おいで、おいで

生田英作

おいで、おいで

 私が、あの絵を見たのは、もう三十年も前になるでしょうか。

 実家を建て替える少し前でしたからちょうどそれくらいになると思います。

 その当時、実家は築百年近い古い日本家屋で、離れにあった南向きの六畳間を祖父が書斎として使っていました。

 畳の上に敷かれた絨毯の上に文机を置いて、周囲の至る所にアンティークの古いタイプライターや手回し計算機などが所狭しと並べられた祖父の書斎は、幼い私にとって珍しい物がたくさんある楽しい場所でした。

 私は祖父に取って初めての孫でしたので、祖父は私をとてもかわいがってくれました。

 古いダイヤル式の電話機とお弁当箱ほどもある昔の携帯電話機を使って二人で出前の注文ごっこをしたり、ぜんまい式のブリキのロボットを競争させたり、古い顕微鏡を使って庭の木の葉を観察したり……あまり女の子っぽい物に興味の無かった私は、幼稚園の他の女の子たちと遊ぶよりそうして祖父と遊ぶ方が好きでした。

 あの絵を初めて見たのは、私がちょうど五歳になった春の事でした。

 その時のことを今でもよく覚えています。

 私が書斎で一人で遊んでいると祖父が大きな包みを抱えていそいそと帰って来ました。

 祖父が大きな荷物を抱えて帰って来る時は、何か面白いアンティークが手に入った時ですので、私はワクワクしながら祖父が包みを解くのを見ていました。

 そして──祖父が厳かに取り出して部屋の隅に掛けたのがあの絵でした。

 立派な額縁に入られた女の人の絵。

 なんと言う事のないありきたりな題材ですが、その絵に描かれた女の人が何とも不気味でした。

 青白いうりざね顔に一重瞼の伏し目がちの瞳。

 真っ黒な髪は長い髪を後ろで緩く結っているのか、おくれ毛がはらりと濃い紫の着物の肩に垂れさがっていて、俯き加減の顔はどこを見るでもなく、視線が手前の方に向けられているようでした。

 ですが、なによりこの絵が不思議だったのが、その女の人は絵の中央ではなく、見ている私から見て絵の左隅に寄せて描かれていることでした。そして、女の人の背後には、奇妙なほどに薄暗い畳敷きの部屋が不思議なほどのリアリティで描かれており……。 

 なんというか──

 そうなのです、女の人の青白い顔と存在感が絵の中から浮き上がって見えてくるのです。

 何かを訴えかけて来るかのような奇妙なほどのリアリティ。

 まるで、今にも俯いた顔がゆっくりと動いてこちらを見るのではないか。

 この女の人は、実は絵ではないのではないか。

 そう、それは絵と言うよりもまるで空中に窓が出来たような、言いようのない不気味さを幼い私は感じたのでした。


「おじいちゃん……」


 私の浮かない顔を見て祖父は、「カナちゃんには、まだ早いかな」とにっこりと微笑みました。私は、祖父がそう言うので、自分ももう少しお姉さんになれば、この絵が怖くなくなるのかな、とその時は一応納得しました。

 ですが……。

 その日からでした。

 私は、書斎に入るたびに強い視線を感じるようになったのです。

 部屋に入った途端に感じる肌をじりじりと焦がすようなむず痒い視線の感触。

 祖父と一緒にいるときは、それほどでもないのですが、一人でいる時、そう、それも特に夕方や夜により強く感じました。

 思わず背筋がぞくりと寒くなるほどの強い視線。

 最初は、気のせいかと思いました。

 ですが、はっきりと感じるのです。

 夕方、西向きの窓が夕焼けで真っ赤に染まり、部屋の中が薄っすらと暗くなり始めた頃。

 しーん、と不自然なほどに静まり返った書斎の中で、じわじわと背中に広がって来る冷たい感触。

 うなじや頭の後ろの辺りを明らかに誰かが見ています。

 私は、強い視線を感じ始めると縁側の向こうに見える庭やその先の生垣越しに見える隣家、真っ赤に染まった窓や押し入れ、背後の柱に掛けられた古時計を見たりしました。

 でも、無駄でした。

 最初からはっきりと分かっていたのです。

 そうです、視線を感じるのは、



 あの絵からでした。

 


 そう。



 あの女の人が絵の中から見ている。



 もちろん絵の中の女の人が動いたりしたということではありません。

 いつ見ても絵の中の女の人は最初に見たのと同じ、どこを見ているのか分からない俯いた姿勢のままです。

 でも、それでも──

 祖父の文机に向かって絵を描いているとき、

 お気に入りのブリキのロボットで遊んでいるとき、

 側面にお洒落な唐草模様が描かれた古いタイプライターを見つめているとき、

 感じるのです。

 あの絵のある位置からの強い視線を。

 でも、それでもまだその時は、私はなんだかんだと言いつつも祖父の書斎で遊ぶのを止めようとは思いませんでした。

 何より、何とも知れない絵に大好きな祖父の書斎から追い出されるのは、なんだか負けたような気がしてとても癪だったのです。ですから、私は「気持ち悪いな」とは思いつつも絵の中の女の人を極力無視してそれまで通り祖父の書斎で遊んでいました。

