花は笑って

おくとりょう

甘い義兄さん

 電気を消した暗い部屋。外から射し込む街灯の明かりが布団に横たわった姉さんの身体を青白く照らす。


「夜って明るいんですね」

 膝に抱えていた義兄さんの生首を撫でながらつぶやく。すると、生首は懐かしい鼻歌を口ずさんだ。それは義兄さんが生きていた頃、夕食をつくりながらよく口ずさんでいた曲だった。

 新婚なのに、大学進学のために上京してきた僕が居候することを嫌な顔ひとつせず、受け入れてくれた義兄さん。優秀な研究者だった姉さんが年中仕事に打ち込めていたのだって、紛れもなく彼のおかげだ。


 そんな彼が死んで12年3ヶ月と4日。姉さんも死んだ。過労だったらしい。義兄さんが亡くなったあと、無理をしつづけていたのがたたったのだとみんな言っていたけど、すべて姉さんの計算通りなのだと僕は思う。

 だって、12年3ヶ月4日後って少し偶然が過ぎる。もしかしたら、11年1ヶ月と1日後のつもりだったのに、予定がずれたから、12年3ヶ月と4日後にしたのかもしれない。姉さんは昔からそういう人で、僕はそこが嫌いだった。


「そんなこと言わんといてあげてや、君のお姉さん、実はめっちゃなんやから。それにお姉さんの研究は人類の医学を爆発的に進歩させるかもしれへんのやで。

 そしたら、歴史の教科書に載るような有名人や」

 カラカラ笑う義兄さんの後頭部のてっぺんで、ゆらゆら揺れる綺麗な三つ編み。夕食の香りをかぎながら過ごすあのひとときが僕はとても好きだった。


 だけど、義兄さんは死んでしまった。トラックに頭以外をぺちゃんこにされて。僕への誕生日プレゼントを買いに行った義兄さんは頭だけになって帰ってきた。

 小さな座布団の上に乗せられていた義兄さんの頭。僕は何が起こったのかわからなくて、突っ立ったままぼんやり見ていると、義兄さんの生首は薄く目を開いて、ふわっと微笑んだ。

 そのとき、僕はようやく知った。義兄さんはバラバラになっても死なない人種だったらしい。姉さんのしている研究とは彼らの身体のメカニズムを知ることだった。

 とはいえ、彼らも不死ではなく、バラバラになっても、身体の過半数が無事である必要があるらしい。つまり、座布団に乗っているのは、義兄さんの顔でふわふわ微笑むだけの肉と骨の塊で、やっぱり義兄さんは死んでいるのだった。

 だけど、僕にとってその塊はまだ義兄さんで、死んだなんて信じられなかった。白い頬を両手でそーっと包むと血の流れる音が感じられる気がした。

「これからも彼と一緒にいたい?」

 久しぶりに聴いた姉さんの声。それはとても乾いてしゃがれていた。百年ぶりに人里に降りてきた山姥みたいだった。

 そう言うと、姉さんはカラカラ笑って僕の頭を軽く小突いた。そして、僕の目をじっと見て囁いた。

「この肉は1ヶ月も経てば腐っちゃうの。だから、毎日この薬を食べさせて。1日3回、ご飯だと思えばいいから。それから、彼の血には触らないで。すごく甘い香りがするけど、舐めたりしちゃ絶対ダメ」

 その静かな声には妙な迫力があって、僕は黙ってうなずいた。生首になった義兄さんは不思議そうな顔で僕たち姉弟を眺めていた。


 義兄さんのお葬式だとかが終わってから。僕は料理をすることにした。彼はいろんなレシピを丁寧に残してくれていたから、不恰好ながら、似た味のものを覚えていった。いつも彼の生首を側に置いて、つくる度に味見をしてもらった。薄味のときは小首を傾げ、美味しいときは微笑んでくれた。また、焦げないようにお鍋を見ていてくれたり、お皿洗いのときには鼻歌を歌って応援してくれた。おかげで僕は義兄さんほどではないけれど、料理ができるようになった。

