第21話 謎の女に心揺さぶられる校長の奥さん
父から紹介された時、あの人はただの真面目で優しい印象の英語教師だった。
黒縁眼鏡の奥の知的な瞳が、私を見て細くなる。
そこに宿る空気は、間違いなく恋だった。
この人なのかもしれない、私の運命の人は。
中学から大学まで私立の女子校育ちだった私は、すっかりそう信じた。
運命の人。私を幸せにしてくれる人。
やがて年老いて、私より先に逝ってしまう両親に代わって私の傍にいてくれる人。
初めて手を繋いだあの時……私は確かに幸せを噛み締めていた。
差出人の住所も名前もない、私宛の封書が投函されていたのは、吐く息が真っ白になる二月のことだった。
明らかに不審なその封書を開封してみようと思ったのは、宛名の文字がやたらと幼かったからだった。
まるで小学生が書いたような、大きくてたどたどしい文字。
このような手紙をもらう心当たりは、私にはまったくなかった。
だけど、宛名欄には間違いなく桐崎幸恵様、と私の名が書いてある。
「近所の子のいたずらかしら……」
私は暖かなリビングに戻り、封筒の中を覗いた。
便箋と写真が一枚ずつ入っているのが見えた。
「いったいなんの写真かしら……」
何気なく手にした写真を見た瞬間、頭が真っ白になった。
そこに写っていたのは、見知らぬ女性と私がよく知っている……夫の目を盗んで毎週会っている三上さんだった。
二人は寄り添い、笑顔を浮かべている……誰、誰なの、この女は?
私は震える手で封筒の中の便箋を引き抜いた。
そこには、きれいな手書きの文字が並んでいた。
封筒の宛名の文字とは、明らかに違う……ということは、宛名を書いた人物と手紙を書いた人物が別人ということだ。
わけがわからない。
私の頭は何重にも混乱したが、やはり一番のショックは三上さんに裏切られたことだった。
三上さんは、私だけを愛していると……あんなに何度も言っていたのに!
教頭があなたと会っているのを知っている。
私も教頭とつきあっている。
特別なのは、あなただけじゃない。
残念ね。
手紙の文面はたったの四行だけだった。
このあてつけるような文面……送ってきたのはあの写真の女に違いない。
三上さんは夫が校長を務めている高校の教頭だ。
その三上さんを教頭と呼ぶのだから、この女は学校関係者に違いない。
私はふらふらとリビングのソファに倒れ込んだ。
どうして……なぜ、あなたまで私を捨てるの?
あんなに……あなたの言う事を、全部聞いてあげたじゃない……
悔しい。
お金も別荘の鍵も、私は三上さんの望むままに渡してきた。
それはすべて、三上さんを私に繋ぎ留めておく為だったのに……無駄だった……結局三上さんも、夫と同じなのだ。
写真の女性は、私より若くて美しく見える。
六十歳に近い私より、若くて美しい彼女の方が三上さんにとって何倍も魅力的に見えるのだろう。
私の中で積み上がっていた、甘い安心感がガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
二人の娘達はそれぞれ結婚して遠方に住み、夫は私を見ていない。
くだらないことや悩み事……なんでも話せるような友人もいない。
今の私には、もう三上さんしか残っていないのに……
私はいてもたってもいられず、スマートフォンを手に取ろうとした。
ゴトッ
震える手の中から、スマートフォンが滑り落ちる。
その衝撃でスマートフォンの画面が光った。
そこには笑顔の三上さん。その隣で微笑んでいるのは……私だ。
私なんだ!
三上さんの隣にいていいのは、あの女じゃなくて、私なんだ! ……でも……
涙が溢れた。
私には、何の魅力もない。
あの美しい女から、三上さんを取り戻すなんて不可能だ。
私は絶望感に打ちのめされ、しばらく呆然としていた。
夫にも愛人にも裏切られた……
神様、私はそんなに罪を犯しましたか?
懸命に子育てをし、浮気に目をつぶりながら良い妻を演じてきた私が、なぜ一時の甘い時間をも奪われなければならないのでしょうか?
「嫌……そんなの……絶対に許さない……」
私はフローリングの床に落ちたスマートフォンをそのままに、自分の部屋に駆け込んだ。
ガラリと開けたクローゼットの中には、膨らんだ黒いビニール袋がある。
私はなにも考えずにその結び目をほどいた。
中に何が入っているのか、私は知っている。
長くて艶々している、真っ直ぐな髪の毛……ウィッグと、女性物のバッグにスマートフォン、黒縁の丸いレンズの眼鏡、ローヒールの靴、ロング丈のワンピース。
これは、最後の切り札だ。
これさえ手元にあれば、三上さんを繋ぎ留めておける。
私の中に、再び甘い安心感がやってきた。
私はビニール袋の口を縛り、クローゼットの扉を閉めた。
この袋の中身のことは、深くは考えないことにしている。
私はただ、三上さんから預かっているだけなのだ。
誰より信頼しているあなたにしか託せない、と言われて。
信頼している……ううん、愛しているのよね、私のこと……ねぇ、三上さん?
私は妙に冷めた気持ちで、床に転がっているスマートフォンを拾い上げた。
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