Angel & Trumpet ~孤独な演奏家と喋らない天使~

リン・シンウー(林 星悟)

第1話 Stray & Solo

「……天使?」


 舞い降りた真っ白な羽根を見て、私は思わず口走っていた。

「彼女」の髪も瞳も肌も、翼も全部。この世のものとは思えないくらいに綺麗だったから。


「ぴぃ?」


 その正体が天使なんかじゃなくて、「ハーピィ」と呼ばれるであると気づいたのは、雛鳥のようなさえずりを耳にして数秒後のことだった。


 ◇


 音楽の都。

 昼も夜もいつでも、どこかから誰かの演奏する音楽が聴こえてくる賑やかな街。誰もが音楽と共に生まれ、音楽と共に眠る、ここはそんな場所。

 彼らが演奏するのは、人間を襲う凶悪な魔獣を追い払う『魔法音楽』だ。

 私も詳しいわけじゃないけど、楽譜が魔法陣の役目を果たすだとかで、奏者の魔力が高く譜面に忠実な演奏であるほど、より強力な魔獣をやっつけられるらしい。


 そんな都に生まれた少女こと私、カルミアは……。


「止めて。ペット、3rd。……カルミアさん。ここのミス、何度目?」

「……すみません」


 世に言うところの、落ちこぼれというやつだった。

 またかよ。無能。下手くそ。あーあ、今日もカルミアストップだ。いい迷惑。やる気あるの。こんなお荷物抱えるとかついてないわ。

 わざわざ聞こえるように言わなくてもわかってる。私の演奏が皆様の足を引っ張ってることくらい。


「静かに。……カルミアさん、悪いけど今日の残り時間は個人練習に費やしてもらえるかしら」

「わかりました。失礼します」


 楽団長に一礼して席を立つ。背中にわざとらしい悪態が届く前に、私のいない練習が再開された。


 私、カルミアはトランペットを始めて二年目の新人演奏家。

 新人は楽団に参加して経験を積む。魔法音楽は大人数で合奏すればするほど効力が強まるから、多少腕の劣る新人たちの演奏でも十分魔獣を撃退できる。

 ただし、たった一人でも間違えれば「楽譜通り」じゃなくなる。失敗した不完全な合奏はかえって魔獣を刺激して、楽団全員を危険にさらす。


「そりゃ命まで預けらんないよな。私みたいな異物ノイズに」


 自分で口にして、わらってしまう。

 音楽の都に生まれたならば、一生音楽を愛し、演奏技術の向上に努めるべきだ。

 二年目の駆け出し演奏家とあらば、四六時中努力し続ける向上心の塊であるべきだ。


「……どうでもいい」


 音楽なんて好きじゃない。音楽の都に生まれてしまったから仕方なく演奏家の道を選ばされただけだ。

 才能なんて最初の一年で見限った。魔力もどうやら人並み以下らしい。どうすればもっと上手くなれるかも知らないし、知らないからとあれこれ調べてみる気にもなれない。

 そのくらいどうでもいい。私にとって、音楽なんてものは。

 そんな「音楽を愛さない異物」にとっては、この都は生き地獄だった。

 通りを歩けばそこかしこから聴こえてくる、才能溢れる音楽たち。寝ても覚めても鳴り止まない責め苦から、唯一逃れられる場所を最近見つけた。

 都で一番高い塔。そのてっぺんに腰掛けている間だけ、私は音楽の都から自由になれる。


「……ま、個人練しろって言われた手前、楽器は持ってきてるけど」


 母も使っていたからという理由だけで選んだ、好きでもないトランペットに口をつけ、音楽を愛する皆々様には聞くに堪えないだろう拙いメロディを吹き鳴らした、そんな時だった。

