海獣を使って、その帝国に嵐を巻き起こし、滅亡させてしまった」

 というような話があったりするのだ。

 つまり、

「超自然的な現象は、神の仕業だ」

 ということにしてしまえば、

「神を崇めることによって。国が亡ぶことはない」

 という言い伝えを残し。無意味な自然に対しての不安を、国民が抱かなくてもいいという考えもあったのかも知れない。

 あくまでも、個人の勝手な理解なので、神話を書いた人がどういう発想で書いたのかは分からない。

 ただ、もしそうであったとすれば、神はうまく人間に使われたことになる。

 ただ、神が利用されるということは、どの時代にもあったことだ。

 薬もまともになかった時代には、大病を患うと、死ぬのを待つか、それとも祈祷によって治癒を願うかということになるのだが。その時に神が使われたりする。

 昔の人は自分たちの生き死にが掛かっているのだ。

 特に、農民などは、天候によって、その都市の豊作、不作が決まってくる。

 干ばつや長雨などでは作物が取れずに、大飢饉に見舞われたりするが、そんな時は雨ごいなどの祈祷をしたりするものだ。

 今であれば、笑って済ませることであるが、当時の人はそうもいかなかった。

 戦争でもないのに、道端に行き倒れた人が、溢れているなどということを、誰が想像できるだろうか?

 だが、天候や自然現象を、神が助けてくれるわけはなく。祈りが通じないことがほとんどであろう。

 そんな時に、もし神というものを創造していなければ、どうなるだろう?

 民衆は、何を信じていいのか分からずに、無秩序な無政府状態になる。それでも、神の存在を信じさせているから、大きな混乱にならない時代もあっただろう。

 ただ、さすがに江戸時代などのひどい飢饉の時は、米騒動や打ちこわしなどで、民衆が大いに血気盛んだった時代もあったが、それも、信仰心があるから、まだ秩序を持った一機などがあったのだろう。

 とにかく、世の中というものが、神を信じるという信仰心で、今まで歴史が築かれてきたことは間違いない。

 ただ、世界では、宗教戦争というのもたくさんあった。日本でも古代の、

「乙巳の変」

 などは、宗教がらみだった事件である。

 やはり人間の生活に宗教が絡んでくると、戦が起きないということはないのであろう。

 宗教戦争には、その宗派のプライドと、そして、神に対しての尊敬、さらには、自分たちの死後に極楽に行けるかどうかという考えが絡んでくるので、兵士も必死なのではないだろうか。

 普段からの修行、そして、教祖の洗脳によって、

「死を恐れない」

 という気概が彼らにはあり、本来なら、

「人を殺めてはいけない」

 ということが戒律であるはずの宗教で、

「自衛のためなら仕方がない」

 という、ことを洗脳されているのか、それとも、感覚がマヒしているのか、戦争では、死に物狂いで戦っていたのだろう。

 そんな宗教において、そこまで勇敢に戦えるというのは、彼らが信仰している神の中に、

「戦いの神」

 がいるからではないだろうか。

「お前たちには、戦いの神がついておられる。だから、戦って、自分たちが正しいということを証明してくるんだ」

 とばかりに、洗脳していたに違いない。

 さらに、もう一ついえば、神の中で戦いだけではなく、

「彼らの守り神」

 というべき神が創造されているような気がする。

 それは、

「奴隷の神」

 ではないかと思うのだ。

 これは、戦争の時に戦うだけではなく、奴隷として扱われることを、自らに正当化することで、宗教に忠誠を誓うというような神である。

 普通の、

「人間というのは、生まれながらに平等なのだ」

 というのが、宗教では当たり前のことのように言われているが、実際には本当にそうなのだろうか?

