第2話
同じ週の水曜日の放課後。里巳は今週初めて『開かずの間』を訪れた。家の用事でこの教室へ入り浸る時間がなかった里巳に対し、錦野は待ち望んでいたようにタバコの話題を持ってきた。
「予言しちゃったね、天立嬢」
「そうね。記事に書いていたら、もっと大騒ぎになっていたかも」
里巳は数学の課題を解く手を止めずに言った。特別教室棟の方とは言え、駐車場も校舎裏に該当する。そうなるとエックス新聞は「いつも嘘を書いているチャチな娯楽」から、途端に予言書扱いされてしまう。
フェイクニュースは必ず嘘でなくてはならない。その上で、誰かが都市伝説的に楽しめるものが錦野の求める記事の完成形と言えた。今回に関しては、軽率な発言が採用されなくて良かったと里巳は思う。同時に、不注意な行動を取った人間には
「馬鹿だよね。駐車場なんてわかりやすい場所に置いて行くなんて。見つけてくださいって言ってるようなもんじゃん」
里巳はそんな感想を呟いた。校舎裏はどちらも生徒の掃除が毎日行われる場所だ。監視の目が少なく手を抜く生徒が多いとは言え、タバコのように年齢的に珍しい物が落ちていれば視線が集まるのは当然である。
とんだ間抜けが居たものだ。そう締め括ろうとした里巳に対して、錦野が言った。
「ところで、こんな噂を聞いちゃったんだよね」
噂話が嫌いな里巳はシャープペンシルの踊りを止め、おもむろに鞄からイヤホンを取り出した。それを見た錦野が「待った待った!」と大袈裟な仕草で防ぐ。
「何でも滝田先生が、タバコの犯人じゃないかって疑われているそうだよ」
数少ない関わりのある人物の名前が出てきたせいで、聞き逃せないものになる。それも錦野同様「悪事でもバレなければ良い」精神を持つ滝田だ。彼に限ってそんなミスをするものか。そう思った里巳はイヤホンを嵌めるのを止めて、嫌々ながら噂話の話題を続けることにした。
「どうして? って言うか、あの人タバコ吸ってたっけ」
「滝田先生は喫煙者だよ。それも結構なヘビースモーカー」
香水の匂いが強いのはそういう訳か、と里巳はシトラスの香りを思い出しながら一人で納得した。そして新しい疑問として、どうして錦野がそんな情報を持っているのかも浮かぶ。里巳が有名な話なのか聞いたら、すぐに「いいや」と否定した。
「喫煙者ってことは言っても無ければ、敢えて隠してもないかな。だけど彼に白羽の矢が立っちゃったのは、見つかった場所のせいなんだよね」
「駐車場が? この教室からも見える位置?」
「棟の反対側だから無理だろうね。ましてや吸い殻なんて小さな物は、千里眼かマサイ族くらいの視力がないと無理だと思うよ」
「誰も一〇〇メートル以上の距離を肉眼で見たいなんて思っちゃないわよ」
里巳が前髪の下を不機嫌に染めて吐き捨てる。ただでさえ噂話というだけで嫌気が差していたのに、笑えないジョークまで飛ばされてはやる気も失せるというものだ。錦野は「失敬失敬」と自らの悪い癖を反省するポーズを取ると、話の路線を戻す。
「駐車場を使っていて、尚且つ喫煙者。まずこれが滝田先生に容疑がかかってしまった大きな要因だね」
「そんな人たくさん居るんじゃないの。タバコの銘柄でも知ってた訳?」
新聞記者は「そこが今回のミソなのさ」と得意げに語り出す。
「ボクらはいつも、この教室を使っていることがバレないように、駐車場側の鉄扉から出て行くだろ。だけど偶に様子を見にくる滝田先生は、教師だから堂々と特別教室棟の廊下を通れる。それを目撃したことのある生徒が、用事の無いはずのこの『開かずの間』にタバコを吸いに来ているんじゃないかと推理した訳さ」
「はあ。馬鹿みたい」
短絡的な推測だ、と里巳は一蹴した。不確実な話を大衆に広めるから傷つく人間が生まれてしまう。根拠のない情報や、ネットニュースの思わせ振りな見出し。里巳は人を傷つけるニュースが大嫌いだった。
「どこのどいつなのよ。そんな頭の回ってない噂を流したのは」
「我が学校におわす自称“探偵”サマさ。何でも、人気絶頂のエックス新聞の発行者を探し出そうと躍起になっているらしいよ」
「ただのミーハーじゃない」