 姉さんも早く帰ってくることが増えていて、義兄さんが亡くなってからも、数年の間はそれほど寂しい気持ちにはならなかった。


 5年くらい経った頃。お風呂上がりに義兄さんの髪を乾かしていると、疲れた顔の姉さんが帰ってきた。その頃は残業することが増えて、目の下にずっと隈ができていた。

「ただいま」

 いつもの生首なら、姉さんの声に微笑むのだけど、そのときはドライヤーの音で聴こえなかったのか、軽く目をつぶって心地よさそうに鼻歌を歌っていた。

 姉さんはずんずんこちらに歩いてくると、義兄さんの長い髪を鷲掴みにして、僕から奪い取った。

「『ただいま』って言ってるじゃない!」

 生首はびっくりしたように目を見開いた。そして、姉さんに向かって叫び声をあげた。その声は人というより動物みたいで、ようやく僕は義兄さんがもう死んだのだと分かった。

 姉さんは「……あの人はそんな声じゃない」とつぶやくと、脱力するように生首を離した。「ぎゃっ」と床にぶつかって、赤い線を引きながら転がっていった。突っ立っていた姉さんは急にハッとすると、汚れた床をテキパキと片付けた。

「ごめんね、もう一回お風呂に入れてくるね」

 義兄さんを優しく抱きかかえた姉さんは泣きそうな顔をしていた。

「もうあの人の声が思い出せない」


 義兄さんは翌朝には何もなかったような顔をしていた。髪はいつもより艶があってさらさらで姉さんがとっても丁寧にケアをしたのだと思った。ほんのちょっぴり悔しくって、僕は気合いを入れて三つ編みをした。リボンも編み込むと、メッシュをいれたみたいにお洒落になった。写真を撮って姉さんに送ると、「可愛くできたね」と返事が来た。そして、すぐ「ごめん、今日は帰れなくなった」と続いた。それ以降、姉さんが家に帰ってくる日の方が少なくなった。


 義兄さんと過ごす時間が増えていき、姉さんと過ごす時間が減っていった。だけど、義兄さんはただの生首で鼻歌と奇声あげることしかできない。

「義兄さんってどんな声をしてたっけ?」

 湯船の中でつぶやくと、生首は嬉しそうに僕の手のひらに頬ずりした。キメ細やかな頬がほんのり紅く染まっていた。姉さんの言葉を考えるも、なぜか彼女自身の声すら思い出せない。

「そろそろあがろっか」

 いつものように、義兄さんにドライヤーをかけていると、電話がけたたましい音で鳴り響いた。確認すると姉さんの研究所の番号。ホッとして、いつものように電話に出た。

「お疲れ様、今日は帰れそう?」

「……弟さんですね?」

 見知らぬ男性の声だった。それは研究所の同僚で、彼女の訃報を聞かされた。


 ―――――――――――――――


 そして、僕は義兄さんの生首と姉さんの遺体の3人で最後の夜を過ごしている。姉さんの遺言で彼女の身体は献体されるらしい。そういえば、「散々、人間の身体を弄ってきたんだから」なんてことを昔言っていたことがあった気がする。きっと義兄さんみたいな人たちのことなのだろうけど、義兄さんが聞いたら何と言うのだろうと思った。

 でも、側にいるのは生首だけで、僕は彼の声すら思い出せない。

 そーっと顔を覗き込むと、彼は小さな寝息を立てていた。

「とっくに義兄さんは死んでいるのに」

 可笑しくなって噴き出すも、部屋には僕しかいない。姉さんは身動みじろぎすらしなかった。

 雪みたいに白い肌。ふと思いついて、生首を彼女の顔に近づけた。別に深い意味はないけれど、最期のキスをさせたかったのかもしれない。ただ見栄っ張りな姉さんへの嫌がらせに。ただ優しい義兄さんの照れた顔が見たくって。

 姉さんまであと数センチというところで、長い髪が彼の鼻をくすぐった。すると、彼はムズムズし始めて、くしゃみをしようと息を吸い込んだ。10年以上一緒に過ごして、そんな顔は初めてだった。

 おっかなびっくり眺めていると、くしゃみを合図に彼の頭がパチンっと弾けた。真っ赤な汁が飛び散った。だけど、薄暗い部屋では赤も黒も分からなくって、僕は締め切っていたカーテンを開けた。街灯だと思っていたのは丸く光る満月だった。

 窓を開けると冷たい夜風が流れ込む。ぬるい汁が頬をつたって、甘酸っぱい味が舌を濡らした。

 ふと、義兄さんがお菓子作りも得意だったことを久しぶりに思い出し、何だか心が軽くなる。

 同時に、何かが背中を転がり落ちた。ガンっと大きな音を立てたそれはゴロゴロゴロと部屋の端へと転がってった。


 僕は何が起きたかすぐに分かった。部屋の隅から、見つめる視線が僕のものだとすぐに分かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花は笑って おくとりょう @n8osoeuta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説