都市伝説の自費出版
森本 晃次
第1話 都市伝説
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ただし、小説自体はフィクションです。有名作家さんの話も、言葉の説明として引用させていただいておりますので、あしからずです。ちなみに世界情勢は、令和三年十一月時点のものです。それ以降は未来のお話です。あらかじめ断っておきますが、このお話は随所に「偏った思想」なるものがありますので、不快に感じられた方はそれ以降読まない方がよろしいかと思いますので、あしからず。
読者の皆さんは、
「都市伝説」
という言葉をご存じであろうか?
都市という言葉が使われていることで、その土地は地域に昔から伝わる伝説のようなものを、そのまま都市伝説だと理解している人も多いのではないだろうか。
確かに、そういう意味で使われているものもあり、広義の意味としての使われ方には、そういうものもあるかも知れない。
さらに、いわゆる世界の七不思議というのも、都市伝説にひっかけて話す人もいることだろう。
ピラミッドなどが代表的なものだが、世界の七不思議ではないが、ナスカの地上絵やバミューダ・トライアングルなどというものも、一種の都市伝説だといってもいいだろう。
いわゆる都市伝説として有名なものをここに記してみよう。
ただ、都市伝説というものは、どこまでが本当か分からないので、
「諸説ある」
という都合のいい言葉で言われていることが多いので、そのあたりは、あしからずと言っておこう。
まずは、
「地図にも載っていない村が存在している」
というものである。
日本には、諸事情から、地図に載っていない村が存在していたと言われているが、このうちの一番の都市伝説としては、青森県にあるとされる、
「杉沢村」
というのが、都市伝説だと言われている。この話は、どこかで聞いたことがある話に酷似しているが、あとで紹介しよう。
「時代は昭和初期、ある一人の男が突然発狂して、村人たちを惨殺し、自分も最後に自殺した」
というものである。
この時の行政が事態を重く見て、村などなかったということで、事件の隠ぺいとともに、記録を残さず、「廃村」としたということである。この村の話は、
「口外してはいけない」
ということになっていたのだろうが、
「入ったら帰れない呪われた村」
ということで話が伝わり、都市伝説になったという説である。
「どこかで聞いたことがある」
という人も多いだろう。
特に、酷似した話は時代もほぼ似ていることから、ひょっとすると、
「この時代には似たような話が、全国各地に残っているのかも知れない」
とも考えられる。
この、杉沢村の村人惨殺という話は、きっと、横溝正史先生の、
「八つ墓村」
というお話を連想される人もいるだろう。
しかし、このお話は、昭和十三年に岡山県で起こった、
「津山事件:
というものが、モデルとなっている。
津山事件というのは、今の岡山県津山市に住んでいた、二十一歳の青年が、祖母を斧で殺した後、猟銃や日本刀で近隣の家を襲撃し。全部で三十人を殺害し、、本人も自殺したと言われる話であり、この話はしっかりと事実として残されている。
この津山事件の犯人とされる人間は、子供の頃に結核を患っていたという。死ぬところまではいかなかったのだが、そのせいで、引きこもり気味だったという。しかし、家庭はある程度裕福で、学業成績も性格的にも悪いということはなかったという。
しかし、徴兵検査において、結核を理由に、軍隊には適しないということで、入隊できなかった。
彼はその時、村の女性の数人と肉体関係があったようだが、それらの女性から関係を拒否されるようになり。心無い風評がはびこり、不満を漏らすようになったというのだった。
どうやら事件のきっかけは、そのあたりに理由があったようだ。
