第2話 夏の終わりと来訪者

「一柳さん。課題も案外悪くない、って考えたことはない?」

 夏休み中、幾度となくそんな疑問を一柳さんに投げかけた。すると一柳さんは決まって

「あるわけないでしょう」

 と呆れたように言うのだった。

「聞いてよ、一柳さん。もしも課題が与えられなかったら、僕達は夏の一ヶ月、何もすることが無くなっちゃうんだ。そりゃあ、面倒臭いことには変わり無いんだけどさ、でも、変に時間ができて、無力感が募るよりましだと思うんだよね」

「何度も聞いたよ、その理論。それでも、面倒なものは面倒だもん」

 ま、そうだよね、と僕は諦めて頷いた。

 何も、僕だって夏休みの課題が素晴らしいものだとは思っていない。ただ、何か意義があると思わないと、やっていられないのだ。

 ただでさえこの熱気だ。何が悲しくて高一の夏、青春の真っ只中に、蒸し暑い部室で課題をせにゃならんのか。外は雲一つない晴天だ。何かこう、青春ドラマみたいに大声で何か言って校庭を駆け回りたくなる気分もわかる。暑いし恥ずかしいのでやらないけど。

 僕はため息を吐きながら、シャープペンシルを走らせた。あと四ページ。今日中に終わるだろうか。あと少しと思う程、筆の進みは遅くなり、煩わしさは募るばかりだ。

 久瀬高校は(自称)進学校で、無駄に課題が多かった。これでは勉学に対する意欲も失われてしまうだろうに。

 ……本当に面倒だ。

 とはいえ、「課題も案外悪くない」という言葉の全てが嘘だというわけでもなかった。課題があって良かったと、心のどこかでほんの少し、ほんのちょっぴりとだけ、そう思うのだ。

 僕には趣味と呼べるものがあまりない。推理は好きだけれど、日常にそうそう謎が潜んでいるはずもない。小説を読むことも好きだが、ずっと部屋の中に籠もって本を読み続けていると……それはそれで、なんだか焦燥感が襲ってくる。

 何もやることがないと、本当に、何も無くなってしまう。学生であることも忘れて、けれども、やりたいこともなくて、人生そのものが無意味に思えてきてしまって……嫌になってしまうのだ。

 だから宿題は達成感を得るためのミッションとして、優れているのではなかろうか。とにかく何か努力をして、成果を得る。これは強制されなければ中々できないことだ。課題が終わった際には「今年の夏も頑張った」と少しだけ胸を張れるだろう。

 それに、忙しい時は哲学する余裕が消えてくれる。「僕に何ができるだろう」なんてセンチメンタルに陥ることもなくなるのだ。だから、課題も悪くない、はず?

「ああ、面倒だなぁ」

「石澤くん、さっきと言ってることが違うけど」

 小さく息を吐き出し、背もたれに身体を預ける。今日は夏休み最終日で、ここは文芸部の部室だ。夏休み中、久瀬高校は学校を開放していた。だから僕達は暇があれば文芸部へと足を運び、談笑したり、読書したり、課題をこなしたり……と、適当に過ごした。

 その結果がこのザマである。最終日だというのに、課題はまだ終わっていない。

「少し遊び過ぎたね」

 彼女に微笑みかける。「そうね」と、ノートに目を落としたまま一柳さんが言った。

 思えば、小学校の夏休みも、中学生の夏休みも、僕にはやるべきことなんてなくて、ただ無為な時間を過ごしていた。

 小学生の時はそれでよかった。毎日が新鮮で、外に出れば謎が待っていた。どんなことだって、僕の目には不思議に映ったのだ。それに、あの頃の夏休みは今よりも長かった。ずっとずっと長かった。夏の香りに世界は色めいて、その中で悠久の時を与えられ、僕はなんだってできる気がしていた。否、実際になんだってできたのだ。

 しかし、中学生になって、明確におかしくなった。周りの人間には、何か成すべきことができて、自分だけが取り残されてしまったようだった。ならば僕も、とあれこれ考えている内に、夏休みは終わってしまう。何せ、夏休みは一か月。ほんの数週間しかないのだから。

