汚泥

何で?何であの人が。

ここ、山辺先生のお家だよね?

間違いじゃないよね?

思わず表札を二回ほど見直したけど、やっぱり山辺さんのお家だ。

同じアパートの他の友達の所へ行くのかも、と言う滑稽な期待を持ちながらアパートの近くに行き様子を見たが、それも空しく清水先生は山辺先生の部屋のドアの前に立つと、手慣れた様子で鍵を取り出してドアを開けると当たり前のように中に入っていった。

そんな光景を私は馬鹿みたいにアパートの前で突っ立って見ていることしか出来なかった。

その後、何を思ったか私は後を追って先生の部屋のドアの前に立った。

中から何かくぐもった声が聞こえてくる。

私は思わずドアに耳を押し当てると、中からはさっきよりややハッキリと二人の会話が聞こえてくる。

「・・・悪いですね・・・助かる・・・」

「いつもの事・・・さあ、横に・・・」

「・・・いや、そこまでは・・・」

「・・・今更気兼ね・・・ゆっくり・・・」

「・・・すいません・・・あ、そう・・・」

 そこから少し会話が途切れたので、私は耳を離した。

それ以上会話を聞きたくなかった事もあるけど、たまらなく気持ちが悪い。

蒸し暑い。

汗でベトベトする。

お水も飲んでないからかな。頭がボーッとしてるみたい。

たまらない吐き気に襲われて、私は階段を降りると隅に隠れて少しの間嘔吐した。

周囲に酸っぱさと食べ物のだろうか、甘さが混じった生臭い匂いが充満する。

その匂いが余計に嘔気を刺激し、また戻した。

たまらずにしばらく咳き込み、買ってきていた飲料水を飲むとようやく落ち着いてきた。

ただ、まだ頭痛は続いている。

私はたまらずその場にしゃがみこんだ。

その時、ウエストポーチが開きっぱなしになってたからか、先生にもらった扇子が下に落ちた。

心臓が破裂するかと思いくらいに驚き、手を伸ばしたがすでに遅く、扇子は吐瀉物の上に落ちてしまった。

慌てて拾い上げたが、表面のあちこちが汚れてしまっている。

ポーチからウエットティッシュを取り出し、しばらく一心不乱に拭いていたがどうしても汚れは落ちない。

「何で!何で・・・」

拭きながら涙がどんどん溢れてくる。

「何で!」

顔をびしょびしょに濡らす涙に構わずひたすら拭き続ける。

涙は止まらず、しゃくり上げながら無言で扇子をずっと拭いていた。

やがて、扇子を綺麗にすることは諦めてその場にじっとしゃがんだままボンヤリとしていた。頭の中は空っぽのようだけど、絶えず何かを考えているようにも感じる奇妙な状態だった。

今の私を見たら先生どう思うかな。

自分の吐瀉物の横で顔を涙でベタベタにして、同じく吐瀉物で汚れた扇子を握りしめて、呆然と地面に座っている自分。

ごめんなさい、せっかくのプレゼントを。

宝物にするつもりだったのに。

これじゃ嫌われちゃう。

でも、先生。

わたし、とってもかなしいの。

なんでこんないじわるするの?

小さく顔を動かし周囲を見回す。

このままここに居て、先生が来たら見てもらおうか。

こんな惨めな私を。

先生に守ってもらわないとすぐこんな風になっちゃう自分を。

そしたらギュッとしてくれるかも。

でも、怖がって逃げられたらどうしよう。

ううん、大丈夫。

先生は言ってくれた。

一緒に進んでいこうって。

だから絶対私から離れるわけが無い。

うん、大丈夫。

一人で納得してそのままボンヤリとする。

頭の中は相変わらず空っぽのような、一生懸命何か考えているような・・・

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