これが、八つ墓村という小説のモデルになったようだが、小説の中での、村人集団殺害という人による犯行は、もっと陰湿なものであった。
やはり、これだけの事件を起こし、それを村に昔から伝わる伝説と重ね合わせて新たな事件を成立させようとするのだから、それも当然のことであろう。
「事実は小説よりも奇なり」
ということではないという話である。
また、次の都市伝説として、
「常紋トンネル」
という話がある。
トンネルというと、ホラーな話であったり、都市伝説としては、よく言われているものとして伝え継がれている話が多い。それは、閉鎖的な空間であるとか、霊が引きこもりやすいという理由でなのだろうが、このお名無しとしては、このトンネルを作っている過程において、犠牲者の数であり、さらに、そのことを長期にわたり隠ぺいされていたという事実から、いろいろなウワサが残ってしまったのだろう。
先ほどの、
「杉沢村」
の話とも共通しているが、やはり、都市伝説というものには、
「隠ぺい」
ということが、都市伝説に絡んでいるようだ。
恨みが残るようなことを、人間のエゴや都合で勝手に隠ぺいされるのであるから、当然犠牲になって殺された人などが、霊魂となった場合、それが恨みを現代に残すという形での都市伝説が生まれるというのも、当然のことだといえるであろう。
また、都市伝説として、もっとも有名な話として、子供から大人まで、誰もが知っているといっても過言ではないといえるのが、
「こっくりさん」
の伝説ではないだろうか。
狐・狸・狗その他、低級霊を呼び、質問に答えてもらうスタイルの降霊術と言われている。
ある儀式のようなことを行って、その通りにならなかったり、パニックを起こした誰かが無作法を働くと、全員が取りつかれ、祟られると言われているものである。
こっくりさんに類似した話は他でも伝えられていて、一種の子供の遊びのようになっているが、それ以外にも都市伝説は全国、いや、世界各国にもあると言われている。
今のホラー小説やオカルト小説などで描かれているものに、このような都市伝説などが用いられることは多いであろう。
それも当たり前のことで、前述のように、人間というものは、都
「合の悪いことは隠ぺいする」
という考えが多くあり、もちろん、それは無用な混乱を招かないようにするためというご都合主義のようなことをいう人もいるだろうが、犠牲者には関係のないことだ。
そんな悪質な風習が残ってしまうと、因縁であったり、悪霊伝説なるものは、なくなることはない。
また、それらの伝説があるからこそ、人間の中での戒めとして、君臨するだけの話が都市伝説として残ることになる。
ともいえるだろう。
「ホラーなどは、都市伝説があるからこそ書かれるもので、都市伝説は、ホラー小説などによって描かれることで、教訓として残っていく」
という、相互にある意味でいい関係を結んでいるといえるのではないだろうか。
これらが昔から各地に伝わる伝説であり、その伝説をおとぎ話に著したのが、室町時代に編纂されたという、
「おとぎ草子」
だといってもいいだろう。
別の意味で、都市伝説としても、語り継がれることになるというのは、都市伝説がおとぎ話とは、根本的にその成り立ちが違っているということになるのであろう。
さて、では、本来の意味の都市伝説というものは、どういうものをいうのであろうか?
言われていることとしては、
「口承される噂話のうち、現代発祥のもので、根拠が曖昧・不明であるもの」
ということである。
つまりは、口伝えに伝承されてきたウワサ話のうちで、現代発症のものというのが最低限の条件であり、その条件の中で、根拠があいまいだったり、不明なものをいうのが、都市伝説ということである、
ここで条件として、現代が発症でないといけないということがあるが、現代というのはどういう縛りになるのであろうか?
