予知能力としての螺旋階段
森本 晃次
第1話 パラレルワールド
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。昔の特撮に似たものがあったりしますが、内容の説明程度にとどめております、あしからずです。ちなみに世界情勢は、令和三年十二月時点のものです。それ以降は未来のお話です。
K大学という総合大学があるが、総合大学としては、どちらかというと小規模な大学だといってもいいだろう。K大学の近辺は、大学が乱立していて、この沿線にはたくさんの大学がある。隣の駅にもさらに反対側の隣の駅でも、朝は学生がたくさん降りていくのである。
K大学の最寄り駅である、O駅でも、複数の大学があり、K大学以外にも、短期大学、薬科大学、さらには少し離れてはいるが、商船大学があり、この駅を利用しているのだった。
その中ではK大学が一番大きいのだろうが、キャンバスと言っても、普通の高校よりも少々大きいくらいで、さほどの広さは感じられない。
それは、背後に山があり、麓に作られた大学だということなので、それも仕方のないことだったのかも知れない。
このあたりは、基本的にはほとんど災害のないところと言われてきた。ただ、昭和初期に、後ろの山から迫ってきた、「鉄砲水」により、多大な犠牲があったという。そのせいもあってか、この地域を走る鉄道にかかる川は、鉄道の上に橋を架けて流れるようになっている。これを、
「天井川」
と呼んでいるのだが、これも、かつての鉄砲水の影響を考えて作られたものだった。
この地域は、その昭和初期からずっと、
「災害がほとんどない地域である」
と言われて、住みやすさでは、全国でも有数の場所と言われてきた。
しかし、そんな神話が崩れたのは、平成になってからであった。
数々の神話が一気に崩壊するほどの大災害となった地震が起こったのである。いわゆる、
「都市直下型大地震」
と呼ばれるもので、高速道路が横倒しに倒れている状況を目の当たりにして。
「フィクションではないか?」
と思った人も多かったことだろう。
「百万都市が一気に崩壊した瞬間」
だったのだ。
それでも、地元民の復興に対しての熱い努力で復興なったその都市で、今大学に通っている人たちは、その大地震から後に生まれた人たちであり、大地震を知らない子供たちだといえるだろう。
昔、
「戦争を知らない子供たち」
というフォークソングが流行った。
ちょうど、ベトナム戦争の時期で、世界的な反戦運動が起こっていた時期だったといってもいいだろう。
そんな頃のことなど、もちろん、大学生が知るわけもない。
「歴史の中の出来事」
というだけのことであろう。
だが、そんな時代のこと、あるいは、かつて日本で起こった戦争のことを、高校時代までは、まったく気にしていなかったのに、今になって気になっている人もいる。
「吉岡かえで」
彼女は、若干二十歳の二年生である。
学部は文学部に所属していて、国文学を専攻していた。
そのせいか、歴史にはそれなりに興味を持っていたが、最近では、いろいろな小説を読むようになり、その中でもSF小説が気になるようになってきた。
実はかえでのような人は文学部には結構いるようで、それだけ年齢的にも多感な時期なのかも知れない。
本当は高校一年生の頃までは、物理学か、化学をやりたかった。しかし、数学が致命的に苦手だったので、理数系を二年生になった段階で早々と諦めたのだ。
それでも、趣味として勉強する分には問題ないので、よく受験勉強の合間に、物理学や化学の本を読んだりしていた。
ただ、その一方、心理学にも興味を持っていて、心理学の勉強も並行してやっていたのだ。
そういう意味では、
「かえでは、多趣味な女の子だ」