 そんな自分を、再確認してしまうこの季節が、僕はちょっぴり苦手だった。

 ……しかし。

 僕はふと窓の外を眺める。夏休み最終日だというのにセミはお構いなしだ。いや、最終日だからこそ、夏を演出してくれているのだろうか。

 この夏も、あの夏も、世界にとっては代わり映えのない夏である。しかし、僕にとって、今年は少し特別だった。

 今年は、夏の焦燥を共有する人がいたのだ。

 顔を上げて、彼女を盗み見る。

「何?」

 その瞬間、不意に一柳さんと目が合ってしまった。

「いいや、なんでも」

 僕はさっと目を逸らした。

 一柳瞳。僕と同じ文芸部の仲間にして、探偵にとってのお邪魔虫。

 彼女はオカルトが大好きである。そしてその特性故、学校で起こる不思議な事件の悉くを、幽霊の仕業にしてしまう。探偵を目指している僕にとっては良い迷惑なのだ。ミステリーとして謎を解きたい僕と、オカルトの神秘を信じる一柳さん。僕達は事件の真相を巡って、対決を繰り広げてきた。

 そんな風に、一見僕達は真逆のようだけれども、似ている部分もあったのだ。

僕は「探偵」に憧れている。しかし、僕の目指す「探偵」は存在しない職業だ。だからこそ、この夏にすべきことも見当たらない。そして、それは一柳さんも同じではないだろうか。オカルトが将来の職に繋がるとは考え難い。それに、彼女は心の底からオカルトの存在を信じているので、民俗学としてのオカルトには惹かれないだろうし、創作をするつもりもないはずだ。

 だからこそ、彼女とならば、この虚無感を共有できる。

「夏休み、結局何もしなかったな」

 僕は傷をなめ合うため、自虐気味に言った。

「沢山本読んだって言ってたじゃない」

 それはそうだけど、と僕は首を傾げる。

「何というか、読書だって大切だけど、結局僕達は消費者側なんだって思うと、じっとしていられなくなるんだよね」

「……まあ、わかるかも。本を読むことなんて誰にでもできるから、たくさん読んだだけじゃ、私も自慢できない」

「でも結局、何かしたいけど、何がしたいかがわからなくて、悶々とするよね」

 同意を求めるように、一柳さんを見た。彼女は微笑んで

「石澤くんと一緒にしないでよ。私、忙しいもん」

「へえ。何してるの?」

 彼女は少し視線を泳がせ、ため息交じりに、

「……テレビ見たり、動画見たり」

 僕はその回答に満足し、ほくそ笑む。

「動画、ね。U Tube? あれ、本当に時間を吸われるよね」

 一柳さんが困った顔をして小さく頷いた。そして目があって、僕達は思わず微笑み合う。

 彼女と共に過ごすだけで、夏の焦燥からは逃れることができた。一人では、自分だけが漂い、留まっているのだと感じてしまう。不安から逃れるためには、同じ日陰に誰かを引き込む必要があるのだ。

 窓の外からは、夏の大会を終えたというのに、運動部のかけ声が学校のあちらこちらから聞こえた。

「暑い中、よくやるね」

「本当にね」

 彼女の言葉に、僕はグラウンドで転がる小さな影を眺めながら苦笑した。彼等は日向の人間だ。やりたいことも、達成したいこともあって、全力で打ち込んでいる。僕達には、ちょっと眩しい。

 だからこそ、僕達は日陰で休むのだ。

 そうして一柳さんと過ごした休暇は、とても楽しかった。

 肝試しと言って、夜の学校に忍び込み探索した日もあった。推理対決で、日常に潜む謎の真相を追ったこともあった。彼女と待ち合わせて、カラオケとゲームセンターに行って、その帰りに駅前のスイーツも食べに行った。そして日を跨ぐまで電話した日もあった。

 大きな目標は無いけれど、それでも充実はしていたと思う。同じ焦燥を抱える人間と共に過ごすことが、こんなにも心地良いなんて知らなかった。

 それに、あらゆる制限が課せられている「子供」の今、その庇護の中にいる安心感も、その過保護から脱出する開放感も、僕達にとって快いものだった。それは、高校生でなければ味わえないだろう。