 そもそも、生まれながらに平等で、何ら問題なく生きていけるのであれば、宗教などというものに誰も頼らずに生きていけるはずだ。

 だからこそ、宗教に頼り、

「宗教内では、皆平等」

 という感覚があることで、洗脳されながら生きているのだろう。

「人間が生まれながらに平等だ」

 などという考えは、そもそもに無理がある。

「人間は生まれてくることを選べないのだ。生まれてくるにしても、どの親の元に生まれてくるか。いつの時代に生まれてくるか」

 ということも分からない。

 下手をすれば、命が宿った瞬間に、

「子供を育てられない」

 あるいは、

「親がまだ若くて、生活能力がない」

 つまりは、中学生だったりすることで、中絶などをして、この世に生れ落ちる前に処分されることもあった。

 時代によっては、親が処刑されたことで、子供も一種に処刑の意味で、生れ落ちてすぐに殺されることもあった。

 平清盛が、源頼朝を助けたことが、一生の不覚となったことが、その後の日本の歴史上、敗者の子供の運命は決まったも同然になったからだ。

 それ以外においても、生まれてきてからも、親が貧乏だったり、身分制度で下級身分の親に生まれてくると、その子もその時点で運命は決まっている。

 江戸時代などは、特に身分制度がハッキリしていて、

「生まれた瞬間に、運命は決まっている」

 と言ってもよかっただろう。

 生れ落ちる時に、子供は親を選べない。親も子供を選べない。ここに、果たして、

「何が生まれながらにして平等だ」

 などと言えるのだろうか?

 そんなことを考えていると、それだけで、

「宗教というものが、胡散臭いものだ」

 と言えるだろう。

 そういう意味で、宗教というのは、洗脳が必要なのだ。

 入信するにしても、洗脳によって、それまでの考えを変えさせないとできないことだろう。

「私には、この世の理不尽を理解することはできない」

 と思いながら、搾取されたり、理不尽な生活を余儀なくされることを、半ばあきらめの境地で生きなければならない。

 そんな人間に、

「人は生まれながらに平等だ」

 と口でいくら言っても、信じないだろう。

 まずは、相手の感覚をマヒさせることから始めるのではないだろうか?

 感覚がマヒしてしまうと、ゆっくりでも、宗教を信じるという気持ちの中の余裕が出てくる。

 そういう意味で、宗教の基本というのは、

「心を無にするlpとだ」

 と言えるのではないだろうか?

 無にした心境であれば、いくらでも、受け入れることができる。それまで理不尽だと思ってきたことも、自分の中にある常識というものが、世の中の流れとかけ離れているから感じることで、そんな理不尽な気持ちがあるうえでは、なかなか宗教を理解させるのも難しいだろう。

 ただ、理不尽な気持ち以外にも存在していた、人間としての悔しさや、自分の中の尊厳のようなものすべてをなくさせる必要はない。

 いや、なくさせようにもなくなるものではないのだろう。

 本能に近いものだろうからである。

 そもそも宗教はそんな感覚をなくさせようとは思わない。本能的なものがあるから、人間は、無駄な考えがなくなった時、

「自分は、救われるんだ」

 という気持ちになるのだろう。

 宗教はそこに付け込んで、人間を洗脳しているのではないだろうか。

 だが、この洗脳が、本当に悪いことなのかどうか分からない。

 人間の理不尽な部分は取り除き、残っているのは、本能的な感情だけであるとすれば、洗脳されることは、本人にとって苦痛ではない。むしろ、

「救われる」

 という感覚なのだ。

 元々、人間というのは、群れを成して生きているのであり、

「人は一人では生きられない。だから、仲間や家族を大切にする」

 と言われているが、果たしてそうなのだろうか?

「人間は生まれてくる時は一人、死ぬ時も一人」

 というのが当たり前なのではないのだるか?

 人が洗脳されて、宗教団体に入ってしまうと、

「うちの、息子を返せ」

 などと、まるで宗教団体に、子供を取られたといって、そんな人が増えると社会問題になり、

「また、宗教団体が問題を起こしている」

 と、世間はそのニュースを見て。

「宗教団体は悪い組織なんだ」

 ということで、言われるだろう。

 だが、果たしてそうなのだろうか?

「人間が人間らしく生きるのが宗教だ」

 というのであれば、友人が何をいおうとも関係ないではないか。

 それが親であっても同じこと。むしろ、子供が、

「宗教に入信することで、本来の自分を取り戻したい」

 と思っているとすれば、無理やりにでも連れ戻していいものなのだろうか}

 元々、宗教に入信しなければならないように、本人をそこまで追いつめたのは、そもそも、社会であり、家族ではなかったか。

 それを棚に上げて、一方的に宗教を悪くいうのは、いかがなものかと言えるのではないだろうか。

 もちろん、宗教の肩を全面的に持つわけではないが、人間にも理不尽なところがあるということを、考えないのは、片手落ちだというものだ。

 だから、宗教に入信した本人は、そこで初めて、

「他人ごととして」

 自分を見つめ直すことができるのだろう。

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