と言っていいのだろう。
そんなかえでが、物理学の観点から興味を持ったのが、
「パラレルワールド」
というものだった。
基本的には、今まで物理学とパラレルワールドとはあまり関係のないものだと言われてきた。
パラレルワールドというのは、SF小説の中でのことで、異次元のようなものだと思っていたからだ。
相対性理論などが近いのかもしれないが、今では、物理学の世界でも、論理的な可能性として語られているという。
そもそもパラレルワールドというものは、現実とは違う、つまり、
「違う次元の世界」
というような考え方をしている人がいるようだが、実際には違うのだ。
同じ次元の中に、酷似した、
「もう一つの世界が広がっている」
という考えが大多数の人が感じていることであろう。
だが、この考えによって、もう一つの理屈が考えられる。それは、
「タイムトラベルとパラレルワールドの関係」
である。
タイムトラベルというのは、タイムマシンのようなものを使って、別の時代に飛び出す。あるいは、
「ワームホールのような自然現象によって、本人の図らずも、別の世界に連れ去られる」
などろいう考え方である。
この場合、問題になってくるのは、
「タイムパラドックス」
という問題である。
タイムパラドックスとは、自分が過去にいって、過去の歴史を変えてしまうと、時間軸が一つしかない世界であれば、当然のごとく、未来が変わってしまうという考え方である。
つまりは、自分がまだ生まれる前の世界にタイムトラベルを行った時、そこで自分の親の歴史を変えてしまった場合。例えば、結婚しない運命であったり、親を殺してしまうということをしてしまったらどうなるだろう?
その時間軸の延長では、少なくとも、本人が生まれてこないことになる。すると、本人がタイムトラベルをすることもないので、歴史が変わることもなく。自分が生まれることになる。自分が生まれれば、タイムトラベルをして、歴史を変えてしまうことになるということになる。
それが時間軸における矛盾ということであり、それを、
「タイムパラドックス」
と呼ぶのだ。
だが、ここで問題のパラレルワールドがどのように絡んでくるかということが問題になってくる。すなわち、
「タイムトラベルで行きついた先は、実際は現実に酷似したパラレルワールドであり、どの時間軸で歴史を変えようとしても、自分がいた元の世界には影響はしない」
という考え方である。
これは、パラレルワールドを使った、
「タイムパラドックスの解決法」
ということで、SF小説などで書かれている作品もあるそうだ。
そのことは、宇宙という考え方にも影響しているかも知れない。
宇宙は、今でも膨張を続けているという。
元々宇宙というものは、ごく小さな世界だったという。その世界がビッグバンという爆発によって、巨大化し、それぞれの星となって存在していることになる。
何千光年という遠くの星が存在することは分かっているが、今実際に存在しているかどうかというのは分からない。
なぜなら、
「光年」
という単位は、
「光が一年で到達する距離」
だからである。
光の速度で何千年ということになり、何千に前に光った光を、今自分たちが見ているということになるのだ。
宇宙の起源を解明しようとしている研究の中で、ビッグバンの頃を研究しようとすると、
「一番遠くの星を観察することが重要だ」
と言われている。
一番古い星がいかに発生したのかということの研究なので、ビッグバンに一番近づくことになるからだ。
さて、
「そんなビッグバンによって広がってしまった宇宙の、さらに外はどうなっているのだろうか?」
ということを考えると、いろいろな発想が出てくる。
その中に、パラレルワールドという考えもあっていいのではないだろうか?