 今はまだ、その自覚はないけれど、しかし、これはきっと青春というものだ。

 僕は今年の夏、一柳さんと一緒に、青春したのだ。


 九月に入ったその日、昨日までの熱気は嘘のように消えてしまった。まるで「夏は八月まで。九月からは秋なんだ」と神が取り決めたかのように冷え込んでいる。

 おっと、神だなんて、僕らしくもない。

 九月の冷気に震えた身を抱きながら、僕は自分の考えを笑った。

 僕は神など信じない。オカルトなんて、信じない。何故なら僕は探偵だ。この世界の謎を推理によって解き明かすのだ。

「それにしても、寒いな」

 半袖で登校したのは失敗だった。今朝、玄関のドアを開けた時に嫌な予感はしていた。しかし、日が昇れば気温も上がるだろう、なんて考え、そのまま出てしまったのだ。

 けれど結局、一日中分厚い雲が空を覆って、気温は上がらないままだった。結果、僕は寒さに震えている。自分の予感を信じれば良かった。

 全く、夏休み最終日には「まだこんなに暑いのに、学校なんて行っていられるか」なんて考えていたのに、今日は「これから寒い日が続くなんて、学校に行きたくないな」と考えている。自分の調子の良さに思わず苦笑した。

 ……夏休みが終了してからほんの数日。

 随分と久々の登校であるはずなのに、身体はきちんと覚えているようで、一度授業が始まってしまえば自然と学校生活に順応してしまう自分がいた。

 それでも、長期休暇というものは魅力的で、名残惜しく、授業中にあの夏の香りを思い出しては、まだ微かに聞こえる蝉の声に思いを馳せてしまう。

 高校生活初めての夏。この夏は、僕にとって良い思い出となった。

「やっほ、石澤くん」

 夏休みを思い出して、にやつきながら教室を出ると、一柳さんが立っていた。

「やあ、一柳さん」

 見ると、彼女は長袖のセーラーを着ていた。

「よく長袖着てきたね。昨日まで暑かったのに」

「うん。占いで見たから」

「へえ、占い」

「うん。なんと、今日の気温と天気が一時間ごとに予言されていたの。凄いでしょ」

「……それは、占いじゃないよ。観測記録をもとに、大気の挙動をシミュレートする科学技術だ」

 言って、その科学技術を確認せずに家を出たお間抜けが、自分であることに気づき、ため息を吐いた。

「一柳さん、今日も部室行くよね?」

「もちろん。丁度鍵借りて来たところ」

 彼女は部室の鍵をくるりと指で回した。

「じゃあ、行こうか」

 そのまま彼女は部室へと向かった。部室に到着し、扉を開く。久瀬高校の二階。そこが僕達文芸部の部室だ。

 その時、「そうだ」と一柳さんが思い出したように言った。

「石澤くん。遅くなったけど、文集読んだよ」

「ああ、どうだった?」

「うん。ばっちり」

「それはよかった」

 席に着きながら、返答する。

 この夏休み、怠惰に過ごしたことを否定することはできないが、しかし、全く何もしなかった、というわけでもなかった。

 僕達は文芸部。そして文芸部は夏と冬に、文集を出版しているのだ。その文集に載せる文章の執筆が、文芸部としての夏休みの課題だった。

 その課題はとうの昔に終えていて、数週間前に一柳さんに渡したのだった。

 僕は今まで文章など書いてこなかったので、執筆には苦労した。しかし書く内容は決まっていたため、筆が進まない、ということはなかった。

 その内容とは、旧・七不思議と、新・七不思議に残された意思。四十年前の事件にピリオドを打つに至った経緯だ。

 久瀬文集に全ての七不思議を載せることで、あの事件は完結する。僕達は、この高校に取り残されてしまった幽霊を解放するため、久瀬文集の執筆に取りかかった。

 そして夏休みが終わった今、いよいよ出版の時が迫っている。

「まあ、夏休みを挟んじゃうから、夏号っていうより、秋号だよね」

「うん、でも毎年この時期だったみたい。というより、文化祭に合わせて出版って感じなのかも」

「なるほど。確かに」

 久瀬高校の文化祭、通称「久瀬祭」は毎年の秋に開催される。今年の久瀬祭も開催まで二週間しかない。

 その久瀬祭で、文芸部は文集を販売していたと、バックナンバーに記載されていた。

 とにかく、久瀬祭まで時間が無い上に、ぼうっとしていると夏の気配すら消えてしまう。それでは、怪談の季節が終わってしまい、七不思議が広まらない。文集の完成を急ぐ必要がある。

