第29話 探偵道具ではなく

 長い1本の糸だと思っていたものが、短い糸を大量につなぎ合わせてできたものだった。

 

 その糸の存在を見落としていたから、密室殺人が出来上がったのだ。


 暑さでのりが溶けて糸が分解されて……


 その分解された糸が一直線に並んでいたら、さすがに不審に思われる。だけれど……今回の事件でそうはならなかった。


 分解された糸はゴミとして扱われた。


 その理由は……


 


 だから糸がいろんな場所に撒き散らされて、結果として捜査が混乱することになったのだ。


 警官に証拠隠滅とか言われたのも納得できてしまう。


 朝のワイドショーの言葉が脳裏に蘇る。


 私がもっと冷静になっていれば……ここまで事件が面倒になることはなかったのに……


「ご、ごめんなさい……」泣かないと決めていたのに、もう泣きそうだ。「わ、私のせいで……」

「……? なんの話だ?」

「私が……私が証拠を壊したんですよね……」


 窓ガラスを割って教室に入って……そしてバラバラになった糸を踏み潰した。結果として1本の糸だったものがそこら中にばらまかれ、犯人のトリック成立に協力してしまった。


「私があそこで、冷静になっていれば……」


 ねこ先輩に忠告されたじゃないか。振り返るなと。現場を見ないように配慮してもらったじゃないか。


 その忠告を無視して振り返った挙げ句、現場を荒らした。窓ガラスを割って土足で踏み込んで……証拠をメチャクチャにしてしまった。


 私さえ冷静だったのなら……


「なにを言っている」ねこ先輩は言う。「キミが見たのは、親友だったのだろう? 大切な相手だったのだろう? なら救命活動をするのは当然だ。1秒でも早く駆けつけて、助けたくなる気持ちはわかる」

「でも……」

「キミの行動は間違っていない。たしかに現場の保護は重要だが……最優先は人命救助であるべきだ。少しでも助かる可能性があるのなら、救助を試みるべきなんだ」


 少しでも助かる可能性は……なかったのだろう。ねこ先輩は一瞬で美築みつきが助からないことは悟っていたのだろう。


 私にはわからなかった。


「僕もどうかしていたよ。あの現場を見て……まず現場の保護を考えてしまった。最初にやるべきは救護活動だというのに……」いや……正しかったのは先輩のほうだ。「いつも思っていたよ。物語上の探偵が持ち歩くべきは探偵道具ではなく、救護道具だと」


 それは私も思っていた。


 探偵が止血道具やらAEDやらを持ち歩いていたら、助けられた命はあるだろうに。


「まず人を助けようとすること……それが最優先だ。今回の件で、キミに学ばせてもらった」

「そんな、ことは……」


 学ばせてもらったのはこっちだ。

 ねこ先輩の冷静さと的確な指示。それらの言葉がパニック状態の私をどれだけ冷静にしてくれたか。


 緊急事態であるほど冷静であるべきなのだ。ねこ先輩のように。


 私にはそれができなかった。私は冷静じゃなかった。


 どれだけねこ先輩が慰めてくれても、その事実に変わりはなかった。

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