笛を吹く魔女

武内ゆり

第1話

 冷たい水の感触。

「ラウラ、早くきて」

めくりあげたズボンの下で、水が素足を吸い込んでいく。陽の光を反射して青く、時には緑に反射する美しい湖。目の前には袖を肩までめくった姉が立っている。

「待ってよ、そんなに早く歩けないんだから」

急かされたラウラは焦った。水晶質の砂が素足の裏に食い込む。チクチクする痛みを我慢しながら、右足を出すと、その先にあるはずの地面がなかった。

「ぎゃあああ!」

ラウラはバランスを崩して、顔から水に入った。白い飛沫が立ち、全身に冷たい感覚が押し寄せる。手を振ると、砂を引っ掻き、途中で止まった。ラウラは顔を上げた。鼻に入った水が沁みる。右足は一段低い砂地に辿り着いていた。誰かが砂をすくった跡らしい。

「もうラウラったら、ドジなんだから」

姉は愉快そうに笑いながら、手を差し伸べる。ラウラが濡れた手で掴むと、水を吸って重くなった衣服ごと全部、力強く持ち上げられる。ラウラは寒さと重さを感じながら、やっと立ち上がった。

 水面は波打ちながら反射している。青く、白く、時には虹色に煌めいて、ラウラの膝から波紋を広げていく。

 丸みを帯びた入江には、作業している大人たちがたくさんいる。ここの湖にある砂は半透明でとても綺麗だから、水中からすくって乾かした後、遠くへ運んで売り物にするのだ。

 ラウラもよく綺麗な小石を拾っては、部屋に飾っている。どうして砂が透明になるかというと、お母さんの話では、水の妖精キューエが住んでいて、自分の住居が美しくなるように魔法で砂を磨いていると言っていた。

 だから普通の砂が水晶質に変わるし、湖から流れ出して離れた砂は、魔法が解けて灰色に戻る。

 姉は水の中に手を突っ込むと、一つの石をつついてみせた。

「ほら見てよ、すごくきれいじゃない?」

揺れる水面の先に見えたのは、10センチくらいの、ピンクと緑の混じった石だった。色付きの石は珍しい。しかも2色も入っているものは、特に。

「……きれい」

ラウラは寒さを忘れて、見惚れていた。

 姉は誇らしげに両手で石を掴む。砂の中に埋もれていて固そうだと思っていたら、周りの砂が盛り上がって外れた。底に泥が付いているけれど、私たちだけの宝石が空気にさらされた。それで十分だった。石の中で陽の光が乱反射する。世界中のときめきを閉じ込めたように輝く宝物。

「キューエ、とられたって怒らないかな」

その石があまりに魅力的に見えて、ラウラはふと呟いた。この石は妖精キューエのとっておきかもしれない。せっかく磨いた石を、持って行かれたら……と想像した。

「大丈夫よ。キューエはすっごく優しい妖精だもの」

姉は石に付いている泥を拭うと、ラウラに渡した。

「はい、これがラウラの分ね」

「いいの?」

「だいじょーぶ、私はこの前、素敵なものを見つけちゃったから」

その明るい表情に、一瞬だけ、寂しそうな影が差し込んだ。

「へくしっ」

ラウラは身震いして、くしゃみする。

「一回上がろっか。晴れてるし、そのうち乾くでしょ」

姉は言った。でも中の服まで濡れてしまっている。着替えとタオルを持ってくればよかったと思ったけど、後の祭りだ。

 砂浜にたどり着き、座り込む。色付き石を太陽にかざすと、ラウラの手にピンクと緑の光が乗った。その横に姉が座って、同じように覗き込む。

「きれいだね」

と姉は囁く。

「きれい」

「本当に……きれい」

姉は、何度も確かめるように繰り返す。それから二人とも黙る。太陽が筋雲に隠れて、地面の温かさが消え、風だけを感じた。石も水気がなくなってくると、取りきれなかった細かい砂利が指にまとわりつき始める。

「あーあ、帰りたくないなあ」

湖を見ながら姉は言った。どうして、とは聞かなかった。その代わりラウラは、

「お姉ちゃんの分も探そうよ」

と提案した。姉は嬉しそうに目を開いたが、すぐに首を振った。

「ううん、大丈夫。石を持って行っても、すぐになくしちゃいそうだし」

姉なりの気配りだったのかもしれない。でもせっかく一緒にいるのに、とラウラは悲しくなって、頬を膨らませる。それからわざとつまらなさそうなふりをした。

「じゃあこれ、キューエに返す」

「そんな、もったいないじゃない」

ラウラの気まぐれに、姉は咎めるような口ぶりで言った。釣られてラウラの語気も強くなってしまう。

「だって私だけ持ってても、石がかわいそうでしょ」

その言葉を聞いた瞬間、姉が吹き出した。

「やっぱりラウラ、独特だよね」

「え?」

「石がかわいそうだって、ねえ? ふふふ、初めて聞いちゃった」

姉の笑いのツボに入ったようだ。真面目に言ったはずなのに、どこがおかしいのだろう。ラウラは変なものを見る目で、姉を見た。

 そんな時だった。

 ピュー……

 最初は風が鳴っているのかと思った。でも掠れ掠れ流れてくる音に、人々が立ち止まるのを見て、「あの音」だと気づく。

 姉も笑うのをやめて、耳を澄ませている。湖の向こうから滑るように笛の音が聞こえてくる。

「……帰りましょ」

姉はラウラの腕を掴んで、立ちあがろうとした。ラウラは心配して、姉を仰ぎ見る。姉の表情にはもう、少しの笑顔も見当たらなかった。ラウラも立った。服は半分くらい乾いていて、さっきより動きやすかった。

 水晶質の砂をすくっていた人たちも陸に戻って、いそいそと作業を引き上げている。手の空いた数人は、もういなくなっている。

 笛の音は、長さを変え、形を変えて、ラウラの耳の奥へ入り込もうとする。ラウラは耳を塞ぎたくなった。姉はまっすぐ前を見ながら、

「おしまいまで聴かなかったら大丈夫よ」

と落ち着いた声で言った、でも、ラウラを掴む力は、強いままだった。

 草のあるところに登り、家路を辿る。湖に遠ざかるうちに、風を切るような音も小さくなっていく。ラウラはだんだん気持ちに余裕が出てきた。繋いだ手も、いつの間にか離れていた。両手が軽いと感じた時、あることに気がついて声を上げた。

「あっ」

「どうしたの?」

「石が、ない……」

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