7-4 大人同士の対決
「ごめん、急に半休なんて取って」
出社してすぐ、智章は円香の席に向かった。急遽の半休によって溜まった仕事はいくつもあったが、最優先は東京開発不動産の案件だ。
競合とのつながりをあぶり出すために昨日のうちに打った策。それがどうなったのか、気になっていた。
「ううん、大丈夫。けど、甲斐くんのいない間に動きがあったよ」
「動き?」
近くにある空席から椅子を持ってきて円香の隣に座る。
「うん。さっき谷口さんから電話があって、競合相手から連絡があったって」
「本当!? 向こうはなんだって?」
智章はすでに、競合とのつながりに1つのアテをつけていた。
そのアテが正しいのであれば、今の段階では競合は何も動けないはずだった。
智章は少し不安になりながら言葉を待つと、円香は少し考えるそぶりを見せてから続けた。
「それが、特に提案内容に変化はなかったんだって。ただの状況の確認で、なんだか探りを入れてきているような雰囲気だったみたい」
円香の言葉を聞いて、智章の中にあった仮説は確証に変わった。
(やっぱり、競合相手に情報を流していたのは本当に……)
昨日、担当の谷口とその上司には、それぞれ違うブラフとなる提案を送っていた。だが、競合が動きを変えてこないということは、そこから情報が漏れていたわけではないということ。
これまで提案内容を共有していて、昨日の提案だけ伝えられていない人物はひとりに絞られる。
「渡邊、甲斐。2人ともちょっと来れるか?」
不意の呼びかけに円香の背筋が伸びる。声をかけてきたのは、営業部の部長である奥平だ。奥平はオフィスの奥にある自席から立ち上がると、近くの小さな会議室に来るように示した。
ちょっとした雑談に呼ばれたわけでないのは、奥平の厳しい表情から分かった。
「はい、すぐに」
円香は手際よくノートパソコンを畳みながら、不安そうに智章を見た。
「やっぱり、勝手に動いたのが良くなかったかな」
昨日の東京開発不動産へのアプローチは、部長にはなにも伝えていない。上長への報告と共有がルールになっている部署で、確かに注意を受けるだけの理由はあった。
「大丈夫。ちゃんと話せば分かってくれるよ」
智章もパソコンを畳むと、それを抱えて会議室に向かう。円香もすぐ、それに続いた。
会議室の中に入ると、奥平はすでに部屋の奥の椅子に座っていた。智章はすでに、今から何を言われるのか大方の予想がついていた。
(けどマズイな、こんなに早く呼ばれるなんて)
競合相手にこちらの提案を流していたのは間違いなく奥平だ。
その確証がありながら、今はまだそれを突きつけるわけにはいかない。奥平が逃げ切れない状況を作る必要があった。
「悪いな、急に呼び出して」
「いえ」
ハキハキとした声で円香が応じた。奥平への対応は、円香に任せておけば問題がなさそうだ。
智章はパソコンを開くと、すぐに営業管理ツールを起動した。
この管理ツールは全社員が利用していて、ここには顧客とのステータスをすべて記載することがルールになっている。
智章が記入している東京開発不動産の情報は、一昨日までの段階のものだ。
(早く。奥平部長に勘付かれる前に記入しないと……)
奥平はまだ、おもむろにパソコンを開く智章に関心を示していない。
「呼び出した理由だけど、東京開発不動産のことでお前らちゃんと報告あげてないだろ」
「すみません。昨日急ぎでの対応になってしまって……」
「昨日、なにかやってたよな? 小さな案件までいちいち報告しろは言わねえけど、この規模の案件は、アクションを起こすなら必ず事前に報告しろ」
奥平は表立って怒っている様子を見せていないが、どこか苛立ちを隠しているように態度に見えた。
智章は、奥平が話している間にも指を動かして、営業管理ツールへ文字を打ち込んでいく。カタカタ、カタカタと。タイピングなら、小説の執筆で鍛えてきた。
「はい。今後気をつけます」
円香が謝罪を口にしても、智章はそれに続くことなく、ひたすら指を動かす。ここで報告を上げなげければ、確実に奥平に逃げられる。
(早く、なにか指摘をされる前にアップをしないと……!)
