酷暑順応

きづきまつり

酷暑順応

 気温は、35度になるらしい。僕はもう一度インターフォンのボタンを押す。インターフォン自体の調子も悪く、2回に1回は音もならない。トイレの窓はわずかに開いていて、そこから音が聞こえるかどうかで判断ができる。ボタンを連打すると、どこかのコンビニと同じチャイムが鳴った。しかし、音が鳴ったのは、これで三度目だ。

 訪問診療の仕事は、夏場はかなりきつい。高齢者施設は概ね清潔でいいが、在宅はなかなかなものがある。大方が高齢者の自宅で、認知症になりながらも同居する親族もなく、なくなった夫の遺品の整理もつかず、長く住んだ自宅から離れられない女性がほとんどだ。夫がなくなった直後はおそらくご本人も自立していて、役に立たない夫の負担がなくなって帰ってせいせいした時期もあったことだろう。家族もそれに安心して年に数回しか連絡しなくなり、五年もすると認知機能の低下から、トラブルを起こして耳に入ってくる。この家に住む78歳の女性は、大きなトラブルは起こしていないものの、お盆に訪ねた娘が、壊れて常温となった冷蔵庫に一月かけて10パックほど溜まったコンビニのみたらし団子に悲鳴を上げて、トントン拍子にアルツハイマー型認知症の診断がついていた。他県に嫁いだ娘はヘルパーと訪問診療の手配だけして、その後は年に2度ほどしか顔を出していないようだ。

 同伴の看護師は、どこかに電話をかけはじめた。僕は玄関ドアについた郵便受けに気が付き、しゃがみこんでカバーを少し開け、中にいるはずの女性の名前を呼ぶ。が、動きはない。ただよう匂いは、暑さのせいでよくわからない。

 廊下側が日陰なのがせめてもの救いだった。僕はマスクを顎にずらし、額から流れる汗を腕で拭う。セミさえも暑さからかろくに鳴いていないような時間帯で、この部屋に住むはずのアルツハイマー型認知症女性はどこにでかけたというのだろうか。廊下が日陰になっているということは、おそらく部屋の窓側、ベランダ側は今まさに日当たり良好だろう。スマホの天気アプリの示す温度はいわゆる百葉箱の中の温度で、日差しが当たらなくてそれだ。築四十年は超えていそうなアパートで、果たしてまともに動くエアコンは取り付けられているのだろうか。

「ケアマネも知らないそうです」

 看護師が電話を切って僕に報告する。

「どうしましょうね」

 訪問診療の同意を得ているといっても、鍵を壊せるわけでもない。単にどこか涼しいところに出かけているだけかもしれないし、昼寝でもしているのかもしれない。もしくは、夏の日差しの降り注ぐ風通しの悪い室内で昼寝して、熱中症から息を引き取り、細胞膜が破綻しその内外の電位差が徐々に消失し、かわりに腸内に共生していたはずの無数の細菌たちに、そのタンパク質の塊についての主導権を握られつつあるのかもしれない。

 あらためて、マスクを外した状態で、ドアポストに鼻を近づける。空気の流れは殆ど感じられないので、換気扇を回していたり、別の窓が開いている可能性は低そうだ。匂いそのものは……廊下の熱気よりはわずかに涼し気な、わずかに甘いような匂いが漂っている。甘い?

「倒れてて第一発見者とかになってしまったら、警察とかになるんですかね。このあとの訪問どうしましょうね」

「いや……でも……」

 若い看護師にふる話題でもなかったようだ。僕とて週1回勤務の雇われの身で、実際にそういうケースに出くわしたことはない。

 午後一番の訪問で、時刻は13時45分。まだまだ気温は上がりそうだった。

「他に回って、また来ますか?」

 数時間あれば腐敗も進行していそうだ。いや、今日の出来事とも限らない。ヘルパーが最後に訪れたのが何曜日かはわからないが、最終安否確認の直後からであれば、すでに数日ほど経過しているのかもしれない。もしそうなら、いまさら数時間発見をずらしても誤差範囲だろう。仕事上がりが遅くなるのを避けたい気持ちはあるが、まあ仕方がない。