 とはいえ幸か不幸か、文芸部の部員は少ないため、文集は薄くなるだろう。編集作業はそう時間が掛からないはずだ。

「というか、二人だけしかいないのに、大丈夫なのかな」

 二人だけの部員。二人だけの部誌。それを文集と呼んでもいいのだろうか。小冊子程度の厚さにしかならないと思うのだが……。

 と、思っていると

「あ、そのことなんだけど……」

 一柳さんが小さく言った。そして、少し言い辛そうに俯いた。その表情を見て、良くない想像が頭を過ぎる。

「まさか、何も書いてないとか?」

 一柳さんも文芸部員だ。当然彼女が担当しているページもある。彼女の表情からその分が完成していないのではないかと思った。しかしそれは杞憂だったようで、一柳さんはかぶりを振って、

「え? ううん。書いたよ。ちゃんと書いた」

 と言った。それで思い出した。僕は、彼女が執筆している様子をこの部室で見てきたではないか。書いてないなどあり得ない。

「そっか。じゃあ、何?」

「うん。えっとね」

 しかし、彼女はまた言葉に詰まってしまった。一体、なんだろう。書いたというのなら、何も問題は無いはずだ。

 僕は暫く、彼女の言葉を待ち、そして

「あのね!」

 彼女が意を決したように口を開いた瞬間。

「こんにちは」

 がらりと文芸部の扉が開いた。


「こんにちは」

 反射的に挨拶を返し、そして、その姿を見て、ぎょっとした。

「ここ、文芸部の部室で合ってる?」

 その女性は、部室を軽く見回した。

「あ、はい。合っていますが……」

 言いながら、少し緊張する。

 溝口加奈子。

 生徒ではなく、久瀬高校の教員だ。溝口先生は「そう」と短く言うと、部室へ入り扉を閉めた。

「座って頂戴」

 先生は椅子に座り、僕達の着席を促した。僕達は顔を見合わせながら、先生に向かい合うように席に着く。

「あなたが石澤君で、あなたが一柳さんね」

 僕達は恐る恐る頷く。

 僕達が緊張しているのは、とある理由があった。それは、溝口先生が生徒指導部の教員だからである。

 溝口先生が、校則を破った生徒に対して厳しい指導をしている様子を、僕達は何度も目にしている。溝口先生の指導は、校内でも有名なのだ。

 その溝口先生が、文芸部に来た。一体、何の用だろうか。

 恐ろしいことに、全く心当たりがない、というわけでもないのだ。僕達は夏休み中、いくつかの校則を破っている。夜中の肝試しは勿論、生徒のみでのカラオケ、ゲームセンター。その他諸々。それらの不良行為が露見して、指導が入るのだろうか、と恐怖した。

