弁道話

 諸仏、如来は、共に、妙なる法を単一に伝えて無上普遍正覚を証している。

 無上普遍正覚を証するには、最上の無為の妙なる術が有る。

 最上の無為の妙なる術とは、ただ仏だけが仏だけに授けてよこしまである事が無い、自受用三昧という標準である。

 この自受用三昧で遊戯するには、正しく坐禅して禅に参入する事が正門である。

 この法は、人々の分け前である才能に豊かに備わっている、といえども、未だ修行していない時には表れず、証していない時には得る事が無い。

 それは、放てば手に満ち、唯一や多数という「きわ」、「さかい」を超越している。

 語ればくちに満ち、縦横無尽である。

 諸仏は常に、この中に住んで保持しているが、各方面に知覚できる物を残さない。

 全ての生者は永久に、この中で使用しているが、各々の知覚に側面として表れない。

 今、教えている鍛錬して道をわきまえる事は、証の上に「万法」、「全てのもの」を存在させ、解脱への活路として唯一普遍絶対の真理を行わせる。

 その関を超えて古いものを脱ぎ落とす時、この節目に関わらないか? いや! 関わる!

 私、道元は悟りを求める事を思い立って心して法を求めた時から今まで、我が国、日本の遍く方々ほうぼうに知識をたずねた。

 その際に、建仁寺の「明全」公にまみえた。

 従い、秋のしもから春の華までの年間は、速やかに、九年間を経た。

 わずかに臨済の家風を聞いた。

 「明全」公は祖師「栄西」和尚の高弟として独り無上の仏法を正しく伝えている。

 我々が「明全」公に並ぶ事は全くできない。

 私、道元は、重ねて、宋の時代の中国におもむき、両浙で善知識を持つ人々を訪ね、「法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗」という「五門」の家風を聞いた。

 ついに大白峰の五十祖の如浄の所に行って、一生を賭けて学に参入する大事が、ここに終わった。

 それより後、中国の宋の「紹定」時代の初め千二百二十八年頃に故郷に帰り、なお重い負担を肩に置いている様に、法をひろめて全ての生者を救う事を思いとしている。

 そうではあるが、激しく揚げられる時を待つために、仏教をひろめ通じさせる心を置いておき、しばらく雲の様にただよい浮草の様に立ち寄って、まさに先人の賢人の様に家風を聞かせようとしている。

 ただし、自ら名声や利益には関わらず、仏道を念じ求める心を優先させる学への真実の参入者がいるであろうか?

 学への真実の参入者がいたとしても、いたずらに無駄に、邪悪な偽の師にまどわされて、みだりに正しい理解という眼を覆い隠してしまい、むなしく自分の狂気に酔って、久しく迷いの境地に沈むであろう。

 何によって知の正しい種を成長させて道を得る時を得るであろうか? いいえ! 得られないであろう!

 道の修行にとぼしく貧しい未熟な私、道元とはいえ、今、雲の様にただよい浮草の様に立ち寄る事を事としていては、学への真実の参入者は、いずれの山や川を訪ねれば良いのであろうか?

 これを憐れんで、宋の時代の中国で禅の寺の風習と規律を目の当たりに見聞きして、善知識を持つ人々の奥深い主旨を受持したのを記し集めて、学への参入という、歩く人が少数である閑道を歩む人に残して、仏教という家の正しい法を知らせようとしている。

 これは真の秘訣かもしれない。

 口伝によると、釈迦牟尼仏は霊山の会で法を初祖の迦葉につけ、祖師から祖師へ正しく伝えて、二十八祖の達磨に至った。

 二十八祖の達磨は自ら中国におもむき、法を二十九祖の慧可につけた。

 これが東の地の中国の仏法伝来の初めである。

 この様に単一に伝えて、自ずと三十三祖の大鑑禅師に至った。

 この時、真実の仏法が、まさに東の中国に流通して、細目さいもくに関わらない主旨が表れた。

 時に、三十三祖の大鑑禅師に二人の高弟がいた。

 三十四祖の南嶽の懐譲と、三十四祖の青原の行思である。

 共に、仏の印を伝持して、同じく、人と天人の導師である。

 その二派が流通して、五門が開けた。

 五門とは、法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗である。

 現在、宋の時代の中国には臨済宗のみが天下にあまねく広まっている。

 「法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗」という「五家」は異なるが、唯一の一仏の心の印である。

 中国も後漢から今まで、教えの書籍が跡をれて唯一の天下にかれている、といえども、雌雄しゆうは未だ定められていなかった。

 二十八祖の達磨が中国へ来た「祖師西来」の後、直々に葛藤の根源を切り、純粋な唯一の仏法が広まった。

 我が国、日本も、そう成る事を請い願うべきである。

 口伝によると、仏法に住んで保持してきた諸々の祖師、並びに、諸仏は共に、自受用三昧に正しく坐禅して従う事を、悟りを開く正しき道としている。

 西のインドから東の地の中国まで、悟りを得た人は、その家風に従ってきた。

 これは、師弟が「ひそかに」、「意味を込めて」妙なる術を正しく伝えて真の秘訣を受持してきた事によってである。

 宗門の正しい口伝によると、「この単一に伝えられている正直な仏法は、最上の中の最上であり、善知識を持つ人々の所へ行ってまみえた初めより、さらに焼香、礼拝、念仏、懺悔の修行、経をる事を用いず、ただ打ち坐って(古い)身心を脱ぎ落とす事を得よ」と言われている。