時代背景としては、原始、古代、中世、近世、近代、現代となるであろう。
原始は、文明の発症以前であり、古代というと、世界的には、文明の発症から、古代ローマ帝国の滅亡くらいになるのであろうか。そして、中世というのが、封建政府度が現れるくらいまで、そして、中世は、民主主義革命がおこるまでであり、さらに近代というのは、そこから、帝国主義時代が終わり、植民地が開放されていく時代くらいまでで、それ以降が、現代ということになるのであろう。
日本でいえば、原始というと、
「古墳時代より古いのものであり、まだ、国家というものが確立していない時代だ」
と言えるのではないだろうか。
狩りをする時代から、稲作への縄文、弥生時代を経て、大陸文化が入ってくるころで、国家という形ができあがり、そこで王の権力がまだハッキリしていないことから、大きな陵墓を作ることで、その権力を誇示しようとしていた時代である。だから、まだその時代は、国家としての成立はあったかも知れないが、確立はしておらず、ある意味、
「神話の時代」
だったといえるのではないだろうか。
その後、大和朝廷(今は大和王権というのが主流らしいが)が確立した国家となってきたことで、巨大な陵墓を必要としなくなったことで、古墳時代から、政権の所在地である、飛鳥時代と呼ばれる時代へと流れていくのだった。
実際に昔は、古墳時代と飛鳥時代を統合し、大和時代として習った人もいるだろうが、今は、それを古墳時代と飛鳥時代に分けて考えるのが主流だと思われる。ただ、大和時代とした場合。神武天皇即位からということになるが、古墳時代よりもさらに古い時代ということにもなり、そのあたりは、少し曖昧な気がするのであった。
そうなると、弥生時代末期も、大和時代と考えてもよく、大和時代というと、原始時代と、古代を含んでいる時代だといってもいいだろう。神話が絡んでくるということになると、弥生末期と言われる時代が、それに値するであろう。神武天皇から、応神天皇以前くらいまでが弥生末期と言え、さらに、それが神話の時代ともいわれるのだろう。
しかも、歴史的に、天皇と呼ばれる万世一系の系図において、歴史的な信憑性は、初代の神武天皇から、第十代の崇神天皇くらいまでは、
「神話の世界」
として、乞食や日本書紀に書かれていることの伝承に過ぎないという研究もある。
そういう意味で、古代の始まりを古墳時代くらいから、平安末期までとする説が有力である。
西暦でいけば、三世紀くらいから、十二世紀までと言ってもいいだろう。つまりは、
「古墳時代から平安時代まで」
と言ってもいいだろう。
その時代は、神話の時代が終わり、大陸との交流が始まった時代。巨大な陵墓が築かれたというのも、大陸の文化が伝来した証拠である。その時代から、大和王権が勢力を持ち、推古天皇、そして、厩戸皇子、いわゆる聖徳太子とかつて呼ばれた人物の出現により、大陸から、仏教が伝わったことで、仏教文化が芽生える時代ともなる。
もっとも、古来からの国教と、伝来してきた仏教の対立から、当時の蘇我氏による勢力拡大とが絡み合って起こった
「乙巳の変」
によって、蘇我氏が滅亡し、日本が朝鮮半島の外交問題や、大陸文化の融合という点で、
「時代が逆行した」
という説もある。
その後、律令国家として歩み始めるのだが、実際に律令国家として、国がある程度確立してくるのは、大化の改新から、百年ほど後のことなので、確かに、
「百年逆行した」
と言ってもいいのかも知れない。
そこから、頻繁に遷都を繰り返していた時代から、最終的に平安京に落ち着いた時代、そのあたりからの貴族文化というものが、古代における、
「時代の集大成」
と言ってもいいのではないだろうか。
そして、平安末期から出現した、
「荘園を守る」
という意味で起こった武士の時代が到来することで、時代はいよいよ、古代から中世に移るのである。
さて、今度は、そこから中世に入るわけだが、中世というのは、時代区分でいえば、古代に比べて、もっとハッキリとしている。
世界的にも、
「いわゆる封建の時代」
と言われる時代であり、
「鎌倉幕府の成立から、江戸末期」
とされる。
ただ、近代が始まった時代にも諸説あり、
「外的要因としての、黒船来航による開国をその時期とするか、徳川幕府が滅亡し、明治政府ができた時をその時代とするかということで、議論されている」
というものであった。
ただ、この中世というのは、ハッキリと、封建主義という考えが固まっていて。その封建制度をどう捉えるかというのも、考え方であった。
封建制という言葉の意味として、
「君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度」
