ターフの旅人

綿津サチ

有馬記念・二連覇を掛けて

 クリスマス・イブ。聖夜に湧く世間の中、この場だけは別の熱に湧いていた。久方ぶりの景色が見られるのではないかと湧く人々の瞳に宿る、にわかに降り始めた雪が落ちるより早く溶けるほどの期待。

 有馬記念連覇、その期待を背負い梅原鷹一は相棒に跨っていた。ヒトよりも少し高い温度を感じながら鷹一は相棒と共に先を見据える。

 新馬戦から共に走り、数多の歓喜と苦難を乗り越えて、今。目指す先は2500mの長く短い旅路の先にあるゴールのみ。期待の熱波がちりちりと人馬の背筋を焦がした。

「ウィアートル」

 声には出さず、栃栗毛の首筋をそっと撫でてゲートへ向かう。落ち着いた気配が歴戦の記憶を想起させ、鷹一はゆっくりと息を吐いた。奇しくも与えられたレース番号は去年と同じ一番。同じ景色で唯一違うのは、ちらつく白い六花だけ。

「今日も行こうか。雪の旅も、たまにはいいと思うぞ」

 ウィアートルは大人しく賢い馬だ。ゲートの中で首も振らずに視界が開けるのを待ち続けている。去年も、今年も。いっそ己の方が緊張しているのではないかと鷹一が思うほど静かにその時を待ち続けていた。

 最後の一頭がゲートへ入る気配が伝わった。瞬きのほどもない、ほんの一瞬の静寂。

 それから。

「ゲートイン完了、赤のランプが灯り有馬記念──スタートしました!」

 開ける視界、同時に十六頭の馬が一斉に走り始めた。ウィアートルは馬群の中の少し前に位置を取り、それから内ラチ沿いに進む。馬込みを厭わない性格が幸いして内枠の有利を上手く使いこなせていた。


 時に。己の相棒はゴール板というものを理解していると思う。鷹一は常々そう考えているし、きっと──いや、必ず去年のこの舞台のことも覚えていると信じている。だから今のウィアートルは足をためて周りの様子を伺っているのだ。去年はぎりぎりを競り勝ったところだったから、完璧な勝利を掴みたいのだろう。

 ウィアートルは大人しく賢い馬だが、少々負けん気が強かった。けれども、誰に勝つよりも自分に勝ちたいと思っている馬だった。

「広がって前方一番ウィアートル、好位置で様子を伺っています」

 彼はヒト以上にレースのことをわかっていると思えるほど、鷹一は確かな背中を信頼している。だから、下手な鞭はウィアートルの歩みを妨げるだけだと経験から知っていた。教えられたのだ、幾度かの敗北で。

 2500mの旅路を馬なりに走らせる。お前の往きたい道を往けと、ターフの旅人に鞍上から伝え続ける。お前が選んだ道ならば、それは信じられる旅路なのだ。その背に乗る鷹は、呼吸を合わせるだけでいい。

「第四コーナー回りまして一番、先頭とは六馬身離れて馬群内ラチ沿いを駆けております」

 じりじりと脳の焼けそうな光景。視野を狭める焦燥感。2500mの旅路の果てに見ゆる栄光。朧に浮かぶゴールの向こう側の景色。

 群れを成す数多の人馬を避け、誰より速くと駆け抜けた。鷹一が道を見つけ、ウィアートルはそれに応えてするりと抜け出す。ふたりは言葉を交わす代わりに、鼓動を交わしていた。

 ふたつの思考が重なってゆくのがわかる。景色を、音を、十五頭の人馬を置き去りにして青い芝生を駆け抜ける。ここまで来れば、あとは過去の己との戦いだった。

「馬群内から抜け出し最後の直線抜け出しましたウィアートル、脚色は衰えず一馬身二馬身と突き放して先頭に躍り出た!」

 一度だけ鞭を入れた。少しだけウィアートルの道行きが揺れていたから、それを鷹一が正したのだ。相棒が道を間違えるならば、それを正すのは相棒たる己の役目であると鷹一は自負している。この役目を、相棒の背中を譲る気はありやしないのだ。

 相棒の意志を受け取り、ウィアートルはぐんと息を入れた。走る、走る、走る。去年の己よりも、もっとずっと速く。鷹一もまた、それに応えるべく呼吸を合わせ直した。高鳴る鼓動がひとつになる。

 ──一筋の流星が、ゴールラインを貫いた。

「二年連続一番一着ウィアートル、ゴールインッ!!昨年よりも速いタイムで鞍上梅原鷹一と共に有馬記念連覇を成し遂げましたッ!!」

 堰を切ったように高まる歓声の中、鷹一は熱を持つ身体を冷ますように少し長く瞬きをした。まぶたの裏側にすら焼き付くターフの旅路に笑顔を浮かべ、よくやったと相棒の首筋を撫でる。栃栗毛から感じる体温が、血潮の感覚が、長く短い旅を確かなものにしていた。

 しんしんと雪が降る。ふたり分の息は白く、沸き立つ熱もまた白く。歓声を背にふたりは旅の続きを歩み続けた。

 巨大モニターの向こう、高らかな実況が厚みを増やした紀行文を締めくくる。

「遥かなターフの旅路に聖夜、新たなページが刻まれたのです──!」

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ターフの旅人 綿津サチ @wadatu_sachi

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