 都のどこより高い塔の、さらに上空から……「天使」が舞い降りたのは。


 ◇


「ぴぴぃ」

「……なんだよ。天使じゃないのか。私を迎えに来てくれたわけじゃ……ないのか」


 溜め息をこぼして伏せた目を、瑠璃色に煌めく瞳が覗きこんだ。


「うわっ!?」

「ぴー?」


 小首をかしげる天使……じゃなく、有翼魔獣ハーピィの少女。

 顔や体つきは人間によく似てはいるけど、両腕の先は翼になっていて、身体は羽毛で覆われ、鳥類のような脚の先には鉤爪が光っている。

 ハーピィはずる賢い知能と高い飛行能力、人間への強い敵意を持ち、おぞましい歌声で人間を弱らせ、鋭い鉤爪で肉を引き裂き喰らってしまう危険な魔獣だと聞いたことがある。


「……その危険なハーピィさんが都に侵入しちゃってるんだけど」


 魔獣は基本的に魔法音楽を、この都から聴こえる楽器の音を嫌う。空を飛べる種であっても、日夜音楽が満ちている地上にまでは降りていけない。

 つまり今このハーピィの少女が平然としていられるのは。


「私の演奏が下手なせい、か……」


 こんなか弱い見た目の魔獣一匹追い払えないとか、どれだけ下手なんだ。


「……襲うなら襲えば。どうせもう、どうでもいいかって思ってたし」


 魔獣に通じるわけのない言葉を吐いて、またトランペットを吹く。

 しばらくすると、右肩にほんのり温かい重みを感じた。見れば、ハーピィは私の肩に頭を乗せて心地良さそうな寝息を立てていた。


「すぴー……」

「寝る余裕まであんのかよ。どうせダメージ皆無のヘボ演奏ですよ」


 その事実を、不思議と屈辱とは思わなかった。

 どこで練習していても嫌そうな顔をされた。合奏の場でも居心地が悪かった。誰も私の音なんて聴きたがらなかった。

 でもこのハーピィは、私が隣で奏でることを許してくれる。

 眼下の地獄に比べたら、魔獣の隣の方がずっと気楽だ。

 この子の気が済むまで、枕くらいにはなってやろうかな。


 ◇


「……ん…………えっ、朝……?」


 爽やかな光と風。いつの間にか眠っていたらしい。

 久々によく眠れた気がする。理由は明白。空の上はとても静かだから。


「あの子は……」


「天使」は消えていた。けれどあの出会いが夢ではなかったことを、服にひっついた白い羽根が物語っていた。


「……綺麗だったな」


 あれだけ近くにいたのに、私の身体には傷ひとつない。あの子が人を脅かす危険な魔獣だなんて信じられなかった。

 もしかしたら、私たちのご先祖様が天使と名づけたのは、こんな風に空の近くで出会ったハーピィの美少女だったのかも。


「っと……いけない。合奏練習に遅刻する」


 もうずっと誰の得にもなっていない日課のために、塔を降りる準備をする。

 あの子に聴いてもらえたことで、ほんの少しだけ。私の音に前向きになれる気がしたから。


 ◇


「……カルミアさん。昨日は一体何の練習をしていたの?」


 なーんて、甘かったわ。馬鹿馬鹿しい。

 そりゃそうだ。昨日はずっと魔獣の耳に心地良い演奏を……『魔法音楽』としては何の価値もない音を鳴らしてただけだったんだから。


「すみません。今日も個人練してきます」

「誰かについてもらった方がいいと思うけれど……」


 楽団長の言葉に、皆様が一斉に嫌そうな反応をする。当然だ、彼らは音楽大好きな向上心の塊なのだ。せっかくの楽団での仕事がなんて嫌に決まってる。


「大丈夫です。別に一人でもサボりませんから」


 サボってないなら何で上手くならないんだよ、とぼやく声がする。私もそう思う。


「……わかりました。明日は……しっかりお願いね」


 今日もまた一礼して、私は逃げ出す。私を望まない人たちから。私が望みたくもなかった世界から。

 楽団やめますって言えばいいのに。たった一言ですぐ楽になれる。誰にも迷惑をかけずに済んでハッピーエンドだ。

 選べないのは怖いから。エンドロールに私の名前が載らないのはどうでもいい。その先に私の人生が無いのが怖い。どうやら音楽を諦めたら、この都では死んだも同然らしいから。

 勝手ばっか言ってくれる。いっつもうるさいんだよ、この都は。この世界は。平穏くらい選ばせろ。嫌いだ、嫌いだ、音楽なんて。


 ああ、もう何もかもどうでもいい。

 ……今日も、高い所に行きたい。


 ◇


「ぴぃっ!」

「……で、今日も来るのかよ。物好きだね」


 自暴自棄のまま登った塔の上でトランペットを吹いたら、それが合図かのようにハーピィの少女は現れた。

 正直、嬉しかった。また会いたかったから。

 朝焼け色の髪、瑠璃色の瞳、純白の翼。網膜に焦げついて消えない煌めきが、現実のものだと確かめたかったから。


「……天使でも、よかったのに」


 喧騒の街で静寂を望んだ愚か者の人生を祝福してくれるのなら。あるいは、ひと思いに終わらせてくれるのなら……天使だってよかったのに。


「ぴ?」

「何でもないよ」


 無防備なまま、バルコニーの縁に腰掛ける。「彼女」もそこが定位置みたいに、私の隣にちょこんと座った。

 人間の言葉はきっと魔獣には伝わらない。彼女が聴きに来たのは、理解できない言葉なんかじゃなくて……。


「すぅ……」


 ここでだけゆっくり吸える息。嫌いなままのトランペットに吹き込めば、才能の無い音色が蒼天に響く。……響くなよ。勝手に聴くな、空。あんたのために吹いてるんじゃない。

 何もしてくれずに見下ろすだけのあんたより、よっぽどまっすぐに私を見つめてくれる瑠璃色のために。

 ただ「一人」のために、私は。こんなくだらない音を奏でてるんだ。


 視界の隅で、リズムを取るみたいにゆらゆら揺れ動く翼。どうやら今日は寝ないで聴いてくれてるらしいことが、私は。

 何故だかとても、嬉しかった。

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