 もし人が一時といえども、身口意の三業に仏の印を表して三昧に正しく坐禅する時、あまねく法の世界は皆、仏の印と成り、虚空のことごとくが悟りと成る。

 そのため、諸仏、如来としては本質の法の楽を増し、覚への道の荘厳を新たにする。

 及び、十方の法界、三途六道の全ての者は皆、共に、一時に身心を明るく清浄にして、大いなる解脱の本質を証して、本来の「面目」、「有様ありよう」が現れる時、諸法のものは皆、正しい覚を証し会得して、万物は、共に、仏身を使用して、すみやかに証し会得する辺際を一超して、菩提樹に正しく坐禅して、一時に無双の大いなる法輪を転じて、究極の無為の深い知を開演する。

 これらの普遍正覚、さらにかえって、親しく、目に見えない助けの道が通うので、この坐禅している人はしっかりとして(古い)身心を脱ぎ落とし、従来の雑な汚れた知見思量を裁断して、天の真の仏法を証し会得して、遍く微塵際のいくつかの諸仏、如来の道場ごとに仏事を助け発して、広く仏の向上の機会をこうむらせて、よく仏の向上の法を激しく揚げる。

 この時、十方の法界の土地、草木、牆壁、瓦礫は皆、仏事をなすのをもって、その起こす所の風と水の利益にあずかる仲間は皆、甚妙な不可思議な仏の化の目に見えない助けに助けられて、近き悟りを表す。

 この水と火を受用するたぐいのものは皆、元より証している仏の化を周りに斡旋あっせんするので、これらのたぐいのものと共に住んで語り合う者も、また、ことごとく相互いに無窮の仏の徳が備わり、展開し転じ広くして、無尽、無間断、不可思議、不可称量の仏法を、あまねく法界の内外に流通する物である。

 そうではあるけれども、この諸々の当人の知覚が暗い事は、静かな中で無造作であり、直に証するのを待っているのである。

 もし凡人の思いの様に、修行と証が両断されているのであれば、各々、(別の物として)覚知できるはずである。

 もし覚知に交わるのであれば、証の様式ではない。

 証の様式には心情が迷っている人は及べないからである。

 また、心と、知覚の対象は共に、静かな中で、証と悟りに出入りは有るが、自受用の境界であるのをもって、ちりを一つも動かさず、相を一つも破らず、広大な仏事、甚深の微妙な仏の化をなす。

 この仏の化の導きの及ぶ所の草木と土地は共に、大いなる光明を放ち、深い妙なる法を説く事は無限である。

 草木、牆壁は、よく凡人、聖者、霊を含有する全てのもののために宣言して揚げ、凡人、聖者、霊を含有する全てのものはかえって草木、牆壁のために広く説く。

 自覚する事と、他の者を覚らせる事の境界は元より証の様相を備えて欠ける事無く、証の様式は行われておこたられる時を無くさせる。

 これをもって、わずかに一人の一時の坐禅である、といえども、諸法と目に見えない助けで助け合い、諸々の時とまどかに通じるため、無尽の法界の中に、過去、未来、現在に恒常の仏の化の導きの事をなすのである。

 あのものも、このものも、共に、唯一普遍絶対の同じ修行であり、同じ証である。

 ただ坐禅上の修行のみではなく、くうを打って響きを成す事であり、鐘を突く前後で妙なる声が綿々と連続している物である。

 坐禅の際のみに限るであろうか? いいえ! 限らない!

 「百頭」、「全ての者」は皆、本来の「面目」、「有様ありよう」に本来の修行を備えて、量ろうと図るべきではない。

 知るべきである、たとえ十方の無量恒河沙の数の諸仏が共に力をはげまして仏の知慧をもって一人の坐禅の功徳を量り知り究めようとしても、ほとりを得る事も全く無い。


 今、この、坐禅の功徳が高大である事を聞き終わって、愚かな人は疑って言うであろう。


 Q.

 仏法には多くの門が有り、何をもって、ひとえに坐禅をすすめるのか?


 A.

 坐禅は仏法の正門である事をもってである。


 Q.

 なぜ、坐禅を単独で正門とするのか?


 A.

 釈迦牟尼仏は道を得る妙なる術を正しく伝え、また、過去、現在、未来の如来は共に坐禅により道を得ている。

 このため、坐禅は正門である事を伝えたのである。

 それだけではなく、西のインドから東の地の中国まで、諸々の祖師は皆、坐禅により道を得ているのである。

 そのために、今、坐禅という正門を人と天人に示す。


 Q.