中には、一次元から、四次元までとは違う。同じ空間ではない異次元が存在しているのかも知れないとも考えられるからだ。
もし、パラレルワールドが、同一次元のものであるとすれば、宇宙の外部にあるものとして考えたとしても、そこに信憑性はあるのではないかと思うのだった。
そんなことを考えていると、パラレルワールドというものに、変な興味を持つようになってきた。
元々、
「どうしてパラレルワールドに執着しているのか?」
というと、パラレルワールドというものを勘違いしていたからである。
パラレルというと、
「末広がりに広がっているようなものだ」
という思い込みがあったので、まさか、
「同一次元の、酷似した別世界」
という発想なのだとは思ってもいなかった。
つまりは、時間の経過というものが、一本の時間軸にはなっているが、可能性というものは無限であるという考え方である。
考えられることが無限にあるのに、起こっていることは一つしかない。それは時間軸が一本だということであり、
「最初から決められたレールを歩んでいるだけのことだ」
と考えられるのだ。
だからこそ、人間はロボットと決定的に違うものであり。ロボット開発ができないということになる理屈と一緒だと思っていた。
ロボットにいくら人工知能を植え付けたとしても、次の瞬間に起こるであろうことを予測して行動することができないのだ。無限に存在する可能性を見つけることはできない。
「だったら、その可能性をパターン別に考えれば、パターンの中から選べばいいではないか」
という考えに至るのだが、それも不可能なことで、
「無限に存在する可能性をいくらパターンに分けようとしても、そのパターンだって、無限に存在する」
ということだからである。
数学だってそうではないか、
「無限をいくら何で割ったとしても、無限にしかならない」
ということなのだ。
これを、ロボット開発の一番のネックである、
「フレーム問題」
という。
このフレーム問題なのであるが、なぜか人間は、ちゃんと解決しているのだ。自分でパターンなとを考えることなく、頭の中で、その現象を有限のものとして、次の瞬間に起こることを、ある程度絞って考えられる頭を持っているのだ。それが無意識からであることで、本能になるのか、それとも、遺伝子の知らかによるものなのか、そのあたりは分からないが、考えさせられるのだった。
かえでは、そんな次の瞬間に、
「無限に広がる可能性」
のことを、
「パラレルワールドだ」
と解釈していたのだった。
これが本当に勘違いだとすると、次の瞬間に起こる無限の可能性が広がっているはずの世界を何というのだろうか?
こちらの方が、それらしい名称だとはいえないだろうか?
そう思うと、自分が勘違いをしたことも納得がいくというものだ。
それにしても、どうして、人間は、その無限の可能性というものを理解できるのであろうか? もちろん、そのすべてが分かり、一つの辿り着いた先は本当に正しいものなのかどうかは分からない。
確かに、
「歴史が答えを出してくれる」
というが、その時々の判断が本当に正しかったのかどうかなど、分かるはずはないのだ。
何といっても、それが分かるくらいなら、人間は二度と過ちは犯さないだろう。それを思うと、人間といえども、無限の可能性を否定しないで出来上がったものだとは言い切れないのだろう。
ただ、人間は、無限の可能性だということを意識しないで行動する。それがいいことなのか悪いことなのか分からないが、ロボットの場合は、元からそんな風に作られているのか、少しでも完璧ではないことがあれば、行動を停止してしまうように作られるに違いない。
それは、
「ロボット工学三原則」
という発想に導かれるものである。
ロボット工学三原則というのは、
「ロボットが、人間のために行動するための、指針のようなものである」
と言えるのではないだろうか。
この三原則には優先順位がついている。
一つ目は。
「ロボットは、人間を傷つけてはいけない。そして、人間が危険に襲われると分かっているのに、それを見逃してはいけない」
というのだ。
つまりは、人間を傷つけない。そして、人間が危険に陥れば、身を挺して守るということをプログラミングされている。
そして二つ目は、
「ロボットは人間の命令通りに動かなければいけない」
というもの。そして三つめは、
「ロボットは、自分の身は自分で守らなければいけかい」
というものである。
これは、ロボット開発に、多大なお金がかかっているので、ロボットの判断で人間でいえば、自殺のようなことをされては困るという発想からきている。
