第40話 幸恵さんと話し合う東條先生

 幸恵さんから会いたいという連絡をもらい、彼女の家からさほど遠くない公園で落ち合ったのは、六月二十日頃の事だった。

 平日の、朝九時。

 夏本番はまだ先だが、照りつける陽射しは強く既に汗ばむほどだった。

 私は薄手のカーディガンの、長い袖の裾をまくりあげた。

 たいして広くない園内には、私以外の人の姿は見当たらない。

 この公園は、近所の犬の散歩コースでもなければ、保育園児が遊びに来る、お決まりの場所でもないのだろう。

 私は日陰のベンチに腰掛け、幸恵さんが来るのを待った。

 暑い空気と漂う草木の匂いとを同時に吸い込み、深く息を吐く。

『渡したいものがあります』

 幸恵さんから、真夜中に送られてきたメッセージ。

 それを目にした瞬間、イメージしたのは、やはり松田智子さんの情報だった。

 さくらさんと一緒に幸恵さんを訪ねた際、彼女にみせた紙にあった衣類やバッグ、眼鏡などだ。

 もしそうなのだとしたら、相当な覚悟が幸恵さんにあるということになる。

 なにせ、夫である校長や浮気相手である教頭が、松田智子さん行方不明の件に深く関わっているからだ。

 幸恵さんは、真実をどのくらい知っているのだろうか?

 伸びている青々とした雑草を眺めながら、私はこれからやってくるだろう幸恵さんに思いを馳せた。


 やがて白い日傘をさした婦人が、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。

 私は立ち上がり、その女性に向かって会釈をする。

 幸恵さんだ。

「連絡……ありがとうございます」

 色々言いたいことを飲み込んで、私はそれだけを口にした。

「いいえ……本当は、もっと早くこうするべきだったんです……少し、座って話をしてもいいかしら?」

「はい」

 私は頷き、先程まで腰掛けていたベンチに再び座った。

 パチン、と日傘が畳まれる音が聞こえた。そして漏れる、深いため息。

「近所の奥さま方とお話しをするの、私、あまり好きじゃないの」

 私の隣に座ると、幸恵さんは唐突に話し始めた。

「……そうなんですか? 校長先生のお宅の周りは立派な一軒家ばかりですから、似たような立場の方が多くいらっしゃるのではないかと思っていたんですが」

「ええ、そうね……それは確かにあなたの言う通りよ。でも、耳に入ってくるのは家の自慢話や家人の不満ばかり……私は、そのどちらも好きじゃない。聞くのも、話すのもね」

 はぁ、と再び小さなため息が聞こえてくる。幸恵さんに、何かあったのだろうか?

「私は、変わってしまうのが怖かったの。夫も、自分自身も。でも、ようやく決心がつきました。私、夫と別れようと思います」

「えっ……なにか……あったんですか?」

 驚く私に、幸恵さんは俯いて少しの間黙り込んだ。

「……どうでもいいと……夫に言われてしまったんです。好きにすればいいって……本当は、そう思われてるだろうなって、随分前から感じていたんですけれどね……それでも、面と向かって言われると、やっぱりつらかった……今まで頑張って来たことが、すべて否定されたような気がして」

 ゆったりとした幸恵さんの声が、じわじわと胸に沁み入ってきて、私に過去を思い出させた。

「私も……昔、夫だった男から言われましたよ……もう飽きたし、正直どうでもいいって……もう二十年以上も前の話です」

「えっ……」

 幸恵さんは驚いたように私を見た。

「どうして、って思いました。私が悪いのか、と悩んだり……でも、私は考えるのをやめました。一人息子や両親、学校の生徒たちを守ることに専念しようと決めたんです。私は、養護教諭でしたから」

「そう……それは前向きな考え方ね……でも……ううん、きっとだからなのね……東條先生がとても強そうに見えるのは」

「幸恵さんは、なぜ別れようと決心したんですか? 一緒にいるのが辛いからですか?」

 どうでもいい、という突き放したような言葉は、まるで先の尖った氷のようだ。

 時間が経って溶けて消えたように感じても、ふとした瞬間に刺さった時の痛みが蘇ったりする。

「それもありますが……もう、疲れてしまったんです。利用されていると知りながら、関係を続けることも、情のない夫の為に尽くすのも。無意味に感じてしまった今までの時間を、この先も繰り返したくないんです」

 あぁ、なんだか少し明るい匂いのする言葉だ。

 私はほっと息を吐き出した。

「いいと思います。私たちも、近々最終場面に入りますから、ちょうど頃合ですよ」

「……やっぱり、警察に届け出ますよね……」

「はい……その前に、少し痛い目を見てもらおうと思っています」

 幸恵さんは、ぎょっとしたような表情かおで私を見た。

「だって、やられっぱなしのままじゃ、ちょっと悔しいじゃないですか。私、保健室の先生を辞めたくなかったんですよ、本当は」

 そう、私は私なりに彼らに怒りを抱いているのだ。

「そうなんですね……少し、羨ましい気がします」

 微かに目を細める幸恵さんの言葉に、私は苦笑した。

「私一人では難しいことなので、一緒に動いてくれている仲間に感謝ですね」

 大の男二人をどうにかするのに、女手一つではやはり無理がある。

「あの……私の分も、頼んでいいかしら?」

 幸恵さんが、小さな紙袋をバッグから取り出しながら言った。

「もちろんです」

 私は大きく頷きながら、それを受け取る。

 大きさと紙袋越しに伝わってくる感触には、心当たりがあった。

 これは、あのキーホルダーだ。

「他のものは、家のクローゼットに隠してあります。これだけなら……きっと、持ち出されたことに気づかれないと思います」

「はい、ありがとうございます」

 どうか、幸恵さんの行く道の先が、穏やかで明るいものでありますように。

 私は木陰の中、穏やかに微笑む幸恵さんを見て、そう願わずにはいられなかった。

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