 如来の妙なる術を正しく伝えられる事や、祖師の跡をたずねる事は、実に、凡人の思慮の及ぶ所ではない。

 けれども、経を読み念仏を唱える事は自ずと悟りの因縁と成るはずである。

 ただ、むなしく坐禅してもす所は無い。

 何によって悟りを得るたよりと成るのであろうか?


 A.

 あなたは今、諸仏の三昧、無上の大いなる法を、むなしく坐禅してす所は無いと思った様だが、この様な考えの人を大乗の悪口を言う人とする。

 あなたのまどいは非常に深くて、大海の中に居ながら水無しと言う様な物である。

 すでに、かたじけない事に、諸仏は自受用三昧に安らかに坐禅している。

 これは、広大の功徳をしているのではないか? はい! している!

 心の眼が未だ開かず、なお心が酔いにある事を憐れむべきである。

 おおよそ、諸仏の境界は不可思議である。

 心識は諸仏に及ぶ事ができない。

 まして、不信心で知が劣っている人が知る事ができ得るであろうか? いいえ! でき得ない!

 ただ正しい信心の大いなる素質が有る人のみ、入る事ができ得るのである。

 不信の人には、たとえ教えても受け入れさせる事は難しい。

 「法華経」でも、霊山の会には、なお、「退亦佳矣」、「退席するのもまた善い」たぐいの者どもがいた。

 おおよそ、心に正しい信心が起これば修行して学に参入するべきである。

 そうでなければ、しばらく止まるべきである。

 昔から法のうるおいが無い事を恨みなさい。

 また、経を読み念仏を唱える等に努めて得る所の功徳をあなたは知っているのか?

 ただ舌を動かして声を上げる事を、仏事、功徳と思う様では、とても、はかない。

 ただ舌を動かして声を上げる事を、仏法と見なそうとしても、うたた遠く、いよいよ遥かである。

 また、経書を開くのは、仏が修行の遅い速いの様式を教えておいている事を明らめて知り、教えの様に修行すれば必ず証を取れるからである。

 いたずらに無駄に、思い量り念じ計る事に費やして、無上普遍正覚を得る功徳にしようとしているのではないのである。

 愚かに千万回も読むくちわざをしきりにして仏道に至ろうとするのは、進む方向を決める長柄ながえを北にして南の国の越に向かおうと思う様な物である。

 また、円の穴に正方形の木を入れようとするのと同じである。

 仏教の文書を見ながら修行する道に暗いのは、医術の方法を見る人が薬の調合方法を忘れる様な物であり、何の益が有るであろうか?

 口からの発声を絶え間無くするのは、春の田のカエルが昼も夜も鳴く様な物であり、結局、益は無い。

 まして、深く名声と利益にまどわされている輩には名声と利益を捨てるのは難しい。

 利益をむさぼる心は、はなはだ深いからである。

 昔は利益をむさぼる人が多数いた、今の世には利益をむさぼる人はいないであろうか? いいえ! 今の世にも利益をむさぼる人は多数いる!

 利益をむさぼる人は最も憐れである。

 ただ、まさに、知るべきである、釈迦牟尼仏を含む過去七仏の妙なる法は、道を得て心を明らめた達道者に、心が仏道にかなう証を会得した学ぶ人が従って正しく伝えられれば、的を射た主旨が表れて受持されるのである。

 霊感が無く文字だけを習い学ぶ似非えせ学者は知り及ぶ事ができない。

 であれば、この疑いと迷いを止めて、正しい師の教えにより、坐禅して道をわきまえて諸仏の自受用三昧の証を得るべきである。


 Q.

 今、我が国、日本に伝わっている所の法華宗、華厳宗は共に大乗の究極である。

 まして、真言宗は毘盧遮那如来が親しく金剛薩埵に伝えているので、師弟関係は、みだりではない。

 話している主旨は「即心是仏」、「是心作仏」と言って、多劫の修行を経る事無く、一度の坐禅で五仏の正覚を得られると言うのであるから、仏法の極妙と言うべきである。

 であるのに、今、言う所の修行を、どんな優れている事が有って、彼らをさしおいて、ひとえに、すすめるのであろうか?


 A.

