帰ってきた私の神様

冥王星の怨念

始まりと終わり

「お兄ちゃんが帰ってきた!」

 ヤリスからの突然の電話にわたしは家を飛び出しました。

 延々と降り注ぐ大粒の雨粒を傘もささずに自転車でくぐり抜けて、長い坂の上にある時雨邸に向かいます。


 ヴィッツさんが……!

 ああ、いったい何年ぶりでしょう……

 積もる話がたくさん、たくさんあるんです。

 向こうでヴィッツさんもどのように過ごしていらしたのでしょう。

 その話もわたし早く聞きたい!

 そんな逸る気持ちで時雨邸に駆け付けました。

 扉を開けるとヴィッツさんは玄関先にいました。

「ヴィッツ………さん」

 わたしは言葉を飲み込みました。

 玄関先にいたヴィッツさんはびしょ濡れで、意気消沈したかのように床に座り込んでいました。

 横に付き添うようにヤリスがいました。

「ヴィッツさんに何が!」

「………わかんない」

 いつもはなにごとにも動揺を示さないヤリスが頭を抱えるようにうつむいていました。

「何の連絡もしないでさっき帰ってきて座り込んでこのまんま」

「……そんな」


        ◇


 わたし、銀杏(いちょう)アクアは小学校1年生のときに今も住むベッドタウンにやってきました。

 両親がマイホームを買ったんです。


 小学校は、ちょっとなじめませんでした。

 コミュニケーションに苦手意識はあまりないんですが、前にいた町とはノリ、というか調子がなんだかちがってて会話がしづらかったんです。

 ヤリスとはそこで出会いました。

 わたしが転校したときにちょうど同じクラスになったのがきっかけでした。

 ヤリスは小学校の時からあまり人に興味がなく、仲良くしていそうな人があまりいる印象がなくて、グループワークか何かの時に気になったのが最初の会話だったと思います。


「時雨さんはどうしてあまり人と話さないの?」


「べつに話さないようにして話してないわけじゃないわよ」


「じゃあどうして?」


「あんまり知らない奴に自分から話しかけに行くの好きじゃないの。べつに話しかけられれば話すわ」


 それからわたしはヤリスに積極的に話しかけにいくことにしました。わたしもあまり話せる人、いませんでしたから。


「時雨さん!」


「時雨ちゃん」


「ヤリスちゃん!」


「ヤリス!」


 年々、呼び名が変わっていって今の呼び名にたどりつきました。


 それはそうとクラスメイトとあまり話してるところを見たことがないヤリスと仲良くなってから、ヤリスが話しかける人を見つけました。

 それが時雨ヤリスの5つ上のお兄さん、時雨ヴィッツさんです。

 ヤリスはいろんなものに執着がなかったですがそのうちの一つに記憶することにもあまり執着がありませんでした。

 なのでヤリスは毎日のように忘れ物をし────同じ授業を受ける身のわたしに物を借りれるはずもなく────毎日のように校舎を二回上がってヴィッツさんに物を借りていました。


 話は変わりますが、当時のわたしの家は大変でした。

 母親は18歳で、父親は26歳の時に結婚、端的にいえばデキ婚だったみたいです。

 母親は実家を追い出されて父親の暮らしていた部屋に転がり込んで、私は一人暮らし用の部屋に3人目として転がり込んだのです。幼少期の頃の記憶は今となっては朧げな記憶ですが、いまだに覚えているのは父親からの罵声と暴力、時折それを止めようとしてみたり加担したりする意味のわからない母親、壊れる家の物、そして逃げ場のない狭い部屋。こんなものです。


 父親は一応会社員だったらしく、時折隣の部屋からやってくる苦情を立場が上がる時に流石にまずいと認識したみたいで、とうとう家を買って私たち一家はこっちに引っ越してきたんです。


 2年生になって、ヤリスとクラスが別々になりましたが2年生になって時雨邸に行くようになりました。

 時雨邸に行って初めてわたしの生活はおかしいのだと気づきました。

 時雨邸の皆さんは終始笑顔というわけではありませんでしたが少なくとも、罵声、暴力はありませんでした。

 時雨邸で過ごす放課後は非常に楽しいもので、時間はすぐに過ぎていくようでした。中学生になってしまったヴィッツさんもヤリスに付き合わされるという形ではありましたがわたしたちに付き合ってくれました。

