第20話 それぞれの夜
「いたい! 痛い痛い痛い、痛いってば、ロシュ!」
「まったく、怪我が完治した直後に怪我をする人がどこにいるんですか!」
ロシュは消毒液を染み込ませた綿をピンセットで傷口に押し当てる。その度にエイベルはひいひいと声を上げた。
「全く、少し前まで怪我なんてどうでもいいみたいな顔してたくせに、こんなに痛がって」
「やっぱステンドグラスを突き破ると痛いんだな……。にしてもあの馬は無傷だった気がする。考えれば考えるほど怪しい馬だ」
「呑気な事を言って……。その綺麗な顔だけは傷だらけにならなくてよかったですね」
「確かに。きっとルマが悲しむもんな」
そう言ってエイベルは鏡の前で己の顔を色んな角度から観察した。けちの付けようのない整った顔だ。それを確認すると鏡に向かってにこりと笑った。
隣でそれを見ていたロシュは呆れ顔になった。
「……はい、終わりましたよ。こんな夜中に治療したんですから感謝してくださいね」
「うん、ありがとう。ところでルマはどうしてる?」
「もう眠られたと、チェルシーさんから報告がありました」
「そっか。……よかった」
エイベルが柔らかい表情を浮かべたのを、ロシュは優しく見守っていた。
しかしすぐに真剣な表情になると、薬箱を片付け、エイベルをベッドに横たえ、シーツをさっと被せる。一瞬の出来事だった。
気が付いたらベッドに横になっていたエイベルはロシュを見上げた。
「ロシュ、君、マジシャンとか向いてるんじゃないの」
「馬鹿なこと言ってないで早く寝てください。いいですか。夜更かしはいけません。お腹を冷やしても駄目ですよ。それから、しばらく激しい運動は控えてください。乗馬とか、ね」
「もうわかったから。おやすみ。ママ」
「誰がママですか!」
適当にロシュを追い出してから、エイベルは見慣れた天井を眺めた。そしてぼんやりと考える。
(……ルマって結局何者なんだろう)
引っかかることは幾つかある。だけど確証はどこにもない。それに、結論を出すのはきっと今じゃない。
この屋敷にはあの子がいて、明日も一緒にいられる。その事実だけで今は十分だ。
瞼を閉じるとすぐに睡魔に襲われた。緊張感に晒され続け、心身ともに疲れ切っていた。
……怒涛の一日だった。
明日は、何をしようか。
そんなことを考えながら、エイベルは眠りに落ちていった。
***
「結局、姉さんは無事だったんですね」
「そうみたいよ。たった今レリュード侯爵家から連絡が来たわ」
「そうですか。……なら、良かったです」
そう口では言いながらも、キーランはどこか不満げだ。
テーブルの向こうには両親が並んで座っている。椅子はあと二つ置いてあったが、キーランは頑なに座ろうとはしなかった。
(よかった、と思うべきなのか……)
レリュード侯爵家から、ルマが帰ってきていないか、と尋ねる書簡が届いたときは肝が冷えた。それはつまり、彼女の身に行方知れずになるような出来事が起きたということだ。
先ほどまで何も手につかず、結局、こんな夜遅くまで起きたままでいた。
キーランは傍らの椅子の背に腕を置いた。しばらく使われていないこの椅子は、姉のためのものだ。これまでも、この先もずっと。
「いっそのこと、姉さんを連れ戻した方がいいんじゃないですか? もう十分でしょう」
「貴方の気持ちはわかるわ。だけど、あの子のやりたいことを尊重してあげるべきじゃないかしら。何せ……せっかく生きていたのだから」
その言葉にキーランは眉根を寄せた。
二人はおおらかでいい両親だ。子供の意見を尊重するだけの度量がある。キーラン自身も、そんな両親のことを好ましく思っていた。
……だが、今回ばかりは違う。
また姉の身に何かが起きたのに何もせずにいるなんて、物事を甘く考えすぎているのではないか。死んでしまってから悔やんでも遅いのだ。それをつい最近学んだばかりではないのか。
キーランは呑気すぎる二人の態度に苛立ちを隠すことができなかった。
「そもそも、姉さんが死ぬような目に遭ったのだって、あの人と関わったからじゃないですか。なのにまたあの人のせいで姉さんに危害が及ぶのなら、俺は……!」
「キーラン」
力ある声に、キーランがはっと言葉を止める。父であるミルネール侯爵が諭すようにこちらを見ていた。
「あの人のせいなんて言うのはやめなさい。あれは事故だった。彼のせいではない」
「……。わかってます。だけど……」
「お前の気持ちはよくわかる。事故の後、私達もやるせない気持ちになったのだから。でも、アルマを信じて待っていよう。それであの子が帰ってきたときは優しく迎えてあげればいいだけだろう? 家族なんだから」
「家族……」
キーランは一度黙る。そこで話は上手く纏まるかに思えたが、キーランはむしろ反発心を強めたようだった。
「知りません、そんなこと」
ふいと顔を背け、部屋を出ていく。
引き留めようとした侯爵夫人を侯爵が手で制す。そして、ゆるゆると首を振った。
「大切な姉のことなんだ。敏感になるのは当然だろう」
「……そうね。姉思いの子だもの。あの子は優しいから」
両親の話し声が遠ざかる。自室に戻ると勢いよく扉を締め、どかっと椅子に座った。
キーランは背もたれに身を預けると、ぼんやりと天井を見上げた。
「……はぁ」
両親に罪はないのに、八つ当たりのようなことをしてしまった。自分らしくもない。
だが、こんなに感情的になってしまう理由は自分でもよくわかっていた。
……大切な姉? 姉思い?
間違ってはいない。だけど、それだけではない。
キーランは棚の上の写真立てを手に取った。
事故の少し前に撮った、四人が仲良く並んだ家族写真だ。
キャラメル色の髪にライトブラウンの瞳の父。赤髪に緑の瞳の母。
両親の特徴を半分ずつ受け継いだような容姿の自分。
……それから、金髪に菫色の瞳の姉。
キーランは写真の中で無邪気に笑う娘を嘲笑った。
「姉さんは本当に鈍感ですね」
いい弟なんかじゃない。
この中にある感情は家族愛だけではない。
「……なんて、言える訳がないな」
姉さんはあの人にしか興味がないんだから。
キーランはそう呟き、寂しげに笑った。
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