 知るべきである、仏教という家では教えの優劣を論争する事は無く、法の浅い深いを選ばない。

 ただし、修行の真偽を知るべきである。

 草花、山水にひかれて仏道に流入する事が有り、土石、砂礫を握って仏の印を受持する事が有る。

 まして、膨大な文字が(森羅)万象には余るほど豊かに隠されているのであり、転じる大いなる法という輪もちり一つに収まっている。

 であれば、「即心即仏」の言葉は、水の中に映る月の様な物である。

 「即坐成仏」の旨は、鏡の中の影の様な物である。

 言葉の巧みさに関わるべきではない。

 今、直に証を得られる無上普遍正覚の修行をすすめるのに、仏祖が単一に伝えている妙なる道を示しているのは、真実の道の人と成らせるためである。

 また、仏法を伝授する事は、必ず、証が仏道にかなう人をむねとする師とするべきである。

 霊感が無く文字を数えるだけの学者は、導師とするには不足である。

 霊感が無く文字を数えるだけの学者を導師とするのは、一人の盲人が盲人の大衆を引く様な物である。

 今この、仏祖が正しく伝えている門下では皆、道を得て証が仏道にかなう賢者、達道者を敬う事で仏法に住まわせられ保持させられている。

 そのため、冥界や「この世」の天人も来て帰依し、証の成果を得た羅漢も来て法を質問して、各々に、心の境地を開き明らかにする手段を授けないという事が無い。

 仏教以外の、他の宗教では未だ聞いた事が無い所である。

 ただ、仏の弟子は仏法を習うべきである。

 また、知るべきである、我らは元より無上普遍正覚が欠けているのではなく、永久に受用している、といえども、継承して会得する事ができ得ないために、みだりに知見を起こす事を習いとして、これを概念的な物と思う事によって、大いなる道をいたずらに無駄に間違える。

 この知見によって、「空華」は、まちまちである。

 あるいは、無上普遍正覚を十二輪転や二十五有の境界と思い、三乗、五乗、仏性の有無の意見を作る事が無い。

 この知見を習って、仏法の修行の正道と思うべきではない。

 今は、仏の印によって万事をほうろして、一心に坐禅する時、迷いや悟りや感情や思い量りのほとりを超越して、凡人や聖者の道に関わらず、すみやかに枠外に逍遙しょうようして、大いなる無上普遍正覚を受用するのである。

 人をとらえる罠に関わる文字だけの学者が肩を並べて及ぶ事ができるであろうか? いいえ! できない!


 Q.

 「三学」の中に「定学」が有り、「六度」の中に「禅度」が有る。

 「定学」と「禅度」は共に、一切の菩薩が初心より学ぶ所であり、利発と愚鈍を分けずに修行する。

 今の「坐禅」も「定学」か「禅度」のどちらか一つの事であるのであろう。

 何によって、「坐禅」の中に如来の正しい法を集めたと言うのであろうか?


 A.

 今この如来の一大事の「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼を持つ事」、無上の大いなる法を、「禅宗」と名づけてしまったために、この様な質問が来てしまった。

 知るべきである、この「禅宗」という称号は、中国以東に起こり、インドでは聞かない。

 二十八祖の達磨は、初め、蒿山の少林寺にて「九年面壁」、「九年間、壁に向かって坐禅」している間に、仏道に入った人も俗人も、未だ仏の正しい法を知らず、坐禅をむねとするバラモンと名づけてしまった。

 後、代々の諸々の祖師は皆、常に坐禅をもっぱらした。

 これを見た愚かな俗人は、真実を知らずに、混同して「坐禅宗」と言いだしてしまった。

 今の世では、「坐」という言葉を簡略して、ただ「禅宗」と言ってしまうのである。

 その理由は諸々の祖師が広く語っている事で明らかである。

 「六度」及び「三学」の「禅定」に「坐禅」を並べて言うべきではない。

 坐禅には仏法の代々伝わる正統な意味が有る事は一代に隠れも無い事実である。

 釈迦如来が昔、霊山の会で「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼を持ち寂滅した妙なる心を持つ事」、無上の大いなる法を独り初祖の迦葉にのみ付法した儀式は、現在でも上界、天にいる天人達には目の当たりに見た者が存在しているので、疑うべきではない。

 おおよそ、仏法は、この天人達が永久に護り保持している物であり、その功徳は未だ古く成っていない。

 まさに知るべきである、坐禅は仏法の道の全てであり、並べて言える物など無い。


 Q.

 仏教という家は、何によって、「行住坐臥」という「四儀」の中で、ただ「坐」にのみ全てを負わせ、禅定をすすめて、証に入る様に言うのであろうか?


 A.

 昔から、諸仏が相継ぎ修行して証に入る道は、究め知り難い。

 理由を尋ねれば、ただ仏教という家が用いている所を理由と知るべきであろう。

 この他に尋ねるべきではない。

 ただし、祖師が、ほめて言う所によると、「坐禅は安楽の法門である」と言う。

 量り知れない。

 坐が「四儀」の中で安楽であるからであろうか?

 また、坐禅は、一人の仏や二人の仏の修行の道であるだけではない。

 諸仏、諸々の祖師は皆、坐禅を道としている。


 Q.

 この坐禅の修行では、未だ仏法を証し会得していない者は、坐禅して道をわきまえて証をとるべきである。

 しかし、すでに仏の正しい法を明らめ得た人は坐禅をして何の待つ所が有るのであろうか?


 A.

