第6話 沈みゆく街、聖女ノエルの残骸

腐毒鬼グール


それは、腐毒の瘴気とともに現れる、変貌した生き物たちの亡骸なきがらだ。


基本的には腐毒の瘴気の奥深くに潜んでおり、人前には姿を現さない。

だが、ひとたび人が腐毒の瘴気に対して魔術的な防御策を講じたり、攻撃的な行動をとったりすると、それを破るために次々と現れるとされている。


国家間の戦争によってではなく、腐毒の瘴気領域から土地を取り取り戻し領土を増やそうとした国は、そうして瞬く間に滅んでいった。

それゆえ、現在は残されたわずかな領土をめぐって人間同士で争うのがごく普通の光景となっているのだった。



→→→→



つきだされた魔族の右手からまばゆい光が放たれた。

まばゆい閃光に、リュードは思わず目を細める。


その閃光を浴びた異形の化け物が、ボロボロと崩れ落ちていった。

そうして、最後にはからからに干からびた小さなミイラのような物体へと変わっていった。


これは聖女の力……、光の魔術だ。

これは、本来ならば魔族が扱えるような魔術ではないはずだった。


腐毒鬼グールが来ましたよ。私は何とかここを切り抜けてあの子たちを安全な場所まで連れて行くつもりなんですけど……、あなたも一緒に来ますか?」


ただ、たとえ腐毒鬼グールを倒せても、周囲と空を覆う腐毒の瘴気をどうにかしないことにはこの場所から生還することはできない。

どう考えても、死を待つよりほかにないこの状況だった。


それを打開するような策が、この女にはあるというのだろうか?


「……できるのか?」


女がゆっくりと頷いた。


「あなたが、私以外には剣を向けないと約束してくれるなら……、全員を助けてあげてもいいですよ。あなたはどうも、魔族に対してとてつもない憎悪をいだいているようだけど……」


「俺は……」


リュードの魔族に対する憎悪は、いわばやり場のない怒りの発現だった。

勇者となった兄のライルと、聖女となった幼馴染のノエルが、命懸けで魔王の討伐に挑んでいる最中。

リュードはそれを知らずにいた。


『いつかあの海の毒霧を晴らし、その向こう側を見てみたい』


ライルとノエルは、擁護院にいた頃によくそんな話をしていた。


擁護院の裏手の断崖を登り切ったその先の山の頂にて。

いくつかの瘴気領域のさらに先に、遠く海が見ていた。

その海の向こう側に何があるのかを知る者は、今のこの世界には存在していない。


『いつかあの海の毒霧を晴らし、その向こう側を見てみたい』


『わかったわ。私もライルに協力する』


この二人なら、いつかきっとそれを成し遂げられるかもしれない。

二人から一歩引いた場所で、くぐもった太陽の光に照らされた二人の後姿を見ながら、リュードはいつもそう思っていた。


それから十数年後。

『勇者ライル』と『聖女ノエル』を含む勇者のパーティーが魔王の城に攻め入り、その命と引き換えにして魔王を討伐した。

そして、その話をリュードが聞いたのは……すでにすべてが終わった後のことだった。


「もう二体、来ましたよ。任せてもいいですか?」


「……」


腐毒の瘴気から飛び出してきた二体の異形を、リュードの剣が瞬く間に真っ二つに切り裂いた。


本来ならばあるはずの肉や骨を断ち斬る手ごたえや、音、血しぶきのにおいなどは、全く感じられない。

代わりになったのは、剣が霞を切り裂くときの軽い風切り音だった。


「なんだ、こいつら……」


「こういう生き物です。あえて、生き物だって言わせてくださいね」


「……」


「では、あちらの方々と合流しましょうか」


腐毒の瘴気に閉ざされて、すでに分断されてしまった仲間の魔族の方へ魔族の女が歩み始めた。



→→→



「ここまでかよ! この霧の中から聞こえる薄気味悪い唸り声、こりゃあ瘴気鬼グールってやつの声だろ? 俺ももうすぐあいつらのお仲間になって、あんな薄気味悪い声を出しながら瘴気の中をさまよい歩くようになるってわけか」