 その分、家に帰る足取りは重くなるばかりでした。


 あるとき、帰りたくなくて帰りたくなくて時雨邸で泣き出したことがありました。

 あまりにも号泣するわたしに対してヤリスは


「早く帰りなさいよ。もう暗いんだから」


 まるで遠慮がありませんでしたがヴィッツさんが


「じゃあ今日は泊まってけばいいんじゃないかな?」


 と提案してくれました。

 青天の霹靂とも言いましょうか、とにかく衝撃的でした。

 他人の家に泊まるなんて想像もしたこともなかったんです。

 ヴィッツさんはわたしの家に電話を入れてくれました。すると数分もすると時雨邸にインターホンの連打をする人が訪れました。

 わたしの父親でした。

 殴られました。

 ヴィッツさんが。

 そこから行動の否定はおろか、人格をも否定するかのような怒涛の罵詈雑言がわたしの父親から発せられました。

 ヴィッツさんは反抗しようという意思をすごく感じましたが、わたしの方を少しみておとなしく下がりました。

 泣きながらごめんねとわたしに別れ際に言ってくれました。

 それを聞いてまたわたしは号泣しました。


 わたしがヴィッツさんに対して友人のお兄さんであること以上の感情を持ち始めたのは多分ここからです。


 お兄さんはその後わたしをどうにかあの父親から離そうと尽力していましたが、それが達成される前に我が家に激震が訪れました。

 小3のころです。

 父親が不倫をしていることを母親が気づいたんです。

 わたしは不倫が何か知りませんでしたが父親が母親じゃない女性と何やら親密そうだというのには気づいていましたから、むしろ何がおかしいのかわかりませんでした。


 母親は父親が好きでした。

 好きだから結婚をしたし、好きだからわたしを産んで、一緒に生活をして、殴られたり罵声を浴びても大した問題にしてこなかったといつだか、たしか離婚する直前くらいでしたかわたしに語ってくれました。

 自分が好きな人が自分を好いていてくれているというのをいつしか行動じゃなくて結婚しているという事実だけで認識してたのかもしれないとも。


 それでも母親は父親が好きでした。

 もはや都合が悪くなった父親は自ら離婚を申し入れました。が、母親はそれを拒んだのです。

 母親と父親は裁判になりました。

 結果的に父親は離婚に成功しました。

 不倫相手ももう子供がいてわたしたちにもお金が払えたからです。

 わたしの親権は母親が持つことになりました。


 母親は荒れました。

 ものすごく。

 父親は様々なものを壊していましたがあの時の母親はそれ以上で、そんなにお金があったのか離婚調停によって母親のものとなった家は所々に穴が空いていきました。

 そしてそこからしばらく何もできなくなってほとんどのことをわたしがこなしていきました。


 学校には行っていました。

 友達は変わらずあまりいませんでしたが、母親と一緒にいるよりははるかにマシでした。

 でもそれも少しの間だけでした。


 親の離婚は小学校でも知れ渡り、わたしの家の惨状はクラスメイトのだいたいが知っていることでした。

 あるときクラスのお調子ものがわたしを揶揄う中身に両親のことを使いました。

 それ以降、さすがに小学生でもまずいと思ったのかあまり触れてこなかった話に1人が踏み込んだだけで集団でズカズカ踏み込んできました。


 そんなときでも帰りはヤリスと中学生になってもいっしょに帰らされているヴィッツさんがいました。

 それは特に何の解決にもなりませんでしたし、はたから見ても特に価値のないものだったかもしれません。

 でもわたしにとってかけがえのない記憶でした。

 しばらくするといじりは無くなりましたし、母親は落ち着きを取り戻して働くようになってくれました。


 母親はアラサーとも呼べる年になっていましたが、労働経験がなくて時折ストレスでわたしを罵倒したりしましたが、父親の暴君っぷりには達していなかったので割と大丈夫でした。


 5年生になって、変わらずクラスが違っていたヤリスとわたしは大きな駅に行ってみることにしました。

 今までわたしたちは繁華街などにはいかないで時雨邸で遊んでいましたから、その人の数に面を食らってしまいましたし、いろいろあるお店もわたしたちには手も出ないものばかりでなんだかあまり楽しくありませんでした。


 そんなとき、わたしたちに声をかけてくる人がいました。

 スカウトの方でした。


「アイドルに興味ありませんか?」


 そう言ってきたスカウトの方はあまりアイドルについて詳しくないわたしたちを偶然その日にやっていたライブに連れて行ってくれました。

 保護者としてヤリスに呼び出された高校生になったヴィッツさん同伴でしたが。


 そのアイドルの方々は地下アイドルと呼ばれるらしく、わたしが思い描くほどたくさんの人数はいませんでしたし、もっと広い場所をイメージしていましたがなんだか薄暗い地下の小さい物置みたいな場所でライブをやっていました。