 隣で一柳さんが小さく喉を鳴らした音が聞こえた。

 と。

「そんなに緊張しないで」

 溝口先生は薄い唇を小さく動かし、笑顔を作った。

「別に、貴方達を叱りに来たわけじゃないの」

「え? そうなんですか?」

「ええ。……それとも、何か心当たりがあるのかしら?」

「い、いえ!」

 思わず声が裏返った。それを聞いて一柳さんが小さく笑った。

「……えっと、それでは一体、どういった要件で?」

 お叱りを受ける行為は幾つか思い当たるが、しかし褒められるような行為は何もしていない。生徒指導の教員が一体何の用であろうか。

 考えを巡らせていると、溝口先生は柔らかく言った。

「貴方達の活躍は、職員室で少し話題になっているの」

「僕達の活躍、ですか?」

「ええ。四十年前の、『やつねさん』の事件」

「え、ああ」

 今まさに、文集に記そうとしている事件。僕達が夏休みの前に解いた事件。確かに、あの事件を解決に導いたことは、僕の中で確かな自信と誇りになっている。

 そして、あの時に居合わせた稲垣先生は、明朗な先生だ。彼女が職員室で話題に出しても、不思議ではない。

「えっと、その件で何か?」

「いいえ。直接は関係ないのだけど……。石澤君。そして一柳さん。貴方達は、この久瀬高校で起こる様々な謎を追っているのよね?」

「ええ、まあ」

 僕と一柳さんは顔を見合わせ、ぎこちなく頷いた。別に僕と彼女は協力しながら事件を追っているわけではないのだが、しいて説明する必要もないだろう。

 溝口先生は続けた。

「貴方達の活躍は、目を見張るものがあります。観察力、推理力。そしてなにより、謎を解くまで諦めないその不屈の心。私はその姿勢を評価します」

「……はあ。ありがとうございます。えっと……」

 一体、先生は何を言いたいのだろう。評価されたことは嬉しいが、まさか、褒めるために文芸部まで足を運んだわけでもあるまい。

「そうね。そろそろ本題に行こうかしら」

 僕達の困惑を察したようにそう言って、溝口先生は持っていた手提げの中から一台のノートパソコンを取り出した。

そして、姿勢を正し、僕達を真っ直ぐ見つめた。

「貴方達の力を見込んで、お願いがあります」

「へ?」

 突然のことに、戸惑ってしまった。事態を理解できない僕達を見て、溝口先生は、小さく笑って、言い換えた。

「つまり、私は依頼人です。貴方達に、解いて欲しい謎があるの」


「依頼、ですか?」

「ええ」

 今まで、生徒から依頼を受けることはあったが、先生から直接受けることは初めてだ。

 それにしても、溝口先生は生徒指導の教員だ。恐らく先生の言う「謎」はそれに関係したものだろうが……。

「まずは、これを見て。言葉で説明するより、早いと思うから」

 そう言うと、先生はノートパソコンを起動した。そして

「……これは」

 僕が呟くと、先生は小さく頷いた。

「ええ。貴方達もよく知っているでしょう? U Tubeよ」

 U Tubeとは、有名な動画配信サイトである。アカウントの登録さえ済ませば、誰であっても動画を投稿することが可能なのだ。

 それ故、U Tubeに投稿される動画は多岐に亘る。携帯端末のカメラ機能で撮影した簡単なものから、専用の撮影機具を用いて編集も行ったもの。更に実写だけでなく、自作の楽曲やアニメーションを投稿している人もいる。

 U Tubeはもはや、老若男女、全ての人間が楽しむことができる動画サイトなのだ。

 当然、僕も利用したことがある、どころか、暇な時間さえあれば見ている。夏休みの大半の時間はU Tubeに吸われたと言っても過言ではない。それは僕だけでなく、多くの人間がそうだろう。U Tubeにはどんな動画だってあるのだ。全ての人が求める動画が、そこにある。暇つぶしには最適なのだ。

「それで、U Tubeが、どうかしたんですか?」

 言うまでも無く、U Tubeは娯楽だ。探せば教育的な動画もあるのだろうが、大半は遊びだろう。学校で、それも教員からU Tubeを見せられるというこの状況が、些か奇妙に思える。

「貴方達に見て欲しいのは、この動画……いえ、生配信のアーカイブなの」

「はあ」

 現在、U Tubeでは動画のみならず、ライブ配信のプラットフォームとしての役割も持っている。動画と同様、アカウント登録さえすれば誰でもリアルタイムでの配信が可能なのだ。

 そして、先生はとあるアカウントを選択し、画面上に表示させた。

「ええっと……」

 僕は、画面を見て、困惑した。隣で見ている一柳さんも怪訝な表情をしている。

『はあい! こんにちは! ひなの生配信にようこそー!』

 そこには、アニメ調の可愛らしいイラストで描かれた、女の子の姿があった。

『え? 今日も可愛い? えへへ、嬉しい! ありがとー! 私もみんなのこと、大好きだよ!』

 その女の子が、やはりアニメみたいな声で、甘い言葉を口にしている。

 配信のタイトルは「ひなと甘々おうちデート」。

「……えっと、先生?」

 そもそもU Tubeを先生と眺めている、というだけで珍しいのに、そこに表示された動画は教育とはかけ離れた内容に思える。一体、何を考えてこの動画を見せているのだろうか。