 愚者を前にして夢を説かない。

 山暮らしの木こりなどの手には船のさおを与えづらい、といえども、さらに教訓をれよう。

 修行と証は一つではないと思うのは外道の意見である。

 仏法では修行と証は唯一普遍絶対である。

 今も証の上で修行するべき時であるので、初心の時に道をわきまえたのは本来の証の全体である。

 そのため、修行の用心を授ける時にも、修行の他に証を待ち望む思いなかれと教える。

 直々の指導も本来の証であるからである。

 すでに修行の証であるので証にきわなど無く、証の修行であるので修行に初めなど無い。

 ここをもって釈迦如来と初祖の迦葉は共に証の上での修行を受用し、二十八祖の達磨と、高祖の三十三祖の大鑑禅師は同じく証の上での修行に引かれて転じられている。

 仏法に住んで保持する行跡とは皆、この様な物なのである。

 すでに証を離れぬ修行が有るので、我らは幸いにも一分の妙なる修行を単一に伝えられて、初心の時に道をわきまえた事は一分の本来の証を無為の境地で得るのである。

 知るべきである、修行を離れない証を汚染させないために、仏祖は、しきりに修行をゆるくするべきではないと教えている。

 妙なる修行をほうろせば本来の証が手の中に満ち、本証を出身すれば妙なる修行が身を通して行われる。

 また、宋の時代の中国で目の当たりに見たのは、諸方の禅の寺院では皆、坐禅のための堂を構えて、五百、六百および千、二千の僧を安らかにさせて日夜、坐禅をすすめていた。

 禅の寺の席次の主である、仏の心の印を伝える達道者に仏法の大いなる意味を尋ねたならば、「修行と証が両断されてはいない」旨を聞いた。

 このため、門下の学に参入している人のみだけではなく、法を求める一流の人々、仏法の中に真実を願い求める人、初心者や後進の者を選ばず、凡人と聖人を論じずに、仏祖の教えにより、達道者の道を追って、坐禅して道をわきまえるべきであるとすすめている。

 聞いた事が無いであろうか?

 祖師の言う所によると、「修行と証が無いわけではないが、汚染するのは駄目である」と言う。

 また、祖師の言う所によると、「道を見た者は道を修行する」と言う。

 道を得た後でも修行するべきである、という事を知るべきである。


 Q.

 我が国、日本の先の世で教えを広めた諸々の師は共に唐の時代の中国に入って法を伝えた時、なぜ、この旨をさしおいて、ただ教えだけを伝えたのであろうか?


 A.

 昔の人の師が、この法を伝えなかったのは、時が未だ至っていなかったからである。


 Q.

 あの昔の師は、この法を会得していたのであろうか?


 A.

 会得していれば通じているであろう。


 Q.

 ある人によると、

「生死を嘆く事なかれ、生死を出離するのに、とてもすみやかな道が有る。

心の性質が常に住んでいる理を知るのである。

その旨は、この身体は既に生あれば必ず滅に移されて行く事が有っても、この心の性質は滅する事は全く無い。

生と滅に移されない心の性質が我が身に有る事を知れば、心の性質を本来の性質とするので、身は仮の姿であり、この世で死んで、あの世で生まれる定めが無い。

心は常に住んでいて、過去、未来、現在で変わらない。

この様である事を知るのを、生死を離れた、と言うのである。

この旨を知る者は従来の生死が永く絶えて、身が終わる時に『性海』に入る。

『性海』に流入する時に諸仏、如来の様な妙なる徳が備わる。

たとえ今は知るといえども、前世のみだりな業で形成されている身であるので、諸々の聖者と等しく無いのである。

未だ、この旨を知らない者は、久しく生死を巡る事に成ってしまう。

なので、ただ、急いで心の性質が常に住んでいる旨を了知するべきである。

いたずらに無駄に無為に坐禅して一生を過ごして、どんな、待ち望める所が有るであろうか? いいえ! 無い!」

 この様に言う旨は真に諸仏、諸々の祖師の道にかなうであろうか? どうであろう?


 A.

 今、言う所の意見は全く仏法ではない。

 先尼セーニャという外道と同じ誤った意見である。

 先尼セーニャという外道の誤った意見によると、

「我が身の内に一つの霊知が有り、霊知はえんに会う所で、よく好悪をわきまえ、是非をわきまえる。

痛痒を知り、苦楽を知る事ができるのは皆この霊知の力である。

霊知という霊性は、この身が滅する時に脱して『性海』に生まれるので、この世では滅したと見えるけれども、『性海』での生が有るので、永く滅しないで常に住んでいる、と言うのである」

 先尼セーニャという外道の誤った意見は、この様な代物である。

 先尼セーニャの誤った意見を習って仏法にしようとするのは、瓦礫がれきをにぎって黄金の宝と思うよりも、愚かである。

 先尼セーニャの誤った意見に愚かに迷う事を恥ずべきである事は、例えられるものが無いほどである。

 唐の時代の中国の三十三祖の大鑑禅師の弟子である南陽慧忠も深く戒めている。

 今、「心常相滅」、「心は常に存在し肉体という相は滅する」という邪悪な意見を計画して、誤って諸仏の妙なる法と等しく見なして、生死の本来の因を起こして、生死を離れたりと思うのは、愚かではないか? はい! 愚かである!

