第1章 松井つばき 転校生
第1話 被害者
つばきは小学校四年生になった。クラス替えがあって、新しい学級にはどんな先生がいて、どんな友だちができるか楽しみで仕方がなかった。
「お母さん、早く早く」
つばきは母の松井さやに向かって朝ご飯をせがんだ。今日は新学期初日なので、いつもより早く行きたいのだ。 昨日の夜から鞄の準備も万全に、着ていく服もきれいに枕元に置いていたのに、母親のさやがよりによってこの大事な日に寝坊したのである。
「いいじゃない、遅刻するわけでもないんだし」
さやはまだ起きたばかりであくび交じりの眠そうな声でつばきを諭す。つばきはそんな母親を見て、余計にイライラしてきた。
「これ食べていけばいい?」
つばきは冷蔵庫から牛乳を出し、棚からシリアルの箱を出してきて、皿に入れた。
「それでもいいけど、いいの? そんなので」
ようやくさやが台所に来た頃にはつばきはもうスプーンでシリアルを口に運んでいた。
学校につくと、教頭先生と用務員のおじさんが二人で校庭にある国旗掲揚塔に日の丸の旗をくくりつけているところだった。
今日は入学式もある。大切な新学期の始まりの日だから、みんなでお祝いする日なんだと改めて知る。
時間になって玄関の鍵が中から開けられた。つばきは持ってきた上履きに履き替え、教室を間違えないように四年生の教室のある方の校舎に向かった。他の子も廊下を走るようにそれぞれの教室に向かっていく。
新しい教室は三階にある。学年が一つ上がって、教室も二階から三階へと格上げされたような気がして嬉しかった。教室に入るともう既に数人の子がいて、鞄から連絡袋を出したり、教室の窓から見える新鮮な風景を眺めたりしていた。前の黒板には大きな紙に児童へのお知らせが貼ってあった。
「進級おめでとう。今日から四年生。みんな仲良く楽しい学級にしましょう」
その紙の横にはきれいな字で教室に来たらやっておくことが書いてあった。
「鞄はロッカーへ入れる。連絡袋を机の引き出しに入れる。先生が来るまで自分の席で静かに待つ」
つばきは目でそれを読んで、その指示に従って一通り済ませると自分の席について座った。次々と新しい学級の友だちが教室に入ってきた。
やはり大勢いると中には黒板の指示を読まないで、知っている友だちと大きな声であいさつをしたり、取っ組み合って喜んだりしている男子がいたり、両手をつないで飛び跳ねて喜び合っている女子もいたりした。
つばきはそんな風景を見ながら、新学期の新しい学級の空気を感じ取っていた。
――楽しくなりそう。
しばらくすると、先生が教室に来た。前の学年、三年生の時に隣のクラスの担任だった女の先生だ。
「担任の先生が発表されるまで、先生がみんなの学級の面倒をみます。トイレは済ませましたか」
その先生に着いて体育館に行き、始業式が始まるのを待った。
新しく来た先生たちが児童の前に並んだ。校長先生がその先生たちを一人一人を紹介していく。列の最後にいた若い女の先生が紹介された。大学を出て初めて先生になったと紹介され、その先生は深く頭を下げた。
すらっとしていて、黒く長い髪を後ろで一つにまとめ、黒の上下のスーツ姿がとても素敵だった。
――あの先生が担任の先生だといいな
つばきは担任の先生の発表が始まると、どきどきしてきて自然と胸の前で手を合わせていた。校長先生が一年一組の先生から名前を言っていく。
「四年三組、小岩井千鶴先生」
校長先生が告げた名前はあの若い女の先生だった。つばきは合わせていた手を今度はぎゅうと握りしめた。
――やったあ。
つばきは飛び上がりたかったが、さすがにそれはできないことは分かっていた。手を握りしめて自分の飛び上がりたい衝動を必死で押さえていた。
新学期は小岩井先生との日々が毎日楽しくて仕方がなかった。授業は時々分からなくなる時もあったけど、それでも小岩井先生は一生懸命に私たちに授業をしてくれているのが伝わってきた。つばきは小岩井先生が大好きになった。
休み時間になると小岩井先生の周りにはたくさんの女子が集まって先生と楽しくおしゃべりをしている。きれいなつやのある髪、清楚でセンスのいい服、切れ長な澄んだ瞳。女子のあこがれの的が小岩井先生だった。つばきも大勢の女子に混じって、小岩井先生の優しくて楽しいおしゃべりを毎日満喫していた。
――なんて楽しいんだろう。このまま、卒業まで小岩井先生のクラスにいたい。
つばきは早くもそんなことを考えるほど小岩井先生のことが大好きだった。
二学期に入った。つばきの学級には少し乱暴な男子がいる。いつも、自分のことは棚に上げて、友だちの悪いところをずばりときつく言うので、みんなは内心とても嫌な思いをしていた。できれば関わりたくないとみんな思っていた。
そんなみんなの気持ちが伝わったのか、その子はだんだんと言葉が荒れてきて、手下にしているような男子を引っ張り込んでは教室の中でプロレスみたいな乱暴な遊びをして、ときどき隣の男の先生に怒られていた。
授業中もその子は勉強なんて全然しなくなって、小岩井先生がいくら注意しても自分の席には座らずに教室の中で紙飛行機を飛ばしたり、ほうきをバット代わりにして、丸めたプリントを打って飛ばしたりしていた。
校長先生や教頭先生が授業中につばきの教室に来ることが多くなった。小岩井先生も二学期に入ってから時々休むようになった。体調が悪いと聞いたことがあるが、きっとそれはあの男子のせいだと言うことはつばきにはわかっていた。
小岩井先生が突然、大きな声を出して学級のみんなに叫んだことがあった。ちょっとびっくりしたけど、数人の男子がそれを見て笑ったのをつばきは見た。つばきは悲しいと言うより、こわい気持ちになった。笑ったのは男子だけではなかった。隣の席の女子もくすっと笑って、泣いている小岩井先生を見ていた。
小岩井先生は長い休みに入ってしまった。あんなに楽しかった学級だったのに、今ではだれも楽しそうな顔をしていない。
朝から、教室で異常に大きな声で奇声を上げて叫んでいる男子や、アメをポケットに忍ばせてトイレに行って友だちと食べている女子もいた。
つばきはあの暴れていた男子を恨んだ。あの子が私の楽しかった日々をこわした。
――自分の幸せをこわす人は許さない。
つばきは小岩井先生の素敵な姿をもう一度思い出して、机にうつぶせて泣いた。
母のさやがつばきの様子に気づいたのは二学期の半ば頃だった。学校へ行く時間がだんだんに遅くなってきていたからだ。ぐずぐずしていていつまでも学校へ行く様子を見せない。
小岩井先生が休んでいるというのは学校からのお便りで知っていた。つばきの様子を見ていると、このままこの学校に通わせるのは怖いな、と感じた。
自分の子どもだった頃のことを思い出したからである。
――母さんに相談しようかな。
さやは母親の美智子に電話をしようとスマホを手に取った。
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