「いいから。もう少しだけ見て」

 そう言うと、先生はシークバーを動かし、動画を先に進めた。すると

『じゃあ、ひなとキスしよっか。ちゅ』

「うひゃあ」

 先生のパソコンから、水気を含んだ音が流れた。何だか恥ずかしい気持ちになってしまう。

「えっと……」

 困惑している僕達を余所に、先生は冷静に言った。

「彼女の名前は柚月ひな。最近だと、彼女のようにイラストで表示される配信者も増えてきているの」

「……えっと、キャラクターの名前が柚月ひなで、声優さんが他にいるってことですか?」

「理解としては合っているけど、適切ではないわね。彼女はライブ配信者。イラストも、その中の人格も、どちらも含めて『柚月ひな』なの。どちらも欠かせない要素ってこと」

「はあ」

 本当に様々な形のコンテンツがある。そのことに少し感心した。しかし、依然として理解不能だ。先生は何を思ってこの映像を僕達に見せているのだろう。

 先生は、やはり冷静な様子で続けた。

「つまりね、石澤君。私が言いたいのは『表示されているのはキャラクターだけど、その奥には実際の人間がいる』ってことなの。彼女は今、デートと言って、ハグをしたり、キスをしたり、恋人としての行為を演じているけれど、それは『柚月ひな』本人の意思による行動ってことね。キャラクターの奥にいる、実際の人が行っていることなの」

「……まあ、そうでしょうね。AIじゃないでしょうし」

 AIに不可能ならば、実際の人間が演じるしかない。いや、演じる、という言い方も正確ではないのかもしれないが。

「そうね」と小さく頷くと、先生は僕達を見た。

「ここからが本題なの。石澤くん、一柳さん。繰り返すようだけど、『柚月ひな』の奥には、実在の人間がいるわ」

 先生は一拍置いて、言った。

「そして、その人は、久瀬高校の生徒である可能性が高いの」

「……!」

 思わず、目を見開き、そして、ノートパソコンに目を向けてしまう。

『ねえ、ねえ。ぎゅー、しよ? ん。ぎゅー。ね、キスも、キスも』

「……」

 なるほど、確かにこれは問題だ。

 溝口先生は小さくため息を吐いた。

「インターネットの発展は早いの。だから、様々なものが、その発展に対応できていない。久瀬高校の校則だってその一つ。動画配信に対する校則なんて、存在していない。実際、『柚月ひな』は何一つ校則を破っていないの。別に収益を得ているわけでもない。誰かと実際に交際しているわけでもない。そもそも『柚月ひな』の時の彼女と、『久瀬高校の生徒』の時の彼女は最早別人と言えるとも思う。……だけど、やっぱりこれは危険よ。……とても、危ない行為だと思う」

 U Tubeの動画は、誰でも視聴することができる。小学生だって見るだろうし、僕達だって見る。大人だってそうだ。勉強しろ、なんて諭してくる教師だって、家に帰ればU Tubeを見ているに違いない。

 誰だって見てしまう。そう、誰だって。

 ならば、悪い大人だって見るだろう。「柚月ひな」を、見るだろう。

「『柚月ひな』のチャンネル登録者数は、一万人を超えているの。それだけの大人数が彼女に好意を寄せている、と考えることもできるわ」

 特に、「柚月ひな」は自ら恋人を演じ、視聴者を愛している。視聴者の恋人として振る舞っている。

 その愛を現実のものだと思い込む視聴者だっているかもしれない。その愛を直接得ようとして、「柚月ひな」と接触を試みるかもしれない。

 その時に「『柚月ひな』が久瀬高校の生徒だ」と判明していたらどうだろう。「柚月ひな」の愛を得ようとしている人は、どうするだろう。

「高校が特定されていることは、とても恐ろしいことよ。大雑把な住所だってわかるし、通学経路もわかるかもしれない。学年や部活動だってわかるかも。そうなれば、本人の特定なんて簡単にできてしまう。その結果、どんなことが起こると思う?」