 最も憐れむべきである。

 これは外道の邪悪な意見である、と知り、耳に触れさせるべきではない。

 止むを得ず、今、憐れみをれて、あなたの邪悪なものの見方を救おう。

 知るべきである、仏法では元から身と心は唯一普遍絶対であり、性質と相は唯一普遍絶対で不二である、と話している事は、西のインドから東の地の中国まで同じく知られている所であり、疑うべきではない。

 まして、常に住んでいる事を話している門では、万法は皆、常に住んでいて、身と心を分ける事が無い。

 寂滅を話している門では、諸法は皆、寂滅であり、性質と相を分ける事が無い。

 それなのに、なぜ、「身滅心常」と言うのであろうか? 正しい理にそむいていないか? はい! そむいている!

 それだけではなく、生死は「涅槃」、「寂滅」であると覚了するべきである。

 未だ生死の他において「涅槃」、「寂滅」を話す事は無い。

 まして、心は身を離れて常に住んでいると領解する事をもって、生死を離れた仏の知(、神の知)にしようとみだりに計画しても、この領解智覚の心は生滅して全く常に住んでいない。

 この領解智覚の心は、はかなくないか? はい! はかない!

 熟考するべきである。

 身と心は唯一普遍絶対である旨は仏法が常に話している所である。

 なのに、なぜ、この身が生滅する時、心が独り身を離れて生滅するであろうか? いいえ!

 もし唯一普遍絶対である時が有り、唯一普遍絶対ではない時が有れば、仏の説く事は自ずと虚しくみだりな代物に成ってしまうではないか!

 また、生死は除くべき法だと思ってしまうのは、仏法をいとう罪と成る。

 慎しめないのであろうか?

 知るべきである、仏法で、心と性質は大いなるすべての相の法門である、と言うのは、一大法界を込めて、性質と相を分けず、生滅を言う事は無い。

 無上普遍正覚の「涅槃」、「寂滅」に及ぶまで心の性質ではない事は無い。

 一切の諸法と森羅万象は共に、唯一の心であり、込めない事、兼ねない事は無い。

 この諸々の法門は皆、唯一普遍絶対の心である。

 諸々の法門に差異や違いは全く無い、と話す事は仏教という家の心の性質を知っている様子である。

 なのに、この唯一の法において、身と心を分別し、生死と「涅槃」、「寂滅」を分ける事が有るであろうか? いいえ! 無い!

 あなたたちは既に仏の子(、神の子)である。

 外道の誤った意見をかたる狂人の舌の響きを耳に触れさせる事なかれ。


 Q.

 坐禅をもっぱらする人は必ず戒律を厳守して清浄にするべきか?


 A.

 戒を保ち清浄の行を行う事は禅門の規準であり、仏祖の家風である。

 未だ戒を受けず、また、戒を破る者には僧の資格(、祭司の資格)は無い。


 Q.

 坐禅に努めている人が、さらに真言止観のぎょうを兼ね合わせて修行する事はさまたげが有るであろうか?


 A.

 中国に在留していた時、達道者に真の秘訣を聞いた時に、西のインドから東の地の中国で、古今で、仏の印を正しく伝えている諸々の祖師のいずれも未だ真言止観のぎょうを兼ね合わせて修行した、と聞いた事が無い、と言っておこう。

 実に、一つの事を大事にしなければ、一つの知にも達する事は無い。


 Q.

 坐禅というぎょうは世俗にいる男女も努むべきであろうか?

 出家者だけが坐禅して修行するのか?


 A.

 師の言う所によると、「仏法を会得するのに、男女や貴賤を選ぶなかれ」と聞いている。


 Q.

 出家者は、わずらわしさをすみやかに離れて坐禅して道をわきまえる事に障害は無い。

 しかし、世俗にいる人は繁務では、どうして、一心に修行して無為の仏道にかなうであろうか?


 A.

 仏祖は、憐みの余り、広大な慈悲の門を開いて置いてくれている。

 それは、一切の生者を証に入れるためである。

 人と天人で、誰か、入れない者がいるであろうか? いいえ! いない!