そして、この三つの条項は、最初から最後まで優先順位が高いものから並べられているのだ。
ロボットは、人間のいうことを聞かなければいけないとはいえ、
「人間を殺せ」
という命令には従ってはいけない。
なぜなら、優先順位は、人間を傷つけてはいけないというところにあるからだ。
だが、逆に、自分のご主人が危険に晒されていて、その時、もう一人の人間を殺さないと、助けられない場合は、最初の条文の後半が生きて、主人を助けることを優先することになるだろう。
その発想は、元々、
「フランケンシュタイン症候群」
というものからきている。
ロボットや人造人間という発想は、フランケンシュタインからきているといっても過言ではない。
あの話は、理想の人間を作ろうとして、結局、悪魔を作ってしまったという話で、人間に危害を加えるものを作ったというSF小説である。その発想があるので、ロボット開発において、ロボットが人間に危害を食わせないというのが、一番の大切な事項で、その次がロボットの存在意義としての、人間の命令を聞くということになるのである。
もし、フランケンシュタインの発想がなければ、
」人間を傷つけてはいけない」
という発想が出てきたとしても、優先順位が、人間の命令を聞くということと逆になっていたかも知れないのだった。
そういう意味で、フランケンシュタインの物語を考えた人は、曲がりなりにも、
「ロボットの弱点」
を指摘したことになり。それが、警鐘となって、ロボット工学三原則を作りあげ、さらに、それらの優先順位の矛盾をさらけ出すことになるのだ。
元々、このロボット工学三原則という話は、科学者や物理学者が考えたことではない。
実はアメリカのSF作家が、自分の小説の作品の、
「ネタ」
として考えたことだったのだ。
今ではそれが全世界のロボット工学における課題として残され、先に述べた、無限の可能性をどのように解決するかという、いわゆる、
「フレーム問題」
という二つが絡み合って、ロボット工学の発展の足かせとなっているのだった。
それはまさしく、タイムトラベルにおける、
「タイムパラドックス」
と同じようなもので、その発想が、結局、
「パラレルワールド」
によって解決されるかも知れないとすれば、今の科学者などが提起、あるいは、理解していることの中に、ロボット工学の矛盾を解決できるようなヒントが隠されているのかも知れないといえるのではないだろうか。
そんなことを考えていると、スパイラルという言葉を思い出す。
「負のスパイラル」
ということでよく使われるスパイラルという言葉であるが、言葉の意味としては、螺旋ということのようである、
これを平面的に見ると、蚊取り線香のような渦巻に見えるのだが、立体的に見ると、今度は螺旋階段に見えてくる。
これは、二次元と三次元という、次元の違いでもあるが、考えてみると、二次元と三次元で形が違うというのは当たり前のことで、
ただ、普通に二次元に見えているものを、三次元とは別のものとして解釈するだろう。
絵や写真と実際の立体の像とでは、普通に違うものだとして認識している。
だから、絵を見た時や、写真を見た時など、明らかにその光景は、
「似て非なるものだ」
と理解していることだろう。
しかし、螺旋階段と、蚊取り線香では、まったく違うものだと解釈している。
螺旋階段も上から見ると、蚊取り線香のように見えるが、その時人間は感覚的に、
「錯覚を見ている」
と感じることだろう。
普段、絵であったり、写真を見ている時、実際の光景の三次元と、そん色のない光景に見えるのは、普段から二次元と三次元を意識してみていないということだろう。
しかし、螺旋階段と蚊取り線香のように、ハッキリと別のものだと理解するのは、
「似たものであっても、二次元と三次元では別のものに見える」
ということで、無意識に二次元と三次元を意識しているということになる。
目の錯覚というのは面白いもので、いわゆる錯視と呼ばれるもので、
「サッチャー錯視」
というものがある。
これは、一つの絵を、普通に見た時と、逆さから見た時ではまったく違うものに見えるというものである。
この発想は、二次元だけに見られることではなく、三次元でも見られる、それは、天橋立の有名な見方としての、
「股覗き」
というものがある。
有名な光景を逆さから見ると、竜が天に昇っていくように見えるというものであり、その時に感じるのが、
「まるで平面を見ているようだ」
ということであった。
「人間は三次元を逆さから見ると、二次元を見ているかのような錯覚を覚え、それが元々二次元であっても、同じような錯覚を覚えるのが、サッチャー錯視というものだ」
と言えるのではないだろうか?