周囲に満ちる腐毒の瘴気を恨めし気に睨みつけながら、リーダーが悲鳴のような声を上げた。


「死は、生きるのを諦めた者から順にそのはらわたに飲み込んでいく」


それに応えたのは、巨躯の魔族だった。


「ふんっ。この状況でよくそんなことが言えるなぁ?」


「お前は、生きたいのか?」


「死にたい奴なんていねぇだろ? いたら、とっくの昔にどこかで勝手に死んでるさ」


「逃げられたはずなのに、わざわざ死地に舞い戻ってきたお前は……どこかに死に場所を求めていたようにも見えた。それとも、本当にあいつを助けるために戻ったのか?」


「ふんっ、俺がそんないい奴そうに見えるか? さっき言った通り、金目のもんを回収しに来ただけだよ」


「まぁ、そういう事にしておこう。ほら、剣を構えろ。腐毒鬼グールが来るぞ」


「くそっ、マジかよ」


腐毒鬼グールよりも瘴気領域に気を付けろ。引きずり込まれて瘴気を吸い込んだら、その瞬間に死ぬからな」


「やっぱ最悪じゃねぇかよっ」


巨躯の魔族とリーダーが、並んでそれぞれの武器を構えた。



→→→



「俺は魔族が憎い。兄さんと、ノエルを殺した魔族が憎い。でも、それ以上にその時に何も知らずにのうのうと生きていた自分が許せないんだ」


「そうなんですか。それじゃあ、つまりは八つ当たりということですね?」


魔族の女は、その言葉とは裏腹にとてつもなく悲しそうな顔をしていた。

悲しみが表情から溢れ出し、その赤い瞳から雫となって零れ落ちた。


「……まぁ、そんなところだ。」


「でも、ライルも私も、あなたにそんなこと望んでなんかいないんですよ。私たちが望んでいたのは、ただただ平和な世界。そのためならば命を懸けるのは怖くなんかなかった。そして……たとえ私たちが失敗しても、きっと大丈夫だと思っていました」


「……?」


「『いつかあの海の毒霧を晴らし、その向こう側を見てみたい』って、ライルはいつもそう言っていました。それに対して私は、いつも『私もライルに協力する』とだけ答えていました」


「そうだな」


「ええ、そしてリュード。あなたはいつも『俺は二人の後に続く』と、そう答えてくれていました」


「……」


「魔王城でライルが魔王を倒した瞬間。勇者ライルは魔王の亡骸なきがらからあふれ出してきた腐毒の瘴気を浴びて絶命しました。リィンとアルカイアも、ミスラもリースリーフも、ヒトミとジルスも、みんなその瘴気を浴びて次々と命を落としていきました。そんな中、多少なりとも瘴気に対する耐性があった私は、最後の力を振り絞って魔王の亡骸の封印を試みました。腕も足も、瘴気に侵されてどす黒く変色していって……、頭の片隅で、多分もう駄目なんだろうなって思っていたんです」


そこで、魔族の女はふぅと息をついた。

先の言葉を待つリュードの顔をじっくりと見つめ、最後にその瞳を斜め上から真っ直ぐに見据えた。


「けれど、その時に浮かんだのがリュード、あなたの顔だったんですよ。もう何年も会っていなかったけれど、リュードならきっと私たちの後に続いてくれるだろうって……。そう思ったから、私はそのまま一歩前に踏み出せたんです」


「お前は……」


「そうして気づいたら、腐毒の瘴気に閉ざされた魔王城の最奥部で、私は一人、この身体になって倒れていました。腐毒の瘴気に対抗することのできる、こんな力を得て……」


そう言って、ノエルは自らの右腕を光の魔術で焼き斬った。

リング上になった光が、ノエルのひじのあたりで徐々に狭くなっていき、やがて完全にそれを絞り切る。


ノエルは、ボトリと床に落ちた右腕を瞬時に再生した右手で拾いあげた。

そして、それを前方へと放り投げ、その右腕に向かって再び光の魔術を放ったのだった。


空中で光の魔術の直撃を受けたノエルの右腕は、粉々に砕けながら白い結晶となって瘴気の中へと舞い散って行く。


そして、その白い結晶に触れた腐毒の瘴気が、瞬く間に晴れていったのだった。


晴れていく瘴気の向こう側に、驚愕の表情のまま固まっているリーダーの姿が見えた。


そこからゆっくりと振り向いたノエルがにこりと笑う。


「この頭の中には、確かに聖女ノエルの記憶があります。でも、同時に魔王と呼ばれていた存在の記憶も残っているんです。だから、今の私は誰でもない。ノエルでも、魔王でもない新しい存在になってしまったんです」


「つまり……、お前が何者かは、お前自身にもわからないという事か?」


「そういう事になりますね。ただ一つ言えることは……この身体には腐毒の瘴気を払う力があり、そして私は、今でも世界中の瘴気を晴らしたいと思っているということです」


「……」


魔族として殺すべきか?

ノエルとして再会を喜ぶべきか?

リュードは自らの剣を見つめたまま静かに迷っていた。


「あなたが今後どうするにせよ。続きは、この場所を逃れてからにしましょうよ。あなたがここで死ぬ以外の選択をしたいのであれば……、とりあえずは私たちに付いてきてください」


そう言って、ノエルは巨躯の魔族の方へと歩みを進めていった。

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