 そこから家に帰ってからもそのときのことを忘れられないでいました。

 あのぼんやりとしたスポットライトに焚かれ、汗が反射した光に包まれながら笑顔で歌ってダンスをするアイドルの方々。

 キラキラした人を見たのは多分人生ではじめてで、わたしもあんな風にキラキラしたい、そう強く思いました。

 ヤリスはあまり興味を示しませんでしたし、母親はあまり興味もないのか拒絶も応援もしませんでした。


 ただ、ヴィッツさんはすごく応援してくれました。

 わたしがそのあとスカウトの方の説明を聞きに行くときもアイドルになってライブをするときもヴィッツさんはいつも来てくれました。


 ヴィッツさんはいい人です。

 きっとやさしいのはわたしにだけじゃないのだろうということ、気づいていないわけじゃありませんでした。

 ですから、ライブに同じ制服を着たきれいな女性が一緒に来たときはむしろ安心しました。なんというか、きちんと収まるところに収まってくれたというか。


 わたしにとってきっとヴィッツさんは親のような、いや神様のような、そんな存在で、わたしがズカズカと入り込んでいいものじゃない。なんだかそんな気がしましたし、そんな人がわたしに気を遣ってくれるのもなんだかそれはそれで嬉しい気分でした。



 アイドルとしての活動は大変でした。

 大変なことはたくさんありましたが、多分一番大変だったのは一緒に活動をしていたアイドルの皆さんとやっていくことだったと思います。

 ほかの人たちはわたしより年が上でしたが、学校に通っていなかったり、わたしよりもおしゃべりがあまり得意でなかったり、荒れていた時の母親のように毎日なにかしらに当たっていたり、いろんな人がいました。

 半年ぐらいたったあるとき、そのうちの三人くらいが喧嘩になりました。

 その喧嘩はステージの前の時間に行われて、小さい箱でしたからその苛烈な怒号が観客の皆さんにも聞こえてしまったんでしょう。そこまで多いわけでもないお客さんたちはその大多数が帰って行ってしまいました。