「……ストーカー。脅迫。誘拐。暴行」

「そうね。最悪の場合、彼女の命が脅かされかねない」

 僕は息を呑んだ。この久瀬高校で、誰かが狙われているかもしれない。その事実は僕にとって衝撃的だった。そういう類いの事件は、どこか遠い世界の話だと思っていたのだ。有名なアイドルにしか起こらないと思っていた。

 しかし、それは間違いだ。この現代社会、電子機器一つで誰でも動画を投稿できる。生放送を開始できる。誰もが有名人になれる時代なのだ。

 それは僕達にも無関係ではない。高校生だからといって……否。高校生だからこそ、悪人は僕達を狙っている……。

「先生」

 先ほどまで静かに話を聞いていた一柳さんが、先生に声を掛けた。

「何?」

「『柚月ひな』は久瀬高校の生徒の可能性が高いって言いましたよね? どうしてそれがわかったんですか?」

「そう。それが問題なの」

 先生は少し顔を顰めた。

「……実はね、少し前にメールが届いたの」

「メールですか?」

「ええ。差出人は不明。内容は、柚月ひなチャンネルのURLと共に『柚月ひなは、久瀬高校の生徒ですよね?』の文章のみ」

「……」

 思わず、息を呑む。

「それだけ、ですか?」

「ええ。差出人の意図は不明。脅迫か、生徒の安全を思っての報告か、その真意はわからない。根拠も書いていないから、正直、『柚月ひな』が久瀬高校の生徒である証拠もない。勘違いやイタズラの可能性もあるでしょうね。でも、だけど、もし本当に『柚月ひな』がうちの生徒だったら? そして、差出人が悪人だったら? ……いいえ。それだけじゃないわ。もし動画内に彼女がうちの生徒である証拠があるのなら、差出人以外がその事実に気づく可能性だってある。最悪の場合、インターネット上に個人情報が拡散されるでしょう」

 そうだ。差出人が誰かはわからない。しかしその人物は『柚月ひな』の動画を見て気づいたはずなのだ。そして『柚月ひな』の動画は誰でも見ることができる。他の視聴者が気づく可能性だって大いにある。

