【短編】メンタルパンデミック

結城 刹那

第1話

 教室には重くどんよりとした空気が流れていた。

 仕方がない。今日の天気は雨。太陽の当たらない暗い世界は私たちの気持ちを沈ませる。負のオーラが教室全体に浸透し、みんなの気分を落ち込ませている。


「みんな、おっはよーー!」


 私は扉の前でみんなに向かって元気よく挨拶をした。前の席にいる人たちが私を見る。彼ら一人一人の名前を呼んで挨拶をしながら私は自分の席へと歩いていった。どんよりと沈んだ雰囲気を見せていた彼らだが、私に挨拶を返すときはパッと晴れやかな表情を見せる。


 まるで私の元気がみんなに浸透していったようだった。比喩的に言っているが、これは実際に起こっていることだ。みんな、私が元気に振る舞う姿を見て、脳にあるミラーニューロンが活性化し、まるで自分が元気になったかのように感じているのだ。


 三年前に蔓延した新型ウイルス『インペリウム』。感染するとミラーニューロンの働きを大いに活性化させる。ミラーニューロンは他者の行動を見た際に、まるで自分がその行動をしているかのように反応を示す細胞だ。


 それが活性化するということは、他者の感情に影響されやすくなるということ。インペリウム感染者は『インペリウム非感染者』、あるいは『インペリウムへの免疫が強い感染者』の感情を受けやすい。これは恐ろしいことで、悪用されれば集団脅威となる。逆にインペリウム非感染者が善意者であるならば平和な世の中を形成することができる。


 インペリウムによる感情の伝染は世界的問題となっており、『メンタル・パンデミック』と呼ばれている。メンタルパンデミックは状況次第で、善事にもなり得るし、悪事にもなり得る。非常に扱いの難しい問題のようだ。


「香代ちゃん、おはよう!」


 私は自分の席まで行くと最後に隣の席の本田 香代(ほんだ かよ)ちゃんに挨拶をした。肩まで下がった茶色の髪。穏やかな目つきは落ち着いたお姉さんのような風貌を醸し出す。このクラスで一番仲のいい友達だ。


「巴ちゃん、おはよう。今日も相変わらず元気だね」

「うん! 元気120%だったから、みんなにお裾分けしておいたんだ!」

「ありがとう。巴ちゃんが来てから、クラスが何だか活気づいた気がする。さすがはクラスの太陽的存在だね」

「えへへっ! それほどでも!」


 褒められて照れ臭かったからか無意識のうちに手で頭を掻いていた。

 クラスの太陽的存在。そう言ってもらえるのはとても嬉しかった。褒めてもらえると、偽りの元気が本当の元気のように思えたから。


「そういえば、今日転校生が来るんだって?」

「そうなんだ? どんな子かな?」

「噂では女の子らしいよ。仲良くできるといいね」


 短いやり取りをしていると、始業のチャイムが鳴った。

 同時に先生がドアを開け、教室へと入ってくる。いつもより早いご登場だ。その理由は先生の後ろにいる転校生の紹介があるからだろう。


 黒い髪を短く垂れ流した少女。まん丸で綺麗な瞳は見るからに明るそうな雰囲気を醸し出していた。彼女は緊張することなく、クラス全体を見渡している。見渡す中で私と目が合った。その瞬間、彼女は私にウィンクをした。


 私は彼女の対応に驚き、思わず視線を逸らしてしまった。あれが真の太陽的存在なのだろうか。だとすると、私の確立した地位が脅かされるのも時間の問題かもしれない。


「突然ですが、今日からこのクラスに新しい生徒が入ります。みなさん、仲良くしてあげてくださいね。では、挨拶をお願いします」


 先生の合図に彼女は頷くと、黒板に名前を書き始めた。

『米澤 文香』と白色で書かれた文字。こめ……なんて読むんだろう。


「今日からこのクラスでお世話になります米澤 文香(よねざわ ふみか)です。よねちゃんやふみちゃんって呼んでいただけると嬉しいです。仕事の関係で学校にいない時も多々あると思いますが、学校にいる時は仲良くしてください。よろしくお願いします」


 仕事の関係? 中学生でお仕事って、一体何をやっているんだろう。


「なあなあ、あの子って、『レリーバーズ』の子じゃない?」

「俺も思った。まじかよ……うちのクラスにアイドルがやって来たよ」


 後ろにいる男子たちの言葉で、私の疑問はすぐに解消されることとなった。

 なるほど。現役アイドルか。それにしても、アイドルって裏でもあんなに輝いているんだ。クラスはおろか、国を笑顔にする存在。それなら私の地位がなくなっても無理はない。


「では、米澤さん、廊下側の一番後ろの席に座ってください」


 先生の言葉に従い、米澤さんは後ろの方へと歩いていく。みんなアイドルの存在に緊張しているのか誰も彼女に声をかけることはなかった。私は終始彼女の様子を目で追ってしまっていた。


「それでは、朝のホームルームに入ります。まずは『気分上昇係』の千早さん、お願いしてもいいかしら?」

「は、はいっ!」


 不意に先生が私の名前を呼ぶ。米澤さんに意識を奪われていた私は、いきなり呼ばれたことに驚き、上擦った声をあげてしまった。気を取り直して席を立ち上がると教壇の方へと歩いていく。


 まさか現役アイドルがいるところで、素人のパフォーマンスを披露することになるとは。

 気分上昇係は私が考案した係だ。朝のホームルームの時間を使って、みんなに一発芸を披露する。どんよりとした空気を壊し、みんなを元気にするための係は思った以上にみんなから好かれ、重宝される係となった。


 現役アイドルの前でみんなを元気にする一発芸。流石に一般人にはハードルが高すぎないだろうか。私は自分の中の緊張感が高まってくるのを感じた。

 刹那、私は何もないところでつまづき、机と机の間にある空間に頭から倒れる。


「いっつぁ……」


 私は顔を抑えながら苦しみ悶える。まさか何もないところで躓いて転けてしまうとは、流石にドジすぎないだろうか。だが、この行動が功を奏したのかクラスは笑い声に包まれる。


「はっはっは! 計画通り! 今日の一発芸はドジっ子『巴ちゃん』でした!」


 私はあたかも狙って転けたかのように振る舞う。今の笑いを超えられる芸はおそらくできない。ならば、これが芸だと思わせた方が、いい余韻で終われると考えた。


「ドジっ子『巴ちゃん』は動物柄のパンツ履いているんだな」


 前の席にいた男子が私に嫌味な笑みを浮かべる。彼の言葉で私は体が熱くなるのを感じた。まさか先ほど転けた際にパンツを見られていたとは思いもしなかった。


「変態っ! 見るな!」


 私は羞恥を払うように彼に向けて叫び声をあげた。

 クラスは先ほどよりも爆笑に包まれることとなった。

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