 ですが……そう、あれは梅雨に入って最初の日曜日でした。

 その年の梅雨は、梅雨入りしてからの方がそれまでより天気が良くて、その日もよく晴れていました。

 私は、いつも通り祖父の書斎でアンティークの時計やロボット、ミニカーを並べて一人で遊んでいました。

 日曜日は方々で骨董市が開かれるので、祖父は留守にしていることが多かったのです。

 その日も祖父は朝から隣の市で開かれている骨董市に出かけていました。

 いつも通りの日曜日でした。

 ある一点を除いては。

 そうです。



 …………



 書斎に入った瞬間でした。

 その日は、絵の中の女の人がいつもと違うように感じました。

 何がどう違うのか──

 当時の私には、はっきりとは言葉にすることは難しかったのですが、いま思い返してみると、その日の視線はいつもと違って何かはっきりとした「意図」や「意思」のような物を感じたのです。


「…………」


 絡みつくような強い視線。

 異様な雰囲気でした。

 嫌だな、気持ち悪いな……と、その日はいつもよりはっきりと感じたことを覚えています。

 でも、かと言って別の場所で遊ぶのも気が進みません。この書斎は私のお気に入りの場所なのです。仕方が無いので、私はこわい気持ちを紛らわせるように出来るだけ大きな声で歌を歌いながら遊び始めました。


 そして──


 その日の夕方でした。

 いつも通り夕日が西向きの窓を真っ赤に染めて、部屋の中に濃い陰影を映し始めた頃です。


(……あれ?)


 ふと我に返った瞬間、ずん、と全身を包み込むようなそれまでにない強い視線と気配を感じました。

 凍てつく様な沈黙と肌で直に感じる何かの強い気配。

 そして、

 その次の瞬間、


(───っ!)


 私は自分の目を疑いました。

 はっきりとその瞬間を見た訳ではありません。

 ですが、確かに。

 そう、確かに目の端に見たのです。

 私が、いつものように視線を感じて何気なくあの絵を見たその瞬間──

 絵の中の女の人が慌てて目を逸らして俯いたのを。


「……………………」


 背中に氷水をぶっ掛けられたかのような、身の毛もよだつ戦慄に私は凍り付きました。

 じわじわと背中から二の腕に掛けて広がって来る冷たい感触。


(…………)


 私は声も無く、震えることさえ出来ずにあの絵をじっと見つめていました。

 部屋に満ちる異様な空気。

 ですが、目の前にあるのは取り澄ましたかのようにいつも通りの「あの絵」でした。

 でも、今日は明らかにいつもと違います。

 私は、怯えつつもなんとか確認しようと恐る恐る絵に近付き、そーっと手を伸ばし……たのですが、どうしても怖くて直接指や掌で触って確かめるという事が出来ません。もし、手を伸ばしたその瞬間、絵の中の女の人がまた急に動き出したら──と思ったらそれ以上手が出なかったのです。

 絵の中の女の人は、本当に動いたのか?

 はっきりとではありませんが、確かに私は見ました。

 でも、見間違いかもしれません。

 いえ、見間違いであってほしい。

 それでも……相変わらず絵からは、はっきりと強い視線を感じます。

 明らかに感じる誰かの気配。

 書斎の中が冷たい戦慄に満ちて私の体を包んでいました。

 と、その時、私は文机の近くの床に転がっていた消しゴムに気が付きました。

 使い古して小さくなってしまった祖父の消しゴム。


(これなら──)


 私は、机の傍まで行くと消しゴムを手に取り、


(えいっ)


 あの絵に向けて投げつけました。

 消しゴムは、緩い弧を描きながら飛んで行き──

 トンッ。

 トン、トントン──トン……。

 乾いた音を立てて転がって行きました。




 女の人の背後の薄暗い畳の上を。

 



 そして──

 絵の中の女の人は、ゆっくりと顔を上げると……「じーっ」と私の顔を見つめたのです。


「────────────っ!」

 




 ────この女の人は、絵じゃない!

 




 私は、書斎から転げるように飛び出すと一目散に母屋にいる母たちの元へと走りました。


「お、お母さんっ!!」


 絵の中の女の人が!