二度目の毒を吐いた里巳は、段々と滝田が哀れに思えてきた。ポンコツ探偵が居なければ霧散していくだけだったかもしれない話題の火種にされたのだ。せいぜい滝田の悪評が広まらないことを願った。
「そこで天立嬢にご相談があるんだけど」
里巳が心の中で静かに合掌していると、噂話に興味を持ったと勘違いした錦野が人差し指を立てて提案する。
「ボクらで犯人を探さないかい」
楽しそうな顔をしていたのはそういう訳か、と里巳は納得した。
錦野の行動原理はとりわけ自らの情報欲求と目的意識だ。それが同時に満たせるものがエックス新聞――彼が言うところのフェイク・エンターテインメントというやつだ――らしいのだが、今回に関しては目的意識の方を欠いている気がした。
「どういう打算?」
「滝田先生は一応、この教室を黙認してくれているんだ。ここで恩を売っておけば、いざって時に匿ってくれるかもしれないだろ」
「現金なヤツ」
「おいおい。これは天立嬢にだって利のある話だろう?」
確かに里巳としても『開かずの間』の安全確保は最優先事項だ。そういう点では、性格的な問題でこの教室の利用を認めてくれている滝田は以前から不安要素でもあった。だから人間不信気味な里巳でもできる限り仲良くなっておこうと思ったのだ。
そんな彼女に錦野が接触を許されているのは、錦野が損得勘定で動く人間だからこそ、里巳は行動を共にするのが辛くないからだった。必要か不必要か。信頼関係が最初から無ければ裏切りも有り得ない。彼らはお互いを利用し合うことで成り立っている関係だった。
錦野の考えは、その中に滝田を巻き込んでしまおうという話である。里巳はたっぷり二十秒は悩んで、それから言った。
「わかったよ。この場所にもまだ用があるし」
「よし」
錦野は勝ち馬を選んだ気分になった。彼にとっては、里巳を引き込むことが最も労力の必要な道程だった。
「さっそくだけど、情報は少し仕入れてある。タバコが落ちていたのは特別教室棟の裏。つまり駐車場の裏門近くだね。保健室が一番近い所で、朝のボランティア活動として生徒会の生徒たちが掃除していたら見つかったんだって。それを先生が回収したんだってさ」
「普通ね。その生徒が吸ったでもない限り」
「そして保健室の先生は非喫煙者らしいよ」
抜かりのない錦野に対して、里巳は精一杯嫌な顔を作った。わざわざ騒ぎ立てた生徒たちが犯人だとは考えにくい。もしそうならとんだ道化だが、今のように無駄な注目を集めるくらいなら隠した方が楽だっただろう。
ひとまず机上で空論を固めるよりも現場に行ってみよう。里巳はそう思って、鉛よりも重たい腰を上げた。
吸い殻は駐車場の裏門側の隅に放置されていたという錦野の情報を信じ、里巳はその場所へ向かった。特別教室棟の最奥にある『開かずの間』とは真反対で、位置関係的に最も近いのは保健室である。里巳は人気のない校舎裏できょろきょろと辺りを見回した。あるのは教師たちの車と、鉄線で囲われたゴミ捨て場くらいだ。
「裏門を通る人間は目にしてもおかしくない、か……タバコがポイ捨てされるにしては、先生たちの視線が怖い場所ね」
裏門を利用するのは基本的に車を使っている教師だけである。加えて生徒は正門の利用が普通だ。
錦野によると、タバコの発見は金曜日の朝だったとのことだ。つまり吸い殻が置かれたタイミングとしては、先週の木曜日の放課後から金曜日の早朝の時間帯。生徒たちが駐車場に立ち入る必要のない時間である。そうなると教師の誰かが捨て去って行ったという流れが自然だ。
「滝田先生の容疑が一層深まるなぁ」
しかしただ置き去るだけならば、その場に落とすだけではなく、上の階から放ることも可能である。里巳はそう思って特別教室棟の真上の階を確認した。
三階は家庭科室で、二階は美術室。隣くらいの教室までは風で飛びそうなので怪しいが、里巳は一旦この二箇所に的を絞る。
まずは三階の家庭科室を覗いた。火を使うのに不自然ではないという理由からだった。無人の教室の中には、ガスコンロや水道が取り付けられた調理台が並び、正面には黒板ではなくてホワイトボードが置かれている。里巳が家庭科の授業で使っている時と特に変わりはない。
窓からタバコのあった駐車場を見下ろすと、ちょうど女性教師が車に乗って帰宅しようとしていた。
