第2話 憎しみ

 お母さんが先におばあちゃんと話をした。つばきが学校に行きたがらないことを美智子おばあちゃんに相談している。

「おばあちゃんが直接あなたと話したいって言ってるんだけど、出られる?」

 つばきはだまって母のスマホを受け取った。

「つばき、どうしたの? あなたらしくないじゃない。学校行きたくないって言っているらしいじゃないの」

 祖母の優しい声を聞いてつばきの胸にせき止められていた思いがあふれてきた。

「あいつのこと許せない」

 つばきは電話の向こうにいる美智子に絞り出すように話し始めた。

 クラスの男子が数人で授業中もふざけて授業を妨害していること、トイレでお菓子を分け合って食べている女子のグループのこと、そして、何より一番悲しいのは大好きだった担任の小岩井先生という若い女の先生が学校に来れなくなったことだ……。

「みんなで小岩井先生を辞めさせたんだ」

 つばきは涙ぐんで言った。

「そうなの……」

 聞いていた美智子もなんて答えて声をかけてやればいいか困った。

「おばあちゃんにできることをお母さんと考えておくからね。がんばりなさいよ」と、つばきに声をかけた。それぐらいしか電話では話せなかった。今すぐにでもつばきのところへ行って、つばきの思いを抱き留めてあげたい、そんなもどかしさを感じていた。

 つばきは美智子おばあちゃんの語りかけに無言で頷いた。

「お母さんに変わってくれるかしら?」

 おばあちゃんにそう言われて、つばきは持っていたスマホを母のさやに手渡すと、ソファにうつぶして声を上げて泣いた。

 久しぶりに祖母の声を聞いて、人の優しさに触れた気がした。今まで、学校のことを話すのを我慢していた。お母さんにもお父さんにも心配かけたくなかったからだ。

 それに、今の自分は今までと何か違ってると感じていたことも、言わなかった理由にある。

 人を憎むという感情を持ったのは初めてだ。心の底から許せない、という強い思いが自分の中に生まれているということが自分自身を混乱させていた。


 クラスのみんなが許せない。よってたかって大好きな小岩井先生を困らせた。小岩井先生が本気になって怒れば怒るほど、みんなはそれを馬鹿にしたようにして、うすら笑っていた。

 特にあの男子。教室で好き勝手にやっていたあいつ。すべてはあいつから始まった。あいつだけは絶対に許さない。

 でも、そう思っているけど、結局私は何もしてあげられなかった。小岩井先生の味方になって、みんなを止めることができなかった。そんな自分の姿への後ろめたさもあった。

 今の気持ちを話したくなった。おばあちゃんの奥行きのある包み込むような声に促されたのだ。


 母は隣の部屋にスマホを持って出ていった。隣の部屋からはお母さんの声だけが聞こえてくる。

「うん」

「うん」

「はい、じゃあ、また相談して連絡する」

 長い電話が終わったのがわかった。

 お母さんはつばきのところに戻ってくると、上着を羽織って「出かけてくるから」と言って車に乗って出て行った。つばきはそのままソファで泣いているうちにそのまま寝てしまっていた。


 夕方、お父さんが帰って来て、久しぶりの家族揃っての夕飯を食べた。お父さんがこんなに早く帰ってくるのは珍しい。

 夕飯が終わるとお父さんとお母さんがつばきと姉のもみじをテーブルにそのまま着かせて、神妙な顔をして話し出した。つけていたテレビも消された。

「お母さんと子どもたち二人はおばあちゃんの家に引っ越すことにした」

 お父さんがそう告げた。

 もみじもつばきもいきなりの話に動揺したが、そのまま黙って両親の話を聞いていた。

「さっきおばあちゃんもいいよ、って電話くれたの。夕方、市役所に行って手続きの仕方も聞いてきたから。明日学校に行って話すわよ。いいよね?」

 もみじもつばきも突然の転校の話にまだ現実味を感じることは難しかった。転校生は今までも何人も見てきたが、自分がその転校生になるなんて考えてもいなかった。

――でも、その方がいい。

 つばきは思った。あんな学校、あんなクラスに毎日これからも通うなんて苦痛以外の何物でもないということは日に日に強く感じていたからだ。

「いいんじゃない。私も田舎の生活って少しあこがれていたし。楽しみだな」

 姉のもみじは明るくそう答えた。この転校の最大の理由が妹のつばきのことであることは姉として察した。

 姉が転校することに対して腹を決めた返事をしたのを見て、つばきも黙って頷いた。

――これでいいんだ。


 翌日、帰りの学級の時間に合わせて母が教室の前まで迎えに来た。母が担任の先生と話している。

 担任の先生は小岩井先生が休むようになってから校長先生が見つけてきた若い男の先生で、小岩井先生ほどではなかったけど、優しくて少しとぼけているところがつばきは好きだった。

 つばきは教室での最後のさようならの時もぜんぜん寂しさを感じなかった。目の前にいるこのクラスの友だちも私とは別の世界に棲んでいて、言葉も通じてないような遠い存在に思えた。

 学校に置いてある自分の持ち物を全部まとめて大きな袋に入れた。担任の先生に見送られてお母さんと二人で学校を去った。

 つばきは校門を出るとき、自分のいた教室の窓を見上げて心の中でつぶやいた。

――小岩井先生はどうしているのかな。元気が戻ってきたかな。

 つばきは転校して落ち着いたら小岩井先生にお手紙を書こうと思った。新しい学校の様子を知らせられたらいいな、と思った。

 教室の窓からクラスの人たちがつばきに手を振っていた。つばきも軽く手を振って返したが、何も名残惜しいという気持ちが湧かなかった。

――今度の学校ではずっと楽しく幸せに過ごせますように。

――新しい担任の先生、新しい友だち、みんないい人たちでありますように。

 つばきはお母さんの手をぎゅっと握った。お母さんもつばきの手をぎゅっと握り返してくれた。

 二人は手をつないで並んで歩いた。毎日通った道だ。四年生になったとき、嬉しくてスキップしたいくらいの気分で通った道だ。

 さやもつばきも一度も振り向くことはなかった。

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