【32】

「自動筆記ですか」

「ええ」

 奥歯が痛い。夢でも見ているかのようなこだわりを排除して、関東一円に蔓延る悪病をなんとか食い止めんと、目の前の編集者は歯を剥き出しにして笑う。俺は猿の威嚇を思い出す。あるときからちょっとずつ文字の消えていることに、薄々俺も気付いていた。自覚症状が出たときにはもう遅く、五十音ははじめから五十音と呼ばれていた気もするし、四百七十八音だった気もする。わからない。

「あぐた、という言葉もあったそうですよ」

「意味はなんですか」

「わかりません。あぐた。あぐたい。あぐたる。あぐとうては尚のこと。私が僅かに覚えているのはそれだけです」

 常用漢字なる革命によってベンは弁に統一され、ゑはえとなり、タ行に半濁点はつかない。文字は世につれ世は文字につれ、消え行くのもまた運命と俺は思うのだが、関西では未だに覚えの春を鯖として、ぷるむぅ柵の露天に舞陣するということもあるそうで、全く俺には意味がわからない。

 たとえばここに「お」があります。「お」を忘れてしまった場合、「おむすび」が言えないのかと言うとそうではなく、たとえば「階段」となる。意味はあの米と海苔の産物であり、三角形か俵型かは人の好みによって想像は分かれるけれど、とにかく同一のものを指す。つまり代替の現象が起こるわけであります。本来の階段もしばらくは「階段」というが、自身に混乱は起きない。やがて「鶴」となり、いつの間にやら復活した「お」が、おむすびの意味を持ち始める。

 粲という字が消えてもたいして誰も困らないが、三が消えてしまっては困る。使用できる文字はだんだんに減っていき、最終的には「おおおおおおおおお」となる。そこまで行くともう末期です。われわれにはどうしようもないのです。

 昔、イギリスに留学していたとき、現地の人にわざと「ちょっとしたありがとう」は「おっぱっぴー」と言うのだよと教えてみたことがある。凄いことになった。その現象を俺は思い出してニヤけるが、編集者は真剣なのですぐに笑いを引っ込める。

「無意識はまだ言語を覚えているということですか」

「左様。ですから自動筆記なのです」

 あなたには命懸けでやってほしいと頼まれて、俺はどうなんだかなあと思う。狭い部屋に閉じ込められて始終文字を書いていろと言われても、ただ単に気が狂うだけじゃないのか。

 金額を提示されて、結局は頷く。仕事なのだ、これは。いやいやを言って生きていくにもまず金がいる。

 用意された部屋には、他に二人の男性がいた。てっきり独房と思っていたから、俺は驚いた。上手いものを食べ、楽な服を着て、お互い背を向けて席に座る。さて、まずなにから書こうか。気取った文章を作る必要がないので、むかしむかしと並べてみる。

「なあ、君たちは何を書いたんだ」

「俺は数式だよ」

 なるほど、そういう手もあるのか。試しに12345……と書き並べてみる。

「俺は昔話でもやってみようかと」

「ああ、それはいい。俺なんて書くことがないから、とりあえず目の前にあるもんを片っ端から書いていく次第だ」

「やがてそうなるさ」

 一人の自由がないことに、最初は不満だったが、時間の経つにつれて、俺は他人の存在がこれほど心強いものであったかと知る。

「なあ、まだ書いてるか」

「書いてるよ」

「もちろんだ」

 腕は疲れ、背中は強張り、眠気が襲ってくる。うんざりして延々と「の」の字を繰り返す。ゲシュタルト崩壊。それでも手は止まらず、勝手に他の文字を書き始める。うつろうことは余儀なくして三文半の利を兼ねる。蝉の鳴き声を茹でて短冊切り。細切れ。みじん切り。かつら向き。踊れる人形。六反地の看板。ゆっくりと速記。しっかりと杜撰。

「なあ、まだ書いてるか」

 返事のないのが悲しくなる。俺ははじめから一人だった。全部妄想だ。書き上げた前の原稿に、さっきまでの文章が並んでいる。俺の手は勝手に動く。

「書いているよ」

 そうか。それならよかった。

 予定通り三日後に俺は解放され、実験は失敗に終わる。ほどなくして書いたものがベストセラーとなり、延々と売れ続ける。噂によれば、とっくのとうに販売部数は人口を上回ったとの話。遠い星から、そんなに売れてるもんなら是非うちの星でも取り扱いたいですと、翻訳の提案がくる。

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