「そこで、貴方達に依頼したいの」

 そう言うと、先生はノートパソコンを閉じ、姿勢を正した。

「さっきも言ったけど、『柚月ひな』が久瀬高校の生徒である確証はない。だけど、真実である可能性も否定できない。だから調査してほしいの。

 メールの差出人が、一体何を見て『柚月ひな』を久瀬高校の生徒だと思ったのか。

 そして、久瀬高校の生徒だった場合、『柚月ひな』は一体誰なのか。

 その二つを突き止めてほしいの」

 久瀬高校の全校生徒は約千五百人。その中から『柚月ひな』を探し出す。これは少々骨が折れる作業になりそうだ。

「当然、途方もない調査になると思う。それに学生の本分は勉強。もしも忙しいのなら、断ってもいいのだけど……」

 溝口先生は不安げな顔をした。普段は毅然とした態度で生徒を指導しているため、この様な表情を見るのは初めてだ。

 そして、依頼人のそんな顔を見てしまったのなら、探偵は断れない。

「先生!」

 僕は立ち上がった。そして胸を思い切り叩く。

「僕を誰だと思っているんですか? 僕は久瀬高校の探偵、石澤ですよ! どんな難事件だって、どんな不可解な謎だって、絶対に解いて見せます! 是非、お任せください!」

「……」

 先生は少し唖然として、

「ありがとう。呉々も無理はしないでね」

 優しく微笑んだ。

「はい!」

 久瀬高校の生徒が危険な目に遭う可能性がある。探偵が動く理由など、それで充分だ。絶対に、突き止めてみせよう。

「……あ、そうだ。調査のついでにお願いしたいことがあるのだけど、いいかしら?」

 溝口先生は思い出したように言った。

「なんですか?」

「もし、調査が成功して『柚月ひな』の正体を突き止めることができたなら、貴方達から注意してあげてほしいの」

「……え?」

 隣で一柳さんの声が漏れた。しかし一柳さんの困惑も当然だ。

 生徒の不良行為に対する指導は、先生の役割だ。何故僕達に頼むのだろうか。僕達のような子供に任せてしまって大丈夫なのだろうか。

「勿論、私達教師の仕事であることはわかっているわ。……でも、さっきも言ったように、彼女は校則を破っているわけではない。正当な指導ができないの。

 ……それに、趣味を大人達に見られるのって、とても恥ずかしいことでしょ? 私は、U Tube上での活動全てを否定しているわけではないの。彼女が安全に楽しむことができるのなら、私は応援したい。でも、『教師に監視されていた』なんて知ったら、それが消えない心の傷となって、彼女は配信活動を金輪際止めてしまうかもしれない。

 ……だから、彼女と同じ目線に立っている貴方達に、彼女を諭してあげて欲しいの」

「……なるほど」

「……」

 確かに、大人達に趣味をさらけ出すことは、多少の抵抗感が伴う。その趣味に対して軽蔑の目を向けられることが怖いのだ。或いは、安い理解を示されることが屈辱なのだ。彼女のあの姿は尚更だろう。

「わかりました」

 僕は深く頷いた。説得によって事件を未然に防ぐことだって、探偵の仕事だと言っても良いだろう。

「……ありがとう」

 先生は少し申し訳なさそうな顔をして、軽く礼をした。

「調査のために校内で電子機器を使うことは許可するから、部活の時間を利用して頂戴。それと、相談があれば何でも訊いて。当然だけど私達も協力するから」

「はい。お願いします」

 最後にもう一度先生は頭を下げると、席を立った。

「教師の仕事を押しつけるようなことをして、ごめんなさい。『柚月ひな』がこの学校の生徒である確証はないから、あまり深追いはしないでね。本当に、ありがとう」

「いえいえ。できる範囲で頑張ります」

 じゃあ、部活頑張って、と言って先生は部室から出て行った。僕達は席を立って、それを見送った。

「しかし、まさか先生から依頼されるなんてね」

 先生が部室を出たのち、ほっと息を吐く。興奮と緊張が混ざったような、不思議な感覚だ。きっと、この感情を一柳さんも感じているのだろう、と横に目をやった。

「……うん」

 しかし、一柳さんの声は小さい。そこからは興奮も緊張も感じ取ることができなかった。

 何か納得していないような、不満があるような、そんな声と表情だった。

 と、そこで思い至った。

 彼女は探偵でも、その助手でもない。彼女はオカルトマニア。超常現象に対する処置を考えることが好きなのだ。文芸部として一括りにされてしまったが、本来、僕と彼女が対応するべき事件は相反する。

 そして、今回の依頼は明らかに探偵側だ。そこにはオカルトの要素は一つとして存在していない。

 そのことを不満に思っているのだろう。

「まあ、大変な作業になるだろうけど、頑張ろうね」

「……ええ、そうね」

 彼女がどれだけ不満に思おうと、今回は一柳さんに協力してもらう必要がある。「柚月ひな」は女子だ。僕には気づけない事実だってあるだろう。

 しかし、自分の趣味とは正反対の調査に付き合わされるなんて、僕は彼女に少しばかり同情した。

「じゃあ、早速調査を始めようか!」

 こうして、夏休み明け初めての探偵活動が幕を上げた。

 自己顕示欲と、夢と、嫉妬の入り交じる、インターネットの世界へと、僕達は足を踏み入れる。

 ……だけど、「インターネットの世界」だなんて表現しても、別に異世界でも何でもない。ただ、現実の世界と地続きになった世界があるだけなのだ。単に世界の濃度が、ほんの少しだけ高くなっているだけだ。

 だから、この事件は決して、別世界の出来事などではない。隣の机で起こっているようなちっぽけな軋轢が、電子の海で大きな渦を作ってしまっただけに過ぎない。

 そんな、少し考えれば理解できる事実でさえ、僕は暫く気づけなかった。

 きっとそれは、僕が「探偵」なんて馬鹿馬鹿しい夢を掲げているからなのだろう。

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