即身仏

可笑林

即身仏

 八田野はどうしても即身仏になりたいと言って聞かなかった。

 たかが片思いの相手に恋人ができただけのことだ、失恋なんてままあることじゃないか。そもそも尻込みをしていたお前が悪い。同じ轍を踏まないように次は積極的な恋愛を心がければいいだろう。きっと上手くいく。

 そう言って何度も激励してやったが、どうにもこうにも八田野は頑固だった。


「いや、どうしたって、おれは即身仏になる」

「むちゃくちゃを言うな。なにも死ぬことはないだろう」

「もう、だめだ。おれはもう分かった、今生での幸福はもう見込めない。二十余って六年、半世紀も生きれば大したもんだ。人の世は儚い。切れそうな蔦にしがみついて老醜を晒すのは御免被る。今がいちばん若いんだから、今死ぬ」

「親御さんが泣くぞ」

「泣くもんか、あんな連中。いいや、泣くか。今のはよくなかった。忘れてくれ。おれとて、親に対する恩義はある。だからむやみに首を括るような真似はしない。即身仏になるというのはそういうことだ。衆生の罪を背負って、生入定してみせる。立派に死んでみせるのだ。親も自慢に思うだろう」

「バカを言うな。親より先に死んでなにが親孝行か。その年で子供に混ざって賽の河原で石でも積んでみろ。来年のことも言わないうちに鬼が笑うぞ」

「鬼も子供をいじめてばかりで良心が痛むだろう。おれが石を積むだけで笑顔を取り戻せるのなら、結構、結構」


 こうなったらもう、八田野は梃子でも動かない。昔からこういう男だった。

どうやら、決心の臍を固めたのは随分前だったようだ。八田野の顔色はもはや土色というのも憚れるくらい血色に欠けている。頬はこけ、四肢は細り、もはや干物と話しているような始末だ。


「この日のために穀類を絶ち、木の皮と漆の茶だけを啜って来た。もはや脂肪や筋肉のような軽薄なものは身に纏っていない。おれの体を作っているのは清廉な覚悟だけだ」


 八田野の両目ばかりが爛々としていた。覚悟は本物だ。


「おまえは無二の親友だから、おれが即身仏になるのを手伝ってほしい。最後の願いだ、聞いてくれるな」

「親友というなら、自殺幇助なんてさせないでくれ。お前を木乃伊になんてできない」

「なんてひどいことを言うんだ。ああ、むごい、なんて悲しいんだ。恨むぞ、おれはおまえを恨みます。今際の願いも聞いてもらえないのか」


 地団駄を踏もうにも踏めない八田野は、ただその両目にいっぱいの涙を浮かべた。彼の体に残された残り少ない水分が落ち窪んだ瞳から溢れ出てくる。

 私はついに折れた。


「わかった、わかった。私も友を失うのはつらいが、君が頑固なのもよく知っている。こうなったら、とことん付き合ってやる」

「ああ、友よ。やはりおれには、おまえしかいない」


 私たちは最後の抱擁を交わした。抱きしめた八田野の体は今にも崩れ落ちそうで、そして温度がなかった。少し、漆の匂いがした。


「手筈は、分かっているな」


 私は頷いた。


 一メートル四方の桐の箱に、胡坐をかいた八田野を詰め込んで蓋をする。

 このままでは窒息してしまうから、箱の天井には穴が開いている。ここに節を抜いた竹竿を挿すと、空気管になる。

 この空気管の先を地上に残して、八田野の入った箱は乾いた地中に埋める。

 この国の湿潤な気候で即身仏になるには、様々な工夫が必要だ。


「生きている人は皆、不完全な死体に過ぎない。これからおれは、完全な死体になるのだ」


 と、八田野は寺山修司の詩を桐箱の中で引用して見せた。

 彼の声は地中深くから、竹竿を通って私まで届く。


「ここは真っ暗だ」

「怖いか? 引き上げるか?」

「いや、いや、暗くていいんだ。却って安心する。狭いところは正直苦手だったんだが、暗いと紛れる。ここまでしてくれてありがとう」

「礼なんていい」


 いよいよ、最終段階になった。

 本来なら箱の中の人間が読経しながら鈴を鳴らし、その音が途絶えたときこそが入定の時なのだが、八田野の経はうろ覚えだった。途中からは寺山修司の歌をとにかく唱えていた。

 私は竹竿の傍で三日三晩、八田野の諳んじる歌を聴き続けた。

 四日目の朝、ついに竹竿からはなにも聞こえなくなった。


「千日後に、また掘り返しにくる」


 管に向かってそう言ったが、返事はない。私はその場を離れた。




 千日後、私はスコップを手にして、八田野を埋めた場所を訪れた。

 竹竿の先は枯葉に埋もれていて、見つけるのに苦労した。

 幸い、あれから誰もこの場を訪れなかったらしい。竹竿に沿って地面を掘っていくと、八田野を詰めた桐箱はまだそこにあった。雨に濡れないように工夫してあったから、箱は腐ったりしていなかった。

 持ち上げると、箱は驚くほど軽い。中で八田野が木乃伊になっているに違いないと思った。

 私はそっと桐箱の蓋を開けた。


 中に即身仏は入っておらず、その代わり真新しい千羽鶴が収まっていた。

 帰って数えると九百九十九羽だった。

 どうやら日を数え違えていたらしかった。

 今でも、八田野には悪いことをしたと思う。

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即身仏 可笑林 @White-Abalone

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