 もう一度、インターフォンを鳴らす。例のコンビニチャイム音が鳴り響き、そのとき、わずかに反応があったように思えた。音とも言えないが、何かの反応だ。看護師に目をやったが、彼女は気がついていないらしい。しゃがみ込み、ドアポストを開いて名前を呼ぶと、何秒か遅れて、確かに返事があった。その声で、看護師も安堵した表情を浮かべる。

 そこからさらに30秒ほど経って、ドアが開く。毛玉だらけの灰色のトレーナーを着て、青と黄色の複雑な模様の描かれたスカーフを頭に巻いた老婆は、日陰側の廊下にいる僕らを眩しそうに見上げた。

「なんですか」

「診察で伺いました」

「診察」

「はい、血圧の確認なんかさせてください」

 看護師はいつの間にか診療カバンから血圧計を出していた。それを見て何度か目を瞬かせて、女性はようやく状況を掴めたようだ。

「すいませんね、散らかっていて。どうぞお入りください」

 そう言って年季の入った変色した赤茶色のファーの付いたスリッパを、ごく緩慢な動きで、丁寧に並べる。玄関に入ると、中は廊下よりは涼しいようだった。中に虫でも入っているような気がして一瞬躊躇するが、いつも実際に入っていたことはないのだと自分に言い聞かせ、スリッパを履く。薄暗い室内はほこりの匂いと、溜め込んだ衣服についた防虫剤由来と思われる匂いが支配していた。これが甘く感じられたのだろうか。僕は先程廊下でかいだ匂いを思い出していた。

 リビングにはエアコンが付いていて、一応稼働しているようだった。そよ風のような空気の流れは、たしかにこの室温を、培養器の中よりは人間にとって快適なものに保っているらしい。奥にある寝室にはベランダがあるはずだが、締め切ったカーテンはごく厚手のもののようで、外からの光をシャットアウトしているようだ。手前の部屋は衣装部屋で、なくなったご主人の仏壇のごく手前まで、レトロな、おそらくはもののよい衣類のかけられたハンガーラックとダンボールの山で埋まっている。

「暑い中ご苦労さまです。私、来るの知らなくてすっかり寝ちゃってて。お茶出しますね」

「いえ、大丈夫ですので、血圧上がらないよう椅子にかけてください」

 この部屋で提供されるお茶を飲む勇気は僕にはなかった。それでも来客をもてなそうとする彼女を看護師がなだめ、なんとか椅子に腰掛けさせる。自動血圧計を腕に巻き、カフ圧が上がっていく間に、僕は冷蔵庫を開ける。

 1日1回配達される弁当が、一見しただけで5つほど入っているようだった。嚥下機能が落ちてきた彼女のためにご飯はおかゆ状になっていたが、いくつかのおかゆは白というより緑色のカビに覆われている。みたらし団子も数パック入っていて、その下にはなにか書類が積んであるようだ。開け放しても、温度は全く室温と変わらない。野菜室を開けると、水の入ったプラスチックのピッチャーがあった。この水を飲んでいるのだろうか。野菜室も常温と全く変わらないが、まだ蛇口から出てきたばかりの水道水のほうが品質に信用が置ける。

 冷蔵庫の脇には大手コンビニのロゴの入った赤ワインの瓶がいくつか落ちている。前回来たときは何本あっただろうか。増えているのか減っているのかも定かではないが、落ちているものがいつも同じなのは確かだった。

「血圧、172の116です」

「あら、高いわね」

 確かに、高い。この時期なら、脱水から低血圧になっていてもおかしくないように思われる。

「ワインの飲み過ぎじゃないですか?」

 落ちていたボトルを一本掲げると、彼女はバツが悪そうに笑った。

「あら、見つかっちゃったわね。でもね先生、昔はビールも日本酒も飲んでいたけど、いまはワインだけなんですよ。ほんのちょっとですよ」

「何本かありますけど、本当にちょっとですか」

「ゴミ出しを忘れてしまっただけで、1日に飲むのはほんのちょっとですよ。お友達が来たときだけ。それにほら、ワインはポリフェノールがあるから、ちょっとなら体にいいんですよね?」

