第6話

「む」

蒼馬は玄関のドアを開けてすぐに、嗅覚に全神経を集中させた。


甘辛いタレの匂いだった。

そこにほのかに混じる、食欲を刺激する肉の焼ける匂い。

甘い脂のにおいは感じないから、鶏か豚。


蒼馬は期待に胸を膨らませて、リビングのドアを開ける。

「ただいま! 今日は鶏の照り焼きか?」

「うわっ! びっくりしたぁ」

蒼馬がリビングの玄関を開けると、キッチンからおかずを運ぶアサの姿があった。


「ほんとに言ってた時間ぴったりに帰ってきたよ。キモ」

「ひどくないか? 頑張って終わらせてきたのに」

蒼馬はやれやれ、とオーバーなリアクションで肩をすくめてみせた。


蒼馬とアサの同居が始まって、ひと月経っていた。明日か明後日には梅雨明けらしく、夏がすぐそこまで迫る季節になっている。


「汚いから、先に手を洗ってくれないかな」

「アサ、お前一ヶ月で随分辛辣になってない? 一応俺、超人気若手俳優なんだよ?」


蒼馬はそう言いつつも、アサが遠慮なく発言することが嬉しくもあった。

鼻歌交じりに洗面台に向かい、手を洗う。

歯ブラシが二本、視界に入り、一層鼻歌はご機嫌になった。


「洗った~」

「ん」

アサが茶碗によそった米を、蒼馬はまじまじと見つめる。


アサと暮らすようになってから、開店休業状態だった炊飯器が復活した。

ほとんど弁当か宅配ですませていた自分には無用の長物かと思っていたが、こうして使う日がくるとは。


食卓には、所狭しと料理が並べられていた。

実際は品数が多いわけでも量が多いわけでもなく、一人用の食卓に無理やり二人分の料理が並んでいるからそう見えるだけなのだが。


蒼馬はアサと向かい合って座り、両手を合わせる。

「いただきます」

「どーぞ」


蒼馬は鶏の照り焼きを一度白米の上でバウンドさせてから、かぶりつく。

家に入ったときに感じた甘辛い香りは、こいつからしていたらしい。


「帰ってきてすぐに何のおかずか当てるから、びっくりした」

「顔だけじゃなく、鼻もいいんだ」

蒼馬は、ふふん、と鼻の穴をふくらませる。

あまりのドヤ顔っぷりに、アサは「ケッ」と鼻で笑う。


「しかしアサはすごいな、レパートリーが豊富で。夕飯が何か考えながら帰ってくるのが、楽しいよ」

アサは照り焼きの下敷きになっていたレタスを、モソモソと口に突っ込みながら「別に」と答える。


「今どきネット見れば、これくらいできる」

 耳の後ろをポリポリとかきながら、アサは素っ気なく言った。


「あれ、うちにはパソコンはないぞ?」

首をかしげる蒼馬に、アサはキッチンに置き去りにされていたスマホを指さしてみせた。


「スマホって知ってる?」

「知ってる!」

「汚い。口から見えてる」

蒼馬はすぐに手で口を覆う。


「そうだ、うちの無線のパスワード教えなきゃな。いつまでもギガを使うのは勿体ないだろ」

「今さら教えてもらわなくても大丈夫」

首を縦に振らないアサに、蒼馬はため息をついた。


「遠慮することはないと、いつも言ってるだろ?共に暮らす親子なんだから」

「遠慮してないし、そのちょこちょこ出してくる父親面なに」

みそ汁をすすりながら冷めた目を向けるアサに、蒼馬は呆れたように視線を斜め上に向けた。


「まったく。俺がやってやろう」

蒼馬は箸を置いて立ち上がると、キッチンへ向かい、アサのスマホを手に取る。


ケースに入っていない、むき出しの状態だった。

少し古い型で、画面の右端には、わずかに稲妻のような亀裂が走っている。

電源ボタンを押すと、初期設定のままの壁紙が出迎え、パスワード入力なしでホーム画面へと蒼馬を導いた。


「不用心だな。パスワードは設定しておいた方がいいぞ」

「別に。キャリア契約もしてないから、オモチャみたいなもんだし」

アサはちらりと蒼馬を一瞥すると、小ばかにするように「右上」とだけつぶやく。


「右上?」

蒼馬は亀裂の入った液晶を注視する。


「あっ!」


アサは蒼馬の様子を見て、いたずらっ子のように笑った。

「おま、お前! いつの間にうちのWiFiを!」

「あはは」


現代っ子とは、なんと恐ろしいのだろうか。蒼馬はそんなことを想いながら、呆然とアサを見るしかできなかった。

一方でアサは、ずっと仕込んでいたドッキリが成功したような晴れやかな顔で、楽しそうに米を食べていた。


「恐ろしいやつめ」

そう言いながらも、どこか嬉しそうに蒼馬は食卓に戻った。

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