そういう意味で、錯覚と呼ばれるものは、実に厄介であるが、突き詰めて考えてみると、それぞれに関係のないことのように思えることが、一周回って、同じ発想になるのではないかと思わせるのだった。
二次元と三次元の違いを、果たしてそのまま、三次元と四次元という発想に当て嵌めて見ることができるのかどうか、それが問題だったりする。
以前、特撮モノとして見たテレビ番組があったが、そこで四次元の世界というものを表現していた。
そこは、映像にする時に、歪んで見えるような見せ方をしていて、そこに迷い込んだ人間も、まるで大海原に出航していき、嵐に巻き込まれでもしたかのような船の中にいる感覚に見えた。
そして、その世界というのは、現実の世界と同じ場所にあって、空間が違っているだけのことなのだ。
何かの衝撃で小さな穴が開いたのか、お互いの声は聞こえているのだが、姿は見えない。まったく違う空間が出来上がっていて、そこに別の世界が広がっている。
「待てよ? これって」
とふと考えると、
「パラレルワールドと正反対の考え方ではないか?」
ということだったのだ。
パラレルワールドというのは、同じ次元で、別の場所、あるいは別の空間に、まったく同じような世界が広がっているという考え方である。
「パラレルワールドの発想が先なのか、それとも、四次元という発想が先なのか?」
と考えると、普通なら、
「四次元の発想が先のような気がする」
と思うのだが、実際はどうなのだろうか?
このような、似ている発想であるが、実際にはまったく正反対という発想も結構あるに違いない。
そんなことを、考えるのが好きだったかえでだった。
かえでは、高校時代から、SF小説であったり、物理学などの話であったり、さては、超科学的な発想の本を読むのが好きだった。
それらはどうしても、本としては難しく。読むのに苦労がある。
そのような本ばかりを読んでいると、疲れてしまい、そのうちに、読むことへの拒否反応を示すであろう。
そこで、歴史の本などを読むことで、頭を柔らかくしようと思うのだった。
それは、まるで、
「能というものの間に狂言というものを挟んでいるような感じだ」
と言えるもので、歴史の本が、一種お癒しになっているのだ。
また、超科学的なことでも、SF小説のように、フィクションとして、楽しく読めるものも、まるで狂言のようであるかのように読むのだった。
歴史の本も、どちらかというと、ノンフィクションが多い。歴史小説と、時代小説と、言葉は似ているが、実際には違うジャンルの作品があるということをご存じであろうか?
時代小説と呼ばれるものは、基本的に時代劇などのような、フィクションであり、時代考証は実際の時代に似せてはあるが、まったく同じである必要はない。あくまでも、歴史の中で、
「もしも」
といわれるようなものが書かれたりするのである。
たとえば、
「関ヶ原の合戦で、西軍が勝っていたら?」
という発想から、豊臣軍が勝つシュミレーションをしてみたりする。
だから、史実になるべく近づけた方が、フィクションでありながら、リアルな感じがするのだ。
歴史小説と呼ばれるものは、ノンフィクションである。一人の武将の生涯を描いたものや、歴史上の事件や戦を描いたものなどを、時系列に沿って描くのが歴史小説で、歴史の勉強には役立つであろう。
だから、まずは歴史小説を読んで、史実の勉強をして、そこから時代小説を読む。そうしないと史実を知らずに、架空の話を読むと、すべてが架空の話であると思い込んで、せっかくのリアリティが亡くなってしまう。それでは、想像を膨らませえるのにも、中途半端で終わってしまうように思えるではないか。
そう思うと、歴史小説と時代小説は、読む順番が決まっているといってもいいのではないだろうか。
歴史の勉強も奥が深い。何しろ、時間軸は一つしかないということで、歴史がのちの世に答えを出しているということになるからである。
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