と言われている。
そして、日本における封建制度は、
「武士の時代」
とほぼ同じであり、武士の考え方が、そのまま封建制度だといってもいいだろう。
基本的に、将軍が、御家人に対して、御家人にとっての命でもある土地を保証すること、いわゆる、御恩と呼ばれるもの、そして、御家人は、保証された土地から、年貢として一定の作物を差し出し、さらに、戦争の時に、兵力を出すというような、奉公というものを、双方向から結ばれた関係を、封建制というのだ。
つまり封建制度の基本は土地であり、それがうまくいかない場合に、政府が瓦解するということになってしまうのだ。
そのいい例が、鎌倉時代だった。
鎌倉幕府の滅亡の一番の理由とされているものは、
「元寇という中国の王朝である元が、日本に攻めてきた。それによって、日本を守るために、御家人たちは兵を出し戦ったが、運よく相手が、
「神風」
と呼ばれた台風によって、撃退することができたのだが、実際にこの戦争は防衛戦争であり、国家の滅亡には至らなかったが、新たな土地を得たわけではない。
そのため、借金をしてでも兵を出した御家人に、恩賞である土地が与えられることはなかった。そうなると、幕府に対する不満は爆発し、それが倒幕へと時代は流れていくのだった。
その後に起こった室町幕府であるが、三代将軍義満くらいまでは、幕府の全盛期であったが、その後は、グダグダになってしまった。
何しろ十五代の幕府の将軍で、
「くじ引きで決まった将軍」
というものがいたり、
「暗殺された将軍」
というのが二人もいたりと、とんでもない時代だった。
八代将軍の義政の時代には、有力守護大名の権力争いと、将軍家の次期将軍後継問題とが絡み合って、天かを東西に分けての、大戦さが始まった。
それが、いわゆる、
「応仁の乱」
と呼ばれるもので、十一年に渡って、京都を舞台に起こった戦争であり、すっかり京都は廃墟となってしまった。
それが、一因となって、幕府の権威は地に落ちてしまい、それ以降、守護大名が戦国大名に変わったり、下の身分の武士が領主に取って変わるクーデターを起こすことで、
「下剋上」
というものが起こり、下剋上を起こしたものが、戦国大名という形になるものが出てきて、それ以降が、
「群雄割拠が乱立する戦国時代」
へと入っていくのだった。
ちなみにいうと、本来の封建制度と呼ばれるものの確立は、
「織豊時代」
つまりは、織田信長と、豊臣秀吉によって作られたものだと言われているようだ。
織田信長による。
「楽市楽座」
の、自由商業の考え方であったり、
豊臣秀吉による、いわゆる、
「太閤検地」
にとって、土地と所有者を明確にすることで、そこから摂れる穀物をいかに年貢として納めるかであったり、兵役の考え方というのが、いわゆる、
「石高制」
と呼ばれるもので、そこから軍役まで決めたということなので、石高というのが、論功行賞において、石高の多い領地をもらった大名が、強いと言われるのも、当然のごとくだといっていいだろう。
「五十万石の大名」
などと言われるのはそのことであり、当然国土の広さよりも石高になるので、
「米どころ」
を地盤とする大名が当然強いというのは当たり前のことであろう。
そういう意味で、
「本当の封建制度は、安土桃山時代より以降だ」
という説もあるくらいである。
ただ、そうなると、中世という考えは、封建制度というよりも、武家政権という方に重きが置かれることになるが、基本的には、鎌倉、室町時代であっても、封建的な考え方に変わりはなかったので、封建時代というのは、やはり広義の意味での、
「武家政権と同じ」
と言ってもいいだろう。
また、江戸時代に入ると、今度は戦乱の世が終わり、日本は天下泰平の時代に入り、いわゆる、
「幕藩政治」
というものが確立した。
戦国時代の名残からか、かつての戦国大名が、各藩を形成し、その藩を収めるのが、大名ということになる。
基本的には中央集権ではなく、封建制度の基本であった、、御恩と奉公の関係を、幕府(将軍)と各藩(大名)との間での関係なのである。
そういう意味で、
「江戸時代というのが、封建制度の集大成」
と言ってもいいだろう。
しかも、その時代になると、キリスト教伝来から続く、キリシタン弾圧の問題が、三代将軍家光の時代に、国家体制としての、「鎖国」というものを行うに至った。
そもそも、キリスト教の布教というのは、西洋諸国が、植民地獲得のために、キリシタンの布教という名目で、宣教師を送り込み、彼らの特務機関のような内部工作によって、内乱を起こさせ、そこに便乗して、攻撃することで、武力を持って、その国を植民地にするというやり方が横行していた。