 もともとは合唱サークルのようなものに入っていたり、街歩きサークルに入っていたり、それなりに地域で活動していた方だ。そのころは実際に友人の出入りがあったのだろう。いま、半ばゴミ屋敷とかしつつある彼女の家を訪ねるお友達はおそらくいないだろう。彼女だけでなく、おそらくはお友達も、徐々に認知症が始まりつつあることだろうし。

 僕は彼女の質問に答えず、質問で返す。

「これ、ご自身で買いに行っているんですか?」

「ええ。そこのコンビニまで」

「暑いですけど大丈夫です?」

「最近は本当に暑いですよね。日が暮れた頃に買いに行っていますの。お友達と一緒に行ったりとか」

「お酒は程々でお願いしますね。冷蔵庫、さっき見させてもらったんですけど、少し古いものも入っているみたいですね」

「嫌だわ恥ずかしい」

「すこし捨てときましょうか」

「あとで自分でやりますから、大丈夫です」

 いつものやりとりではあるのだが、人様の家の冷蔵庫を覗き見る自分の無礼さは、我ながら酷いものだと思う。このやり取りは治療的なのだろうか。これらの食事に、彼女が手を付けることはないのだろう。いつ来てもパンパンな冷蔵庫ではあるが、実際に溢れているわけではない。ヘルパーが定期的に捨てているのだろうとは思うが、傷んだものを食べないというラインは彼女の中に十分生きているのだ。ただ、買ってきたこと、冷蔵庫にしまったことと、冷蔵庫が壊れていることを忘れているだけで、冷蔵庫を見られることが恥ずかしいことであることを忘れるわけではない。そんな辱めを与える権限が、彼女の半分も生きていない僕ごときにあるのだろうか。

「それでは、今日はこれで失礼します。また2週間後に参りますね」

「あら、もうおかえりですか?」

 本心から惜しそうに、彼女は言う。年中同じトレーナーを着ているように思うのだが、熱くないのだろうか。汗一つかいていないのは、高齢による代謝の低下からくるものなのだろうか。いや、まるで実際に暑さを感じていないように思われる。暑さは、萎縮した前頭葉や海馬が感じるものではないように思うのだが。

「次の診察もありますので。暑いので、涼しくして過ごしてくださいね」

 僕と看護師はそう言って頭を下げ、玄関に向かう。スリッパを脱ぎ、狭い玄関で口に履き替える。

 僕らが出ると、すぐに鍵のかかる音がする。日の当たらない廊下は、それでも熱気が立ち込めている。いまが気温のピークだろうか。

 額の汗を拭うと、服の袖から、わずかに先程までいた部屋の、防虫剤とほこりの匂いが漂う。第一脳神経とも呼ばれる嗅神経は、隣接する視神経を刺激するのか、僕に画像イメージを呼び出させる。患者さんの顔、額に巻かれた色鮮やかなスカーフ、濁ったプラスチックのピッチャー、そして黄緑色のカビに覆われたおかゆ。

 胃と食道が急激に蠕動し、嘔吐しそうになった僕はそれをなんとか飲み込み、こらえる。建物の影から出た僕の髪や肌を強い太陽光が焼き、自律神経の暴走を無理やりこらえた反動も含めて、首や額に汗が吹き出たことを自覚する。

 運転手が待機していた車に乗り込んだ僕は、ドアを閉じてマスクをずらし、鼻で大きく息を吸う。車のエアコンの乾いた無機質な匂いは、どこか先程の部屋の匂いに近しいものがあった。それでも、締め切った車の中は、夏の日差しに灼かれるアスファルトよりはいくらか人間的であるようだ。走り出した車の中で窓の外に目をやり、街路樹を眺めて黄緑のイメージを少しずつ上書きしながら、僕は、次回の訪問までに気温が下がるか、それが難しければせめて誰かが僕より先に彼女の遺体を発見することを願うのだった。

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