◆信頼は恐れを拭い去る
「おい、いい加減、起きろ」
男の野太い声と、軽く頬をはたかれた感覚に、リリエは目を開けた。
いつの間にか、気を失っていたのだろう。
彼女は、木造の床に敷かれた薄汚い毛布の上に転がされていた。
一瞬、自身の置かれている状況が分からず混乱しかけたリリエだが、すぐに
彼女は起き上がり、自身の状態を確認した。外傷も、衣服の乱れもない。
周囲を見回してみると、灯油を使用したランプが
出入り口と思しき扉の前には、見張りであろう別の男が陣取っている。
拘束はされていないものの、逃げ出すのは無理そうだと、リリエは溜め息をついた。
「自力で立てるだろう? 『仕事場』は、こっちだ。ついてきな」
リリエに声をかけた男が、自分についてくるよう促した。
彼女は、下手に抵抗するのは得策ではないと考え、言われるがままに男の後をついていった。
――それにしても、ナタンさんが怪我をしなくて済んで、良かった……
護衛の契約を解除する、と告げた際、この世の終わりのような表情を見せていたナタンの姿を思い出して、リリエは胸が痛くなった。
――でも、ナタンさんなら、きっと私の本心を分かってくれる……
しかし、彼女が最も恐れていたのは、ナタンが傷ついたり死んでしまったりすることだった。
ナタンと初めて会った時――彼は、
ナタンの、真っすぐで誇り高い姿は、リリエにとって眩しく感じられた。
一方で、その誇り高さが、彼自身の命を危険に晒してしまう可能性を
幼い頃から、その才能により年長者に混じって魔法を学んできたリリエは、常に特別扱いされ、孤独だった。
学問自体は楽しいものだったが、同期生の中には
そんなリリエにとって、彼女を傷つけるような言葉など何ひとつ言わず、対等に接してくれるナタンは、安心して付き合える存在だ。
彼を失いたくないという思いが、リリエ自身ですら思いもよらない行動を取らせたと言えた。
薄暗く、歩く度に軋む廊下を進むと、その奥に一つの扉があった。
「新入りか? ……へぇ、女か」
「ウリヤスさんに怒られるから、手ェ出すんじゃねぇぞ。大事な商売道具なんだからな」
「分かってるって」
男が、乱暴にリリエの背中を押して、彼女を開いた扉から部屋の中に押し込んだ。
室内に窓はなく、ランプの灯りが周囲を照らし出している。
リリエが部屋の中を見回している間、二人の男は下品な笑い声を上げながら話していた。
「こいつらに、『帝都跡』から発掘してきた『
「高位の『
やがて、リリエを案内してきた男は部屋を出て行き、もう一人の男が残った。
「それじゃ、向こうに動かない『
男が、部屋の奥を指差した。
一人の若い男が、作業台代わりに置かれているのであろうテーブルに向かい、「
男に近付き、はっきりとその姿を目にしたリリエは、彼が思わぬ人物であることに気付いた。
「クルトさん……?」
リリエが声を上げると、男は顏を上げた。
「君は……リリエ・ワタツミか?!」
灰色の目を大きく見開いて驚いているのは、リリエの大学の同期生である、クルト・ユンカースだった。監禁されているのが
初めての「帝都跡」探索のとき以来の再会だ。
「あの、お久しぶりです。どうして、貴方が、こんなところに?」
「それは、僕の台詞だ。君は、腕の立つ護衛を連れていた筈ではなかったのか?」
クルトは、怪訝そうな顔でリリエを見つめた。
「たまたま別行動をしている時に、あの方たちに出くわしてしまって……」
言いながら、リリエは部屋の出入り口に陣取っている見張りの男を、ちらりと見やった。
「……僕の隊の護衛は、本国から連れてきた者たちなんだが、半数以上が予定より早く帰国してしまってね。報酬を増やすと言っても、連中は聞く耳を持たなかった。仕方なく現地で護衛を雇おうとしたら、騙されて、ここに連れてこられたという訳だ。まったく、ろくな機材もないのに無茶ばかり言われて辟易しているよ」
腹立たしそうに話すクルトを見ていたリリエは、フェリクスが「クルトと護衛の者たちの信頼関係が危ういものだと感じる」と言っていたのを思い出した。
「しかし君は、この状況で、よくもまぁ落ち着いていられるな。それとも、状況が分かっていないのか? 四六時中見張られているから、魔法を使って脱出することもできないんだぞ。呪文を詠唱しようとすれば、邪魔が入るだろうからな」
人間が「
当然、邪魔が入るなどして呪文の詠唱が完全に行われなければ魔法は発動しない。
たとえ殺傷力を持つ呪文を知っていても、呪文の詠唱に、ある程度の時間を要する以上、「戦士型の
「……『雇い主』の名前だけは聞き出せたので、それを手掛かりに、ナタンさんたちが助けに来てくれると思います」
リリエは、見張りの男には聞こえないよう、クルトの耳元で囁いた。
「随分と、彼らを信用しているんだな」
「はい」
小声で言ったクルトに、リリエは微笑みながら答えた。
「……それにしても、少し見ない間に感じが変わったな」
クルトの言葉に、リリエは首を傾げた。
「そうでしょうか?」
「以前は、いつも何だかオドオドしているというか、見ていて苛々するところがあったが、今は別人のようじゃあないか。僕よりも成績上位者だったのだから、そういう風に常に堂々としているべきだ」
言って、クルトはフンと鼻を鳴らした。
変わったと言われても自覚はなかったものの、もし、そう見えるのであれば、きっとナタンと一緒に過ごすようになった為なのだろう――リリエは、目を伏せてナタンの姿を思い浮かべた。
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