 ここで、昔と今を尋ねると、その証拠は多い。

 しばらく、代宗と順宗は、帝位にいて、全ての機会で、とても忙しかった時に、坐禅して道をわきまえて仏祖の大道を会得して通じる様に成った。

 李相国と防相国は共に輔佐の臣位にいて、一天下の腹心であったが、坐禅して道をわきまえて仏祖の大道の証に入った。

 志の有無による物であろう。

 身の在家、出家には無関係である。

 深く事の優劣をわきまえる人は自ずと信じる事が有る。

 まして、世俗の繁務は仏法をさえぎると思う者は、ただ、世俗の中に仏法は無いとだけ知っていて、仏の中に世俗の法は無い事を未だ知らないのである。

 近頃、宋の時代の中国に馮相公と言う人がいた。

 祖師の道に長じた大官であった。

 後に、詩を作って自らの事を言う所によると、

「公事の合間に坐禅を好み、かつて、脇を寝床に触れさせて眠る事は少なかった。しかも、宰官の相を出現させているが、長老としての名は四海に伝わっている」

 これは、官務でひまが無い身でも、仏道への志が深ければ、道を得るという事である。

 他人をもって自分をかえりみ、昔をもって今をかんがみるべきである。

 宋の時代の中国でも、国王と大臣、士官と民、男と女は共に心を祖師の道に留めないという事が無い。

 武門と文官の家は、いずれも禅に参入して道を学ぶ事を志している。

 志す者は必ず心の境地を開き明らかにする事が多い。

 これによって、世俗の繁務が仏法をさまたげない事は自ずと知られている。

 国家に真実の仏法がひろまり流通すれば、諸仏、諸々の天人は絶え間無く護衛するので、王の化は太平である。

 聖者の化が太平であれば、仏法は仏法の力を得る物である。

 また、釈迦牟尼仏が在世の時には、反逆者や邪悪な意見が道を得ていた。

 祖師の会の下では、猟師や木こりも悟りを開いている。

 まして、その他の人も悟りを開いているのは言うまでも無い。

 ただ、正しい師の道をたずねるべきである。


 Q.

 このぎょうを、今の末法の世、悪の世でも、修行すれば証を得られるのであろうか?


 A.

 教える事を家業としている学者は名前や相を大事にしているが、大乗の実の教えでは、正法の世、像法の世、末法の世を分ける事が無い。

 「修行すれば皆、道を得る」と言っている。

 まして、単一に伝えられている正しい法では、法に入る時と解脱する時に同じく自分の家の珍しい財宝を受用するのである。

 証を得られた、得られていないは、修行している者が自ら知っている事は、水を用いている人が冷暖を自ら、わきまえている様な物である。


 Q.

 ある人の言う所によると、

「仏法では、『即心是仏』の旨を了達した人は、くちで経典を読まず、身体で仏道を行わずとも、仏法に欠けた所は全く無い。

ただ、仏法は元より自己にあると知る、これを道を得た全円とする。

この他に更に他人に向かって求めるべきではない。

まして、坐禅して道をわきまえる事をわずらわしくするであろうか? いいえ! しない!」


 A.

 この言葉は、最も、はかない。

 もし、あなたが言う様であれば、心有る者は、誰が、「即心是仏」の旨を教えて仏法を知る事が無いであろうか?

 知るべきである、仏法は、まさに自分や他人の意見を止めて学ぶ物なのである。

 もし「自己即仏」と知る事をもって道を得たとできるならば、釈迦牟尼仏は昔、化で導く事にわずらわなかったであろう。

 古の妙なる様式をもって、これを証明しよう。


 昔、則公監院と言う人が、法眼禅師の会の中にいた。

 法眼禅師は「則監寺、あなたは、我が会にいて、いくつの時を経たのか?」と質問した。

 則公は「私は、師の会にいて既に三年を経ました」と言った。

 禅師は「あなたは後輩である。なぜ、常に私に仏法を問わないのか?」と言った。

 則公は「私は、和尚様をあざむいていない。かつて、青峰禅師の所にいた時に、仏法において安楽の所を了達している」と言った。

 禅師は「あなたは、いかなる言葉によって、安楽の所に入る事を得たのか?」と言った。

 則公は「私は、かつて青峰に『いかなるものが、学ぶ人の自己であるのか?』と質問しました。青峰は『丙童子と丁童子が来て火を求める』と言いました」と言った。

 法眼は「良い言葉です。ただし、恐らく、あなたは会得していないのでしょう」と言った。

 則公は「丙と丁は火に属します。火をもって更に火を求めるのは、自己をもって自己を求めるのに似ている、と会得しました」と言った。

 禅師は「実に、あなたが会得していない、と知りました。もし仏法が、その様な代物であるならば、今日まで伝わらなかったでしょう」と言った。

 ここで、則公は焦燥しょうそう煩悶はんもんして席を立ってしまった。しかし、道の途中に至って、「禅師は、天下の善知識を持つ人であり、また、五百人の大導師である。私の非をいさめてくれた。長所が有るに違いない」と思って、禅師の御元に帰って懺悔し謝礼して「いかなる物が、学ぶ人の自己であるのか?」と質問した。

 禅師は「丙童子と丁童子は来て火を求める」と言った。

 則公は、この言葉の下に、大いに仏法を悟った。


 「自己即仏」の領解をもって仏法を知った、とは言えない、という事を明らかに知る事ができる。

 もし「自己即仏」の領解を仏法としてしまったら、禅師は先の言葉をもって導かないであろうし、また、この様に戒めないであろう。

 ただ、まさに、初め善知識を持つ人にまみえてから、修行の儀則を質問して、一心に坐禅して道をわきまえて、一つの知や半端な理解を心に留める事なかれ。

 仏法の妙なる術は、むなしくない。


 Q.

 インドと中国の古今を聞くと、石が竹に当たった音を聞いて道を悟った者(である香厳の智閑)がいるし、桃の花の色形を見て心を明らめた者(である霊雲志勤)がいる。

 まして、釈迦牟尼仏は明けの明星を見た時に道を証し、阿難は門前の竿さおが倒れた所に法を明らめ、それだけではなく、三十三祖の大鑑禅師より後に、五家の間で一言半句の下に心の境地を明らめた者も多い。

 彼らは必ずしも、かつて坐禅して道をわきまえていた者だけではないでしょう?