「……窓から車の中、ちょっと見えるんだ」
中にある物までは詳しくわからないが、人のシルエットから動きくらいは認識できる。鍵を回しエンジンをかけた女性教師を見送ってから、次に特別教室棟の二階に降りた。
真下に位置する美術室は、芸術の選択科目が書道である里巳がまったくと言って良いほど立ち入ることのない場所だ。
家庭科室に対して美術室は紙や燃えやすい物も多い。もしここで吸うのなら細心の注意を払う必要があるだろう。そこまでのリスクを負ってまで摂取したい物なのか、里巳には疑問でしかなかった。
そして眺めた美術室には生徒たちの作品があった。教室の一角にはロープが張っており『こちら側、美術部』とわかりやすい注意書きがしてある。殆どが描きかけの絵画であり、教室を利用する生徒たちがキャンバスに近づかないようにするための処置だろう。
絵の内容はまちまちだが、日常の様子を切り取っているように見える。小さな子どもの誕生日を祝っている家族団欒の様子や、カフェでコーヒーを飲んでいる男性。中には裸で抱き合うセクシャルな男女の絵画もあった。特にその絵の肌感は画材でできているのが信じられないほどだ。
里巳は大人っぽいな、と感心していた。同年代の人たちには既にこういった行為を経験している者も居るだろうが、俯瞰的かつリアルに描くのは難しいと思ったからだ。生々しさとアダルトな幻想がうまく調和する構図は、素人目の里巳ですら惹き付けたのである。
「何してる」
男性の鋭い声が里巳の心臓を突き刺した。厳しい声を飛ばしたのは、彼女とは殆ど面識のない教師だった。ニンニク鼻でエラが目立ち、台形の顔をした強面。太い眉が険しい顔を作るものだから、里巳は僅かに萎縮した。
「すみません。作品が気になって、つい見てしまいました」
「ここに並んでいる作品は生徒たちがコンクールに応募するものだ。場所が無くて美術室に置かざるを得ない状況なんだよ。キツい言い方で申し訳ないが、万が一にでも汚されたら困る」
叱る言葉が湧き水のごとく出てきて、里巳は面倒事を悟った。すぐに表情を悟られないように、俯いて前髪を一層下に落とす。視線の先にあった彼の左手の薬指に、プラチナの指輪が見えた。
「わかりました。そうとは知らずに立ち入ってしまってごめんなさい」
先手を打つように丁寧に謝ったことで、男性教師は虚をつかれたように言葉を止める。今にもうぐぐ、と唸りそうな雰囲気だったが、昂る感情の矛先は別の方へ向かった。
「まったく。この学校はもう少し規則を厳しくさせてくれても良いだろうに。生徒の髪色を縛るだけでは、備品や作品は守れない」
やっぱり面倒だなぁ、と里巳は内省の無さを隠し通すことに尽力した。やがて一頻り文句を言い終えた教師は、目の前の生徒の俯き具合が酷くなっているのを見て慌てて言った。
「とにかく今度からは気をつけてくれ」
「わかりました」
男性教師がくるりと背を向けて見えなくなった後、里巳は堪えていた溜め息を吐いた。
「まさか、あんな番兵みたいな先生が居るとはね」
仮に『開かずの間』への出入りがあの男性教師に見つかったら、錦野の持つ鍵は奪われてしまうだろう。間違いなく警戒対象である。
「……戻ろう」
溜め息を吐くように独りごちると、里巳はバッグを置きっぱなしにしてある『開かずの間』に一度戻ることに決めた。
里巳が戻る途中、三階の視聴覚室の明かりが点いていることに気づいた。放課後に委員会が無いとあまり使われない教室で、今日は誰も呼び出されていなかった。里巳は興味なく通り過ぎようとしたが、その中に見覚えのある紺色のスーツがくたびれたように項垂れているのを見つけた。
彼女は暗い雰囲気に迷いつつも、今回の件の当事者に話をしておくことにした。
「滝田先生、こんにちは」
「天立か。よお」
教室に入ると苦味のあるシトラスの香りが漂った。おっかなびっくりといった様子で顔を上げた滝田は、いつもの放課後よりもかなり疲れた様子である。若干血色が悪く、深い彫りの顔と相まって、里巳が事情を知らなければ保健室行きを勧めたところだ。
「疲れてるみたいですね。タバコでも吸って来たらどうですか」