 わたしは、そんな光景をみてキラキラ輝きたいという目的をなぜか不意に思い出して、たぶん無理なんだと悟りました。


 そのことを考えていたらなんだか幼少期の朧げな記憶によく泣きそうになるのを殴られるのでこらえていたことを思い出しました。



 その後、アイドルとしての活動からは足を洗って、わたしとヤリスはなんとか無事に成長していき中学生に、ヴィッツさんは大学生になっていました。


 わたしとヤリスは変わらず友達で、やっぱり友達はどっちもあまりいませんでした。

 大学生になったヴィッツさんはというと、わたしたちの慣れ親しんでいる県の隣に位置する大学に進学しました。それに伴ってヴィッツさんは引っ越していきました。

 時雨邸からその大学まで二時間三十分もかかるそうなんです。


 見送りのとき、ヴィッツさんは


「お盆とお正月は絶対帰ってくるよ」


 と言ってくれました。

 確かに最初の年と2年目は帰ってきましたが、その後は何か用事があったようで、会えない間にわたしとヤリスは高校生になっていました。


        ◇


 この辺に高校は一つしかなく、変わらずわたしとヤリスは同じ学校に登校していました。


 そして今日、久しぶりにヴィッツさんに出会ったのです。

 結局しゃべることはできませんでしたが。

 わたしは一度家に戻り、時雨邸に泊まれるような準備をして時雨邸に帰ってきました。


 少し夜も更けてきたころ、時雨邸のリビングでわたしたちは座って話していました。


「ヴィッツさん今はどう?」


「あいつの部屋に運んで寝かせた」


 ヤリスは少し落ち着いたのか、いつものぶっきらぼうさが戻ってきました。


 時雨邸もそんなに大きな家ではありませんが、ヤリスの熱い反対によってヴィッツさんの部屋の解体は行われずにいました。

 こんな形で使うようになるとは思っていませんでしたが。


「あいつ、会社をやめたっぽい」


 おもむろにそう言いました。


「ヴィッツさん就職してたんだね」


「みたい」


 わたしたちは何も帰ってこないヴィッツさんを行儀よく待っていたわけではありません。

 どこと賃貸契約したかなんてこっちにも書類があるに決まっているんですから。押しかけました。

 ですがそこはもぬけの殻で、いつのまにかヴィッツさんはどこかに行っていました。

 大学の費用は落とされていて留年の通告書なども届きませんでしたから、大学に通っていることだけはわたしたちはわかっていました。

 なのでわたしたちは大学で聞き込みや待ち伏せを敢行です。

 なぜだか成果はありませんでした。


 その日の夜、なんだか眠れず起き上がってヤリスの部屋から出るとよろめいて歩こうとしているヴィッツさんがいました。


「ヴィッツさん……」


 わたしはヴィッツさんの歩行の助けに入りました。


「!」


 ヴィッツさんは驚いたような表情をしていました。


「ア……クアちゃん」


「……お久しぶりです、ヴィッツさん」


 わたしは成る丈、笑顔で挨拶をしました。


「久しぶり……!」


 なんだか少し声色が上がったような、カラ元気のような虚しさがあるような響きのある返事でした。


「ごめんね、こんなこと手伝わせちゃって」


「いいんですよ、わたしはヴィッツさんの手助けなんてなんだってやりますよ」


 いままでさんざん助けてもらいましたから。


 どうやらヴィッツさんはおトイレに行きたかったようです。

 トイレに入りゆくヴィッツさんを眺めているうちにわたしは前とヴィッツさんを見る目が違うことに気づきました。

 前は畏怖とも尊敬ともいうべき、それこそわたしにとって神様も同然の存在でした。

 でも今は哀れみとも同情とも呼べるような目であの人を見ています。


 そのあとヴィッツさんをわたしはお部屋へと連れて行きました。

 ヴィッツさんはなにもいわずに自身のベッドへ入っていき、わたしは眠っていくのを眺めていました。


 実家の自室の自身のベッドだというのに身を縮こませて眠りについていくヴィッツさんはわたしには小動物かのように今は見えています。






この人を私のものにしたい。




 そう思ってから私は、もしかしたら生まれて初めて、心の底からの憎しみを感じ取った。


 何にだろう。


 この人をこんな目に合わせた奴だ。


 机に置かれていたヴィッツさんの携帯を開き、メッセージツールを開くと犯人がわざわざメッセージを送ってくれていた。




 もう一度会ってはなそ?




 そのメッセージとともにこの町の駅前にある価値のないオブジェの写真があった。


        ◇


 深夜の駅前は一人を除いて誰も人がいなく、昼間に比べ冷え限りなく光が少なく、人を突き刺しそうな空気が漂っていた。


「あなただれ?」


 それが敵の第一声だった。

 フィルターを何層にもかけて喉から出したような気色の悪い甘ったるい作り声が不快だった。


「私がだれであるかは特に意味はありません」


 大事なのはお前が犯人なのかどうかだ。


「お前、ヴィッツさんのなんだ」


「何ってうち、ヴィッツの彼女だけど。てかあんた、初対面の人のことをお前呼ばわりって育ち悪すぎでしょ」


 彼女!

 ああ、見たことがある!こいつは私がライブをやっていた時に一緒に来ていた女だ。


 まだかかわりを持っていたのか。


「なんでお前はこの町に来た」


「ヴィッツを取り返しに来たの、あれここに逃げてきているんだってのわかってるんだから。あ、あんたヴィッツからなにか伝言頼まれて来たの?」


 ああ、やはり。

 もうこの女とかわす言葉はない。


 私は10m先にいる女目掛けて駆けていく。

 懐から出したバールを手にもって女に殴り掛かる。


「!」


 バールは女の取り出した出刃包丁によって防がれた。

 後ろに飛んで距離を取る。


 殴り掛かるスキをうかがっていると女はもう一本出刃包丁を持ち出し、出刃包丁の二刀流になった。


 女は山姥がごとく出刃包丁の二刀流のまま奇声を上げてこちらに向かってきた。


「きああああああああ!!!!」


 振り下ろされてくる2本の包丁をバールで受け止める。

 が、その女の腕力の賜物か、私はそのまま押し負けて包丁が少し右腕に刺さっていく。


 それをやはり私は後ろに飛ぶことでかろうじて逃げた。


 地べたに這いつくような姿勢になっている私はその辺にあった石を女に投げ、一気に女の後ろに回って一発かました。


「うらあああああああ!!!!!!!」


 私は右腕の痛みなんて忘れてバールを両手で握り、全力で女を何回も何回も殴った。

 その回数だけ鈍い音が静かな静かな駅前に響いていった。


 ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!


 私は殴るのにいつのまにか夢中になっていた。

 だから私のおなかがもうすでに赤いことに気づくのは殴るのに少し飽きてからだった。


        ◇


        ◇


 わたしの町の駅前で死体が二人転がっていたらしい。


 数年前、兄がこの家を出て行ったときから、わたしは兄がどうしたらこの家から出なくなってくれるか、それだけを考えていた。


 当然、わたしはその後の足跡を知っていた。

 兄は大学3年になってから向こうで就職したらしいあの女の家に住まわされていたこと。

 兄が就職で内定を取った会社が死ぬほどブラックであのへたれならすぐに逃げ出すこと。


 これだけだったらもっと簡単にことはうまく運べたが正直もっとめんどくさいのがいた。

 わたしに小学校からずっと引っ付いているクソ女だ。

 ずっとわたしに、兄にも引っ付いてきて、ときおり兄にこびへつらっていたあの女。

 あの女は兄がへたれだとわかった瞬間、絶対兄を自分のものにしようとする。


 メンヘラ同士を殴り合わせる案を思いついたとき正直わたしは快感を感じた。

 もう兄は誰にも渡さない。

 ヴィッツはわたしのものだ。

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