 女の人が──

 あまりにも気が動転していたせいか言葉にならなかったのですが、なんとか私の言いたいことを理解した母と祖母は、「じゃあ、一緒に行って見てみようね」と私の手を引き、書斎に向かいました。


「お母さん……おばあちゃん……」


 二人は書斎に入るとあの絵を「うーん」と言って見つめてから母の足に縋りつく私ににっこりと微笑みました。


「女の人動いてないみたいよ。暗かったから、そう見えたんじゃない?」


「平気よぉ。ほぉら、ばぁばたちと一緒に見れば……。ね、動いてないでショ?」


 二人ともそう言って私を宥めるのですが、実際に動くところを見てしまったのですから、どうしようもありません。

 そうこうしている内に、


「あら、お帰りなさい」


 祖父が帰って来ました。

 事の顛末を聞いた祖父は、じーっとあの絵を見つめていました。

 と……


「……おじいちゃん?」


 そうです。

 どうした訳か、祖父は呆けたように「じーっ」とあの絵を見つめ続けていたのです。


「……お父さん!」


 母が声を掛けるまで、随分そうしていたような気がします。

 祖父は訝し気に見つめる母と祖母にバツが悪そうに肩を竦めると私の頭を撫でて、「大丈夫だよ、あの女の人はこわい人じゃないよ」とにっこりと微笑みました。

 うううん、あの女の人は恐い人だよ……

 あの女の人は絵じゃないよ……

 だって──

 だって……


「…………………」


 そう言いたかったのですが、私はもうそれ以上言葉にする事も出来ないぐらいに怯えていました。

 そして……その日から私はついに祖父の書斎で遊ぶのを止めました。

 でも、いかに気味が悪いとは言ってもまだ祖父の書斎には未練がありました。ですから「あんな絵どっかにやっちゃえばいいのに……」と思いながら、離れの近くにある物置小屋の庇の下で絵本を読んだりして過ごすようになりました。

 そうして、

 梅雨が終わり、

 夏が来て、

 ヒグラシが鳴くようになった頃。

 私は、相変わらず物置小屋の庇の下で過ごしていました。

 祖父は最初の頃こそ、「おいで、おいで」と言って書斎から私を呼んだりしていたのですが、私があまりに頑なにあの絵を怖がるものですから、祖父の方から私を訪ねてくれるようになり、書斎は遠くから眺めるだけになりました。

 あの絵は、相変わらず部屋の隅の同じ場所に掛かっていました。

 ただ、私のいる物置小屋からだとちょうど絵の側面の部分、額縁しか見えないので多少は安心でした。

 ですが──

 あの日から一つ大きく変わったことがありました。

 祖父です。

 絵の中の女の人が動いたあの日から、祖父が魅入られたように時折、あの絵をじっと見つめていることが多くなったのです。

 雨の日の薄暗い日中も。

 何もかもが真っ赤に染まる夕暮れ時も。

 祖父は、じっとあの絵を見つめていました。

 まるで何かに取り付かれたかのように。

 祖父は、あの絵を見ていたのです。

 私のいる場所から、絵を見つめる祖父の横顔が見えました。

 生気のない虚ろな目と微かに開いた唇。


(どうしちゃったの?)


 おじいちゃん……。

 母と祖母は、そんな祖父を特に気にするでもなく「本当にあの絵が好きなのね」と顔を見合わせて笑っていました。

 どうした訳か、母と祖母には、この祖父の姿が見えていないかのようでした。

 静まり返り、薄暗い書斎の中で憑かれたように絵を見つめ続ける祖父。

 書斎そのものが異様な雰囲気に包まれていました。

 私は、物置小屋の庇の下から成すすべもなくそんな祖父とあの絵を見ているしかありませんでした。

 そうしている内に月日が経ち──

 秋になり、徐々に肌寒さを感じ始めた十一月のある日の夕方の事でした。

 その日も祖父は、やはりあの絵を見つめていました。

 微かに落ちくぼんだ虚ろな瞳。

 薄っすらと顎を覆う白い無精ひげ。

 日が徐々に陰って、離れそのものが濃い陰に覆われ始めたその時でした。

 祖父は、何を思ったのでしょう。

 ゆっくりと絵に向かって手を伸ばし始めたのです。

 虚ろな目がまっすぐにあの絵を見つめ、微かに震える指先があの絵を指さしていました。

 ゆっくり、ゆっくりと伸びていく祖父の指先。

 大きく見開いた虚ろな目は何も見ていないかのようでした。

 そして──

 次の瞬間、

 私が、膝の上の絵本へ一瞬目を落として顔を上げると──




 祖父の姿は、どこにもありませんでした。




(……おじいちゃん?)


 私が目を離したのは、本当に一瞬です。

 もう、そこに祖父の姿はなく、薄暗い、いえ、もう真っ暗といっていいほどの濃い闇に沈んだ書斎があるだけでした。


(おじいちゃん!!)


 私は、慌てて書斎へと向かいました。

 靴を脱ぎ捨てるのももどかしく縁側に這い上がり、書斎のあの絵の元へ。

 真っ暗な書斎の中で浮かび上がる絵の中の女の人。

 青白い顔に狂気をはらんだ虚ろな瞳。

 いつものあの俯いたその顔が、まっすぐに私を見つめていました。

 そして──

 額縁の中から伸びた白い掌がゆっくりと上下に動いたのです。



 おいで、おいで……



 と。


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