回想5

「ねえ、何がどうなっているの?」


 飛行機の中は激しく揺れていた。


 機内でひたすら支援魔法を唱えていたエリスだが、オディウムの暗黒魔法で機体が激しく揺れ、シートや手近な機材につかまっていないとバランスを保つのが難しい状態だった。


 パイロットは必死の形相で操縦桿を握っている。計器の針は激しく左右に振れ、モニターには異常を告げる警告が真っ赤に光っている。「落ち着いて行動して下さい」という電子音声の指示が悪い冗談のように見えた。


 副操縦士がエリスの疑問に答える。


「分かりません。こちらで分かっているのはオディウムが途轍もない威力の攻撃を仕掛けてきていることだけです。どういった原理かは分かりませんが、あの紅い雨は想像を絶するほどの高熱のようです。本来ならこの機体も持たないはずなのですが、不思議な力でその雨から防護されているようです。原因は不明です」


「つまり、私たちがどうしてこんな目に遭っているのかも、どうして生きていられるのかも不明ってわけね」


 異常をとうに超えた光景のせいか、エリスは妙に冷静な思考を保つことができた。


 眼窩に広がる世界があまりに地獄絵図過ぎたこともあり、まるで別世界の光景でも見せられているかのようだった。


「ティム、あなたなの?」


 昨夜の光景がよみがえる。


「これが最後かもしれないから」と、ティムとエリスは森の奥で激しく愛し合った。


 エリックは寝ていたのか、それとも空気を読んだのか、二人を残してテントへと戻っていた。


 森の奥で二人きりになった途端、激しく口づけを交わした。


 今まで互いの気持ちを隠していた分、ちょっとしたきっかけで二人の愛情を引き止めていたものは決壊したダムのように崩れ去った。こうなれば誰にも止めることはできない。


 初めてなのに、貪るように、互いの唇を求め合った。


 その時の映像を思い出すと、エリスの全身に甘い疼きが走った。


 唇の、肌の感触を思い出しては、愛しさと切なさで胸が震える。あれほどの幸せを感じる日が来るのかと思うほどに。


 同時に、それを失うのかもしれないと思うと、言い表せないほどの恐怖を感じた。


 飛行機は揺れている。


 機内に鳴り続ける電子音の警告。


 実際に生命の危機ではあるのだが、それ以上にティムとの甘い時間を過ごせなくなることの方が怖かった。エリスには初めて本気で失いたくないものを手に入れた。


 ふいに波紋のように音が広がる。


 慌てて見回すと、それに反応しているのは自分だけのようだった。


「ティムなの?」


 愛しい人の意志を受信したペンダント。ペアストーンに語りかける。


『エリス、聞こえるか』


 ふいに脳裏に響く声。


 声の主はまぎれもなくティム・モルフェウスだった。


「聞こえるわ。いったい何が起こっているの?」


 周囲のクルーがひとりでに話し始めたエリスへと視線を向ける。構わず続けた。


『今、俺たちはオディウムの暗黒魔法にさらされている』


「この紅い雨のこと?」


『そうだ。今は俺が結界を使って仲間を守っているが、どうやらこのままでは持ちそうにない』


 今までにないほど深刻な声に、エリスが言葉を失う。


 いつもおちゃらけていたはずのティムがえらく真面目な口調になっていた。それだけでも異常事態なのに、このままでは全滅する可能性をも示唆している。冷静になれと言われる方が無理な話だった。


「落ち着いて聞いてほしい」


 嫌な予感がした。


 その先は聞きたくない。


 だが、ティムは真剣な声で続ける。


『これからオディウムにを使う。ここまできたらやむをえない』


「どういうこと……?」


『いいか。これが最後の会話になるかもしれない。できたら顔を見て言いたかったけどな。まあ、顔を見たらこっぱずかしくて言えたセリフじゃないんだが』


「うん」


 ペアストーンがしばらく無音になる。


 魔石を通して、かなりの緊張感が向こう側にあるのが分かった。


『スラムのチンピラだった俺が、こんな世界を救う旅に出る日が来るなんて思いもしなかった。昔の俺だったら、それはすべて俺の才能によるものだって豪語していたところだろう』


「うん」


『だけど、今なら言える。俺がここまで来ることができたのは、仲間がいたからだ。文字通り死んでしまいそうな時も、心が折れそうな時でも支えてくれた。その感謝は言い表すことができない』


「うん」


 エリスの瞳から涙がこぼれ落ちる。


 画に描いたような悪ガキのティムが、ここに来てまるで違う人間のように振舞っている。


『説明は難しいけど、何て言うか、人間っていうのは死ぬ気でやればどこまでもやり直すことができるし、そうしないと本当の意味では生きられないんだって思ったんだ』


「そうだね」


『だから、一言で言えば……ありがとう。そして、エリス。俺はお前を愛している。この闘いが終わったら、ベッドに穴が開くぐらい抱いてやる。それだけ好きなんだ。分かってもらえるか?』


「分かるよ」


 涙を拭いながら答える。


 多かれ少なかれ、エリスはもう分かっていた。


 この先に何が待ち受けるのかを。


 最も失いたくないものを失うかもしれないことを。


 そして、それをこの先の人生でずっと背負っていくであろうことを。


「私も愛してる」


 真っ赤な空の向こう側にいる恋人へ、エリスは思いを馳せる。胸が張り裂けそうで、周囲にクルーがいなければ倒れてしまいたかった。


『俺は必ず帰って来る。死んでも、お前に会いに来る』


 ペアストーン越しに伝わる悲壮な決意。


 どちらかと言えば、ティムは自分自身に言い聞かせているようだった。


「必ず、帰って来て。待っているから」


 交信が途切れる。返事は無かった。


 膝から力が抜けて、その場で崩れ落ちた。


 激しく揺れる機内。声を殺して泣いた。


 今の会話で悟った。


 ――ティムは、自分の命と引き換えにオディウムを倒そうとしている。


 それは誰が見ても明らかだった。


 嗚咽が止まらない。


 こぼれ落ちる涙が、床に溜まっていく。


 クルーたちが顔を伏せる。中には泣いている者もいた。エリスの会話からこれから何が起こるのかを察したのだろう。戦場にはいつだって悲しくなることしかない。


 エリスは突っ伏したまま祈りを捧げる。


 ――お願い。帰って来て。


 この世界が平和になることよりも、ティムが帰って来てくれることを強く願った。


 たとえそれがあるまじき願望であったとしても、そうせずにはいられなかった。

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