郷愁の電話

咲翔

……



 職員室の扉を閉めて、廊下の電気を消す。パチンと電流の軽く弾ける音がして、視界が一気に真っ暗になる。左手で壁を触りながらゆっくりと歩き、職員玄関を目指す。靴を履き替え、扉の横についているセキュリティシステムを発動させる。最後に外へ出て、扉を閉める。これで校舎の施錠は完了だ。校門の近くに生えている、まだ小さな桜の木のシルエットを見ながら、私は大きく息を吸って吐いた。小学校教員になって、はや四年。深夜の学校は何度も経験しているが、それでもこのおぞましい雰囲気にはまだ慣れない。


 自動車の運転免許を持っていない私は、勤め先のこの小学校まで電車と徒歩で通っている。今日も職員室を出るのは最後だったが、まだ終電がどうのというような時間帯ではない。安心して最寄りまで歩ける。校門の重い扉をギギッと閉めて、私は歩き出した。ちょうどそのときだった。私の肩にかけている黒い革鞄の中から、ブーブーという着信音がした。いつもマナーモードに設定しているはずなのに、どうやら今日はバイブモードにしてしまっていたらしかった。震えるスマートフォンをひっつかみ、光る画面を確認する。電話の着信のようだ。相手を見ると「宵山愛子」となっていた。


「お母さん……」


 誰も通らない夜道だからか、私は一人呟いてしまう。宵山愛子は、私の母親の名前だ。電話をしてくることなんてめったにないのに、どうしたんだろう。ながら通話は教育上よろしくないけれど、とそこにいない誰かに向かってことわりつつ、私は通話開始ボタンを押した。


「もしもし、お母さん?」

『ああ、みなみ?』


 そうだけど、と答えつつ、私は普段と変わらない母の声に安心していた。きょうだいのいない私は、故郷に母と父だけを残して上京してきた形になる。だから、老いた二人を残していくことに若干の罪悪感を覚えていたのだ。……元気そうで、安心。


「うん。どうしたの?」

『あのさ、みなみ。落ち着いて聞いてほしいんだけど』

「うん。なに?」

『この村が、ダムに沈むことになっちまったよ。お役所から告知があってね、村長会の皆様方がどうにかできねーかって話していたらしいんだけど、だめだったみたいでね。ダム建設が始まるから、転居しろって言われちまってね。だからみなみ、一回帰ってこんかね?』


 

 




 その会話の後、私がどう電話を切って、どう家に帰ったのか正直覚えてはいなかった。いや、家に帰るのはいつもどおり電車に乗ったのだろうが……電話は。お母さんからの電話、一方的にプツリと切ってしまわなかっただろうか。


 その心配をするくらい、私の心には衝撃が残っていた。村が、ダムの底に沈む……? 確かに今思えば私の小さい頃から、ダム建設云々の話は出ていた気がするが……時代を経て無くなったのかと思っていたけれど。


「まだ、ダムなんて作るんだ」


 水力発電……持続可能なエネルギーを使った発電でもやるのだろうか。それは大いに結構だ。世の中が環境問題に目を向け始めた今、その流れは時代に合っていると思うし原子力や火力をこれ以上増やすよりは、水力に頼ったほうが良いというのも、知っていた。だが、故郷が沈むとなると話は別だ。


 一人暮らしのマンションで、私は簡易的な晩御飯の支度をしながら考えていた。いや、思い出していた。



 村の小さな学校を。

 清らかに流れる細い川を。

 藪だらけの山々を。

 あの日の思い出を。


「こういうのを郷愁っていうのかな」


 小さい頃から先生に憧れて、だけどど田舎の小さな村の小さな学校の教師になるのはなんだか嫌で、都会に出てきた私。大きな町の大学で教育学を学び、小学校の教員免許を取り、今の勤務先に至る。


 昔は……子供の頃は。田舎だ田舎だと、故郷を蔑んで都会にばかり憧れていた。今も、実家に帰るよりは一人暮らしのほうが楽しいと思っている。


 だが、その故郷が数年後には無くなるかもしれない。いや、確定事項だ――無くなるなんて考えると。妙に恋しくなるというか、失いたくないという気持ちが溢れ出てくる。


 時代は変わる。

 ずっと留めておきたい風景も。

 住む場所も住む人も。

 故郷も。

 いつかは、変わる。


 変化の変わり目に生き、

 過ぎた時間が戻ることはない。


 それなら。


「一回帰るかー……あの、ど田舎に」


 私は呟いた。一人っきりのワンルームに響く小さな声。そして応える人も居ない。


「よし」


 私は母に電話をかけた。

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郷愁の電話 咲翔 @sakigake-m

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