呪文

この日の事は今でも良く覚えている。

パパが夕食の準備をしているのを横目で見ながら、リビングでテレビを見ていた私の前で、帰ってきたばかりのママがパパに向かってやや緊張した口調で話していた。

「若田さんとこの康輔君。マンションの9階から飛び降りたって。廊下の手すりを乗り越えて。6年生の子だけど・・・」

コウスケクン?

それは全く聞き覚えの無い名前だったけど、ママは何度もその名前とその子が自宅マンションの部屋のある9階から飛び降りた事。

救急搬送されたが即死だった事を話していた。

そんなママは話の合間に私をチラチラと見てきた。

やがてパパが止めるのも無視して、私の方にやってきた。

そして私の前に座るとしばらく逡巡したのち、意を決したように言った。

「昭乃。近所にいた康輔君って言う子が死んじゃったの」

ぽかんとしている私にママは続けた。

「その子、男の子だったけどずっと女の子になりたかったみたいなの」

「おい、もうやめろ」

そうパパが低い声で言った。温厚なパパからは聞いたことの無い口調だった。

だがママは「この子に必要な事なの!」とさらに強い口調で返した。

「でもね、その子それがクラスの子に知られて、からかわれたの。お母さんとお父さんの前で。その日の夜に飛び降りたって・・・」

そこまで話すとママは自分の顔をぐっと近づけ、低い口調で言った。

「昭乃。あなたは違うよね。男の子だよね」

それは私の知っているママとは別の生き物みたいだった。

いつもニコニコ笑っているママ。

高い声でのんびりとしゃべっているママ。

そんな人は目の前には居なかった。

この人はママに化けている怖い人。

私をどこか怖いところに連れ去ってしまうんだ。

そう思い、私はしゃくり上げると声を上げて泣き出した。

だが、ママはそんな私の肩を掴むとさらに言った。

「あなたは男の子だよね。男の子なの。女の子だったら康輔君みたいになっちゃうんだよ!違うよね!」

「いい加減にしろ!昭乃が泣いてるだろ!」

パパの怒鳴り声。

今まで私がどんな我が儘言っても怒ったことなんか無かったのに。

なんで?

なんでパパもママも別の人に化けちゃったの?

まるでお化けみたい。

本当の二人はどこなの?

「昭乃が康輔君みたいになってもいいの?本当はあなたが言わないと行けないのよ!いつも私にばかり昭乃の事を押しつけて!」

「昭乃の前でそういう事を言うんじゃ無い!」

私は耳を塞いで大声で泣き続けた。

そうすれば王子様が気づいて駆けつけてくれる。

そして目の前の二人のお化けをやっつけて本当のパパとママを連れてきてくれる。

そう思い泣き続けた。

でも、中々王子様は来てくれない。

どうして?

パパとママに化けた悪いお化けは大きな声ばかりだして喧嘩してるのに。

そのうちパパお化けがママお化けに何かを投げつけた。

もう嫌だ。もう嫌だ。

そうか。

王子様はもう別のお姫様の所に行っちゃったんだ。

私はお姫様なんかじゃ無かったんだ。

私は頭に浮かんだ言葉を繰り返し言った。

「昭乃、男の子になる。女の子じゃない。昭乃は男の子!」

その途端、ママがこちらを振り向いた。

その顔は安堵が混じっていて、少しだけいつものママだった。

そうだ。

これが魔法の呪文だったんだ。

この呪文で目の前の悪いお化けを追い払ってやる。

「女の子なんか大嫌い!男の子になる!男の子になる!」

何回この言葉を繰り返しただろう。

喉が痛くなってきて声が上手に出せなくなってきた。

その時。

ママが私を抱きしめた。

「ごめんね昭乃。ママが悪かった。許して・・・」

ママは泣いていた。

近くではパパの泣き声も聞こえていた。

「ごめん、昭乃。ママ・・・」

「ママ、パパ。昭乃男の子になるから。そしたらもう喧嘩しない?」

自分の声では無いみたいだった。

誰が言ってるんだろう。

「いいんだよ。昭乃は昭乃なんだから」

パパは泣きながらそう言った。

「昭乃のしたいように。好きなようにして。それでいいの」

ママも泣きながら言っている。

うん、分かった。

私が好きなようにする。

私がしたいように。

それはあの悪いお化けがもうずっと、お母さんとお父さんに化けちゃわないこと。

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