 A.

 古今に、色を見て心を明らめた人や、音声を聞いて道を悟った人は共に、道をわきまえる事に、疑義を抱かず、量らず、抜群の第一人者であった事を知るべきである。


 Q.

 西のインド人および中国人は元より性質が正直である。

 アジアの中核地なので、仏法で教化すると、とても早く会得して入る。

 我が国、日本は昔から人に「仁智」、「思いやりと知」が少なくて、正しさの種が積もり難い。

 未開の地である事を恨まずにはいられない。

 また、この国、日本の出家者は、中国の在家者にも劣っている。

 世の全てを挙げて、愚かで、心が狭量である。

 深く有為の功に執着して、事相の善を好む。(外聞、外見が良い善だけを好む。)

 この様な輩でも、坐禅すれば、たちまち仏法の証を得るのでしょうか?


 A.

 言う通りである。

 我が国、日本の人には未だ思いやりと知があまねく行きわたっておらず、人間が、ねじ曲がっている。

 たとえ正直の法を示しても、法という甘露が、かえって毒と成ってしまうであろう。

 名声と利益にはおもむきやすく、まどいや執着が解け難い。

 けれども、仏法の証に入るために、必ずしも人や天人の「この世の知」をもって世を出る「船出」、「出航」とするわけではない。

 釈迦牟尼仏の在世でも、手毬てまりによって四果を証した人や、袈裟を肩に掛けて大道を明らめた人は共に、暗愚な輩、狂愚な動物的人間のたぐいである。

 ただし、正しい信心の助ける所によって、まどいを離れる道が有る。

 また、愚かな老いた出家者が黙って坐禅していたのを見て食べ物を捧げた在家者の女性が悟りを開いたのは、知によらず、文書によらず、言葉を待たず、語られるのを待たず、ただ、正しい信心に助けられたのである。

 また、釈迦牟尼仏の教えが三千界に広まっているのは、わずか二千余年間の前後である。

 国土は多様であり、必ずしも思いやりと知の国ばかりではない。

 諸国の人も、また、必ずしも利発な知が有る聡明な人ばかりではない。

 けれども、如来の正しい法は元より不思議な大いなる功徳の力を備えていて、時が至れば、その国土に広まる。

 人は、まさに、正しく信じて修行すれば、利発と愚鈍を分けず、等しく道を得る。

 我が国、日本は思いやりと知の国ではないが、日本人の知力や理解力が愚かであるからと言って、日本人は仏法を会得できないと思う事なかれ。

 ましてや、人は皆、知の正しい種が豊かである。

 ただ、継承して会得する事はまれであり、受用する事が未だなのである。


 先述では、問答形式で問答を行き来し、客観と主観が交互する事が、みだりっぽかった。

 しかし、いくらかは華無き空に華を添えられたであろう。

 さて、この国、日本は、坐禅して道をわきまえる事において、未だ、その宗旨が伝わっておらず、知ろうと志す者は悲しむべきである。

 そのため、わずかではあるが、異国の見聞を集め、明らかな師の真の秘訣を記し留めて、学への参入を願い求めている人に聞かせられたらと思う。

 この他、禅の寺の規範および寺院の格式は、今は、示すひまが無いし、また早々に粗末に示すべきではない。

 おおよそ、我が国、日本は、日本海以東の所にあって、煙の雲は遥かであるけれども、欽明天皇や用明天皇の時代の前後から西方の仏法が東に進んで広まったのは、人々にとって幸いである。

 それなのに、名相事縁がしげって乱れて、修行の所にわずらう。

 今は破れた粗末な僧衣と乞食用の器を生涯として、青巌白石の辺に茅を結んで正しく坐禅して修練していたら、仏の向上の事が、たちまち、あらわれて、一生を賭けて学に参入する大事はすみやかに究極に到達したのである。

 これは「龍牙の誡勅」、「釈迦牟尼仏の霊山の誡勅」であり、初祖の迦葉が鶏足山で死んでのこした家風である。

 坐禅の儀則は、私、道元が過去に嘉禄の頃に撰集した「普勧坐禅儀」によって行うべきである。

 仏法を国中にひろめ通じさせるには、王の勅を待つべきである、といえども、再び釈迦牟尼仏が霊山でのこし嘱託した仏法を思えば、今、百万億の国土に出現している王公貴族や宰相や大臣や将軍は皆、共に、かたじけない事に、仏の勅を受けて、前の生で仏法を護り保持するという平素からの願いを忘れず、生まれて来た者なのである。

 仏の化をさかいは、いずれの所も仏の国土ではない事は無い。

 このため、仏祖の道を流通させるのに、必ずしも所を選ばず、えんを待つべきではなく、ただ、今日を初めと思おう。

 なので、仏法を集め記して、仏法を願い求める達道者とあわせて、道をたずねて雲の様にただよい浮草の様に立ち寄っている学へ参入したい真の一流の修行者に残す。


 時に、千二百三十一年の秋に、かつて宋の時代の中国に入り、仏法を伝えている沙門である道元が記した。

 弁道話

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