第8話 暗雲
朝の支度を終えると自室を出て、エイベルの部屋へと向かう。アルマは元気よく廊下を進んでいった。
(また変な気を起こさせないよう今日もエイベルを見張るわよ……!)
階段の近くに差しかかったとき、階下から誰かの話し声が聞こえてきた。
「エイベルはどうなったの?」
「幸い、今は落ち着いています」
「そう……」
会話をしながら誰が階段を上がってくる。
その声の主のうち一人はロシュだ。そしてもう一人は、落ち着いた色のドレスに身を包んだ貴婦人。
彼女はアルマの姿に気付くとぴたりと足を止めた。
「あら。はじめまして、お嬢さん。私は侯爵夫人のジョアンナ・レリュード。貴女のこと、話には聞いているわ」
(ジョアンナ様!)
銀髪にエイベルと同じ赤い瞳。エイベルの母親である彼女は、貴婦人という言葉がよく似合う、品良く威厳のある女性だ。
昔からアルマにはよくしてくれて、アルマも彼女のことが大好きだったのだ。侯爵夫人に会えた喜びで、アルマは自然と笑顔になった。
「挨拶が遅れました。私はルマです。お会いできて光栄です!」
アルマはドレスの裾を持ち上げて挨拶をする。しかし、侯爵夫人は観察するようにじっとこちらを見ていた。
(……あれ?)
妙な間があった。そののちに、侯爵夫人はにこりと笑った。
「ルマ嬢ね。どうぞよろしく」
そう言うと、侯爵夫人は「仕事があるから失礼するわね」とすぐに立ち去った。
遠ざかる背を眺めながらアルマは怪訝な顔をした。
……何故だろう。妙な壁を感じた。
記憶の中の侯爵夫人はもっと柔らかな雰囲気の人で、特に子供には優しかった。それを踏まえると、今の反応は少し冷たくすら感じられるような。
(いや、気のせいよね。ちゃんと挨拶もしてくださったし)
「どうなさいました、ルマ様。エイベル様のところに行かないのですか?」
ロシュが不思議そうにこちらを見ている。
アルマは不安を振り払うように元気に「行きます!」と答え、エイベルの元へ向かった。
そしてその日も、アルマはエイベルの挙動を監視し続けた。
窓の外を見る度に窓の前に立ち塞がり、刃物は全て回収した。
新生児を持つ母親のように、徹底的に先回りして危険物を排除し続けた結果、エイベルの部屋はみるみる殺風景になっていった。
「ルマ。ペーパーナイフ知らない?」
「危ないから使用禁止です」
「紙くらいしか切れないよ?」
「でもダメッ!」
「じゃあ俺の羽ペン知らない?」
「鋭いじゃないですか! 危ないから持っちゃダメです!」
「いや、さすがに……」
アルマはエイベルの腰に鋭い視線を送った。
……革製のベルト。あれも、首吊りの道具になるのではないか?
「……ルマ?」
「エイベル様。脱いでください」
「えっ……。何言ってるの」
アルマがじりじりと近付いてくる。エイベルは引いた顔でじりじりと後退した。そのうち壁際まで追い詰められ、エイベルは逃げ場を失った。
アルマの小さな手がドン! と壁に叩きつけられる。
「さあ、早く……」
こちらを見上げる菫色の瞳は真剣そのものだ。エイベルの額を冷や汗が流れる。
そのとき扉を叩く音がして、ロシュが部屋に姿を現した。
「失礼します。あの……」
少女に壁ドンされて怯える主人の姿を目の当たりにし、ロシュは「はあ?」という顔をした。
「…………何してるんですか」
「助けて。ルマに襲われる」
「何を言ってるんですか」
ロシュは深く考えるのをやめた。
「ところでルマ様。奥様がお呼びです」
「……私を?」
「ティータイムをご一緒したいと」
その言葉に、ようやくアルマが壁際を離れる。貞操の危機を回避し、エイベルはホッとした顔になった。
「わかりました。すぐに行きます」
アルマはくるりと背後を振り返る。エイベルはビクッと肩を揺らした。
「エイベル様、絶対に変なことしちゃダメですからね!」
「それはこっちの台詞だよ」
エイベルに勘違いされていることには気付かぬまま、アルマは侯爵夫人の部屋へと向かったのだった。
***
「あら。いらっしゃい、ルマ嬢」
「侯爵夫人。お招き頂きありがとうございます!」
席に着いた侯爵夫人がアルマをにこやかに迎え入れる。
白い円形のテーブルには菓子が用意されている。アルマが席に着くと、すぐに紅茶が淹れられた。
アルマは紅茶にドバドバと角砂糖を投入した。そしてゆっくり嚥下する。
そのとき侯爵夫人がこちらをじっと見ていることに気付いて、思わずむせた。
「あら。大丈夫かしら?」
「だっ……大丈夫、です……」
アルマはどうにか呼吸を整える。
(あんなに鋭い目で見られるなんて、びっくりしたわ……)
やっぱり気の所為ではないみたいだ。こちらを見る眼差しが以前とはまるで違う。
『アルマ』には優しかったのに、『ルマ』の何が気に障ったのだろう。
侯爵夫人は優雅に紅茶に口を付けた。そしてソーサーに置くと、口を開いた。
「あの子もかなりの甘党で、紅茶にはいつも角砂糖を沢山入れていたわね」
急に何の話だろう。
怪訝な顔をしたアルマを侯爵夫人はじっと見つめた。
「貴女は……アルマ嬢に似すぎているわ」
「えっ……?」
「命の恩人だと聞いたわ。エイベルの自殺を止めてくれたと。それは心から感謝しているわ。だけど」
そこで一度言葉を区切ると、侯爵夫人はエイベルと同じ赤い目でこちらを射抜いた。
「貴女の存在はエイベルにとって毒なのではないかしら」
「それは……どういう……」
「アルマ嬢の訃報は私にとっても辛い出来事だった。エイベルにとっては尚更でしょう。それでも、私はあの子一人で乗り越えられることだと信じているの。時間が痛みを和らげてくれるはずだと」
侯爵夫人は膝の上で手を重ねると、ぎゅっと握り締めた。
「……けれど、ルマ嬢。貴女はアルマ嬢に似すぎている。貴女を見る度に彼女を思い出すはず。貴女は、エイベルの傷口を刺激しているのよ」
「そんな……」
「冷たく聞こえたらごめんなさい。だけどよく考えて欲しいの。貴女の存在がエイベルに及ぼす影響を」
「……」
アルマには何も言うことができなかった。
その後のことは良く覚えていない。気が付けば廊下をとぼとぼと歩いていた。
アルマは足を止め、窓の外を見た。
先ほどまで晴れていた空には暗雲が立ち込めている。そのうちにぽつぽつと小雨が降り始め、雨は窓を打った。
(私……どうしたらいいの?)
アルマだと明かしても信じてもらえないのなら、別人としてエイベルを助ければいいと思っていた。だが、そんな考えは独りよがりだったのだろうか。
アルマの中にある思いはどこまでも単純だ。エイベルの傍にいたい。ただそれだけ。
だけど、それがエイベルを苦しめているというのなら。
「私はここにいない方がいいのかしら……」
雨は本降りになっていた。
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