「今の俺にタバコの話は止めてくれ。胃が痛くなる……というかお前、わかってて言ってるだろ」
軽い冗談のつもりで言った台詞は滝田に突き刺さった。里巳はもう少し性格の悪いことを言ってやりたい気持ちになったが、それで他人を追い詰めるような快楽主義者ではない。大人しく無害な教え子を演じることにした。
「錦野くんから聞きました。先生が犯人なんですか?」
「あのな。仮に俺が犯人だったとして、素直に言うわけないだろ。そして何より俺はやってない」
「その言葉が聞けて安心しました。これで気兼ねなく先生に恩を売れます」
滝田は「恩?」と胡散臭いものを見る目を里巳に向けた。彼女は自分が策謀者だと疑われることを嫌って、錦野の作戦を正直に告げる。
「錦野くんが真犯人を見つけ出して、滝田先生の悪評を払拭してあげようとしているみたいですよ。そうしたら『開かずの間』の番人になってくれるんじゃないかって」
実際のところ、時おり様子を見に来て周囲の様子を伝えてくれる滝田は、既に番人としての役割を果たしているとも言えた。
そこで、里巳たちの狙いは恩に着せた確約である。人の往来状況がいつでもわかる――とまでは言わないが、事情を知っている滝田の存在が興味本位で『開かずの間』近くまでくる生徒たちを追い返してくれれば良いと思っていた。
そんな打算丸出しの交換条件をこれ見よがしに提示しようと思っていたが、滝田は悩む素振りもなく里巳に泣きついた。
「頼む! ただでさえ生徒の視線も痛いのに、先生たちには規則破りが見つかりそうなんだ!」
「……惨めですね、先生」
到底、生徒が教師に言うには相応しくない台詞だった。滝田は心を詰られるような息苦しさを覚えながらも、他に頼りがないことを自覚している。四面楚歌の現状に比べればマシだと考えていた。
里巳は協力的になった滝田に向かって笑顔で尋ねる。
「あの吸い殻が見つかったのって先週の金曜日でしたよね。ちなみに、滝田先生は何をしていましたか?」
「おいおい。俺のアリバイを聞くのかよ」
「念の為です。全てを疑わないと、私も確信のない噂をバラ撒く生徒になってしまいますよ」
滝田は老け込んだ顔をげんなりさせた。しかし里巳が愉快そうにニヤついているのを見て、諦めたように当日のことを思い出そうとする。
「その日は放課後から帰りまで、職員室でテストの問題を考えてたよ。何人か見ていた先生も居ると思う」
「その間にタバコ休憩は?」
「……した。ニコチンが無いと頭が煮詰まるんだから仕方ないだろ」
随分と社会人的な理由だ、と里巳は思った。タバコですっきりした気分が味わえるのは、ニコチン欲求による苛立ちを短時間のリラックス効果で打ち消すからだ。その後は思考力の低下を招くので、詰まるところただの出来レースでしかない。
プラシーボ効果と、パブロフの犬に見られるような条件反応の結果だ。里巳に言わせれば、滝田は間違いなく社会の犬だった。
「どこで吸いましたか」
「……」
「答えづらいということは、やましいことがあるんですね。つまり犯人は先生だと広めても問題ありませんね」
滝田は脅しじみた言葉に「ああ!」と痺れを切らしたような声を放り、事実を言った。
「車の中だよ! だけど誓ってポイ捨てなんかしてない。だって普通に考えて馬鹿だろ。違反をバラしにいってるようなもんだぞ」
里巳は噂があながち間違いではないと思いながらも滝田の言い分に納得した。確かに自分が違反を犯していると自覚があるのなら、せめて隠す努力くらいはするだろう。
「信用があるんだか無いんだかわからないなぁ」
里巳の独り言に、滝田はぐうの音も出せなかった。
「教師の中には先生以外の喫煙者も居ますよね?」
「ああ。ぱっと頭に浮かぶだけでも片手じゃ収まらないよ」
「先生のように車の中で吸う人は? 確か禁止事項ですよね?」
「……恥ずかしながら居ない」
「そうですか。滝田先生以外に疑われる人物が現れないのも納得しました」
ホント良い趣味してるよ、と滝田は生徒に向けるには情けない台詞を吐くしかなかった。
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