第16話 陽君と契約を交わした林先生

 あの子が、夏休みに物陰にいた子だ。

 私はすぐにピンときた。

 他人の気配にすっと溶け込むのがうまい、あの男の子。

 私は、先生からも生徒からも、観察されるのには慣れている。

 なにせ、私はレアケースなのだから。

 女性の心を持った男の養護教諭。

 私がそれを自覚したのは、割と早い段階で、だったと思う。

 よくある話だ。

 幼なじみである男の子に対する、自分自身の感情の変化。自然に彼に傾いていく自分の胸の内の甘い疼きが、苦しくて仕方なかった。

 確か、小学四年生くらいのことだったと思う。

 家の中に無造作に転がっていた、二歳上の姉が読んでいた少女漫画雑誌。

 私は、それを食い入るように読んだ。特に、恋愛をメインに描かれていた作品を、だ。

 僕は……どうなってるんだ?

 漫画の主人公にシンクロしてしまう自分に問うが、答えは返ってこない。それに、違和感はそれだけじゃなかった。

 自分自身の体つきの変化、女友達の変化に対する羨望と男友達の変化に対する羞恥心。

 そうか、僕は女の子になりたいんだ。

 それを受け入れるまでには相当な時間がかかったけれど、抵抗しなくて良かったと思っている。

 ただ一つ困ったのは、小学生時代からずっと仲良くしている男友達に対し育っていく感情だった。

 私は数年かけて迷った末、素直に自分の感情を伝えることにした。

 あきらに、どんな反応をされても構わない、とにかくこの湧き出てしまう感情を伝えたかった。

 驚愕と怒り。

 私が抑えられない衝動を伝えた時の彼の表情かおは、今でも忘れられない。

 あれは、高二の夏だった。進路先をきちんと決めるためにも、最後のタイミングだったと思う。

 私は進路先を、遠く離れた県の大学に決めた。

 それまでの自分に区切りをつけ、この先の生き方をきちんと考えて行動する。そう決めたからだった。

 まさか、この歳になってあの時の事を思い出すなんて。

 そのきっかけになった女子生徒……金子サラちゃん。

 彼女は友達と一緒に、興味津々の体で私が常駐する保健室にやってきた。

 奥二重のぼってりとした印象も、頬から顎にかけてのぷっくりしたラインも。

 サラちゃんは彼女によく似ていた。

 私の片思い相手の晶が好きだった女の子、吉本正美よしもとまさみに。

 そうか……サラちゃんは、きっと彼女の娘なんだな。

 正美は同級生だったから、年齡はわかる。逆算して考えてみても、高校生の娘さんがいるのはおかしな話ではなかった。

 それにしても、名字が金子というところに胸がどきりとした。

 晶の名字と、同じだったからだ。

 もしかしたらサラちゃんは、あの二人の間に生まれた娘さんなのかもしれない。

 私は地元を離れた後、あえてそれまでの交友関係をすべて断ち切った。

 だから、私は高校卒業後の二人がどうなったのかを知らないのだ。

 ほんの少しセンチメンタルな気持ちになるけれど、もし顔を合わせる機会があったら、『おめでとう』と言いたい。

 小学生時代からの幼なじみ、金子晶と吉本正美に。


 村上君と数学の田口先生が繋がっているとは、意外だった。

 私は容姿が目立つから、図書館の中には入らなか

った。

 警戒心が強い村上君と、真面目が服を着て歩いているような田口先生が図書館を訪れるタイミングは、ピタリと一致していた。

 それを何度か確認してから、私は図書館に乗り込んだ。

 案の定、二人は同じベンチに座っていた。

 村上君は無表情を装っていたけれど、そこに私を拒絶する空気はなかった。

 田口先生を見ると、まずい、と顔にかいてあったけれど。

 本当にわかりやすくて、好感が持てる先生だ。

 村上君は早々に、田口先生をその場から切り離した。

 やっぱり、この子はなにかを探っているんだ。

 あの夏休みの日、彼はエアコンもきいていない暑い廊下の物陰に佇んでいた。

 補習授業があるわけじゃない……あの時は所属している文化部の活動があるのだろうと思っていたけれど、今は村上君が手芸部の幽霊部員であることを知っている。

 私は村上君から渡された、小さく畳まれたA四の紙を広げた。紙は折り目がしっかりとついている上、その溝がところどころ白くなっていた。

 これは……行方不明者の特徴が書かれたものだ。

 顔の特徴、全身の特徴、持ち物や衣服の特徴……あれ、この傘は……あの時見た傘と同じ……

 私の脳裏にフラッシュバックしたのは、数本のビニール傘と一緒に括られた婦人ものの傘だった。

 私がその傘を婦人ものだと判断したのは、その持ち手が可愛らしいキャラクターを模したものだったからだ。

 なぜ……いや、あの傘がこの行方不明になっている女性……元在校生の母親の傘だとは限らない。たまたま同じなだけかもしれない。

 私が一瞬傘の情報を頭に巡らせたのを、村上君は見逃していなかった。

 ぶつかりかけた村上君の視線に、私はそう感じた。

 そうか……だからあの日、あんなところにいたんだ。

『どこまで掴んでるの?』

 本当は、危ないことはしていないでしょうね? と聞きたかった。

 村上君には、危ない橋でも、ろくに叩かずに渡ってしまいそうな空気がある。

『教頭が、成績の足りない生徒の母親を、女として校長に斡旋してるところまで』

 それ、いったいどうやって知ったの?

 私は問いたい気持ちを抑えながら、考えた。

 傘のことは断定しなかった村上君の事だ、なにか確証を掴んでいるのだろう。

 なるほど、教頭と校長か……ちょっと待って……まさか、私の前任の先生は二人のなにかを知ってしまったから職務を続けられなくなってしまったのでは?

 新しくなっていた袖机……前任の先生が、処分された袖机になにかを隠していたとしたら?

 様々な疑惑と一緒に浮かんだのは、正美にそっくりな金子サラちゃんだった。

 教頭がどんな生徒の母親に狙いを定めているかは、さっき村上君が言っていた。

 まったく気色の悪い話だ。それに三年前の母親の行方不明に教頭と校長が関わっているなら、もう警察に突き出すしかない。

 もちろん、憶測だけを並べても、うまくはぐらかされて終わりだろう。

 村上君は来年、本格的に動くつもりらしい。

 ならば、私も今からできることをしよう。

 私に恋人ができるかどうか? そんなこと聞きたいの、村上君……

 そういうところは、なんだか人間っぽいのね。こんなプライベートなことを聞かれるなんて、田口先生は少し可哀想に思うけれど。

 終始無表情を貫く村上君の意外な一面に、私はつい笑ってしまったのだった。

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