東南アジア各国がその手で次々に植民地化されていき、タイや中国を除くほとんどの国が、イギリス、フランス、オランダ、ドイツなどの国の植民地になっていった。
その背景には大航海時代があり、アメリカ大陸などは、スペインやポルトガルなどによって植民地化されていったのだ。
鎖国が封建制度において、大きな意味を持つというのは、封建時代、つまり中世の終わりがどこなのかということへの議論に大いに結びついてくる。
つまりは、日本を武力開国させようと、軍艦(黒船)で来航してきたペリー提督による、いわゆる「砲艦外交」により、開国させられたことにより、国内の混乱、
「尊王攘夷」
という問題が起こってきたのだ。
まずは、外国を追い払うという、攘夷派が台頭していたが、そのうちに、外国にはかなわないと見た長州や薩摩などの諸藩による倒幕運動が盛んになり、
「天皇中心の中央集権国家を作ることによって、外国の脅威から日本を守る」
という考えが主流になっていき、戊辰戦争を経て、日本は、明治維新へと進んでいくことになるのだった。
中世というのが、開国までなのか、それとも、明治政府の成立までなのか、議論は今も続いているのだった。
ここからが、近代(近世)となるのだが、この時代の基本的なワードとして、
「資本主義」
ということになる。
資本主義というものの概念としては、
「国政によってよりも営利目的の個人的所有者たちによって貿易と産業が制御(コントロール)されている、経済的・政治的システム?」
と言われている。
反対語として、共産主義というものがあるが、社会主義というものは、基本的に、この資本主義の限界を考えて作られた考え方だといえるだろう。
社会主義は、資本主義の限界である、
「貧富の差」
というものをなくすという意味で、経済的な格差を生む資本主義の基本的な考え方である、
「自由な競争」
を否定し、
「国家が、その利益を皆で共有する、つまりは、国家が経済を管理する」
という考え方である。
そのために、自由な企業間での競争などなく、すべてが国営ということになるのが、基本的な社会主義の考え方である。
一見、理想的な社会のように感じるが、経済的にだけではなく、政治的にも自由というものがなくなり、独裁政治へと向けられるものとして発展してくる。その延長線上に共産主義があり、その体制を守るために、国家が国民を支配し、一つの政党、あるいは個人が、君臨するという形になり、言論や出版の自由などもなく、君主に逆らう者を、粛清するということになり、国家が閉鎖的になり、孤立するということになりかねない。
そのため、今では社会主義の国というと、中国、ベトナム、キューバなどの限られた国にしか存在しないということになるのだ。
近代というのは、そういう意味での資本主義と民主主義によって形づけられた世界となる。ただ、その中でも、日本の場合は、立憲君主国という国家体制が、
「近代における日本だ」
ということができるだろう。
日本が開国することによって、日本が目指す道は、
「欧米列強と肩を並べる国になる」
ということが基本だった。
そのために、
「富国強兵と殖産興業」
というスローガンが生まれた。
国を豊かにして、国防を強くする、そのために、産業を興して、生産、貿易を進めるというものであった。
その大きな目的としては、ペリー来航後に結ばれた、いわゆる、
「不平等条約」
というものの解消である。
そのためには、憲法を制定し、近代国家としての形を作る必要があった。そのために目指す国家が、
「立憲君主国」
だったのだ。
当時の日本は、天皇を中心とした国家であり、憲法を制定し、それに伴った議会を開き、そこで国家の決定事項を決めるというやり方が、近代の日本の在り方だった。
国家の安全保障のために、仮想敵をロシア(ソ連)とし、大陸に進出することで、日清、日露の戦争を経験し、さらに中国大陸進出により、満州事変、シナ事変へと時代の流れは急速に向かい、それによって、
「軍部の暴走」
と呼ばれる時代となったことで、結果として、大東亜戦争に突き進むことになってしまったのは、本来の目的と違うのかも知れないが、当時の欧米列強による、帝国主義というものに対しての挑戦という意味もあったのではないだろうか。
時代背景も、世界恐慌があったり、第一次大戦における、帝国の崩壊であったり、社会主義国の台頭などがあったことで、世界が混乱する時代に向かっていったというのは、世界的な悲劇であったことには変わりないだろう。
近代というのは、そういう意味で、世界的には第二次世界大戦までであり、日本では、大東亜戦争の終結というところまでが、いわゆる近代という時代だったのだろう。
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