「で、結局今はどういう状況なんだ?」
「それは――」
「今、報告を打っています」
円香が口を開きかけた瞬間、智章はそれを遮った。
奥平は怪訝な顔をした。
「別に口頭でいい」
「いえ、重要な動きですから」
「待てよ。重要な動きってなんだ」
奥平の顔に焦りが浮かぶ。
自分の想定を外れ始めている事態に、奥平もなにか勘付いたようだった。
「今上がります」
「甲斐!」
奥平が怒声にも近い声を出した瞬間、智章はついに報告を打ち終えた。最後にEnterキーを叩くと、管理ツールの情報が更新される。更新の通知は自動で上長のもとまで届く仕組みになっていて、今、それを奥平も受け取ったはずだった。
ポン、と奥平のスマートフォンが通知音を上げた。
「今アップしましたが、口頭でもお伝えしますね。東京開発不動産の件ですが、およそ契約は確定です」
その言葉に、奥平と円香は同時に驚いた。
「はあ!? そこまで進んでなかっただろ」
「昨日の提案で、今日大きく進みました」
すぐ隣からは円香がなにか言いたげな視線を送っている。だが、今は無視して話を続ける。下手なことを言われると、シナリオが崩れてしまう。
「例の競合の件はどうなった」
「それはもう解決しました。どういうわけか、こちらの提案が筒抜けになっていたようですが、その筋は潰したので」
奥平の顔が少しずつ青ざめていくのが分かった。その反応で、いよいよ考えが確証へと変わっていく。
「ちょっと待て、それはつまり……」
「次は向こうの部長クラスと顔合わせをします。ほとんど根回しはできているので、商談というより挨拶ですね」
今ここで伝えた内容は、すべて営業管理ツールにたった今上げたことだ。すでに全社員の目に触れた今、これがもみ消されることはない。
「奥平部長。最後のひと押し、よろしくお願いします。万が一、ここで上手くいかないなんてことがあれば……」
「甲斐、なにが言いたい」
奥平が歯ぎしりする。その音が聞こえてきそうだった。
ここまできてこの案件を落としたとなれば、その責任は確実に奥平に向けられる。そうなれば、奥平もこれ以上は足を引っ張るような真似はできないはずだ。
「理由はなんとなく想像できます。ですが、もし次に同じことがあればその時は……」
その時は、今回のことをバラします。とは、わざわざ口にしなかった。部長を蹴落とすつもりもなければ、敵対をするつもりもない。ただ、この案件へ真面目に向き合ってきた円香が報われないことが嫌なだけだった。
「もういい。挨拶の日程が決まったら教えてくれ」
そう言って、奥平は机の背もたれに大きく体重を預けた。
「失礼致しました」
智章が席を立つと、慌てて円香もそれに続いた。そのまま会議室をあとにするまで、円香はずっと困惑したままだった。
「ねえ甲斐くん、説明して。いったいなんの話だったの?」
まだ会議室に残る奥平を気にかけながら、円香は訊いた。あるいは、まだなにも全容を把握していないかもしれない。
智章は周りの社員に聞こえないように小さな声で答える。
「とりあえず、競合に情報を流してたのは部長だよ」
「なんで? どうしてそんなこと……」
円香は驚きを隠せず、信じられないといったような顔をした。
会社の利益だけを考えるなら、間違いなくありえない話だった。だからこそ、昨日の段階ではそんな可能性は一切考えていなかった。
だが、奥平にはこの案件を邪魔しなければいけない理由がある。
「たぶん、渡邊さんの足を引っ張りたかったんじゃないかな。営業部の出世の最年少記録は全部部長が持ってるでしょ? だけど、このままだと渡邊さんが抜きそうだから、ちょっと魔が差したとか」
奥平はこれまでもプライドが見え隠れすることはあった。
それだけプライドのある人間にとって、自身の出世の記録が女性に抜かされることは、想像する以上に耐えられないものなのかもしれない。
「理由は分かった。けど、どうして気づいたの?」
「たまたまだけど、今日来る時に、部長が外で電話をしてるのを聞いちゃって。その電話の相手が怪しかったのと、昨日のやり取りを部長が把握してなかったからかな」
昨日の段階では、まさか部長をあぶり出すつもりはなかった。ただ、偶然にも昨日の動きを部長に伝えていなかったことで、見えていなかったつながりが見えていた。
ただ、どこかで最初から部長のことを怪しく思う気持ちがあったのかもしれない、とも思った。
「じゃあ、やっぱり本当に……」
「そうだね、渡邊さんとしてはショックだろうけど」
渡邊さんは素直だ。
これまで同期として5年近く働いてきて、智章はそんな印象を抱いていた。今回の案件も、上司からの期待に応えようという純粋な気持ちで動いていたのを知っている。その性格を考えれば、今回の奥平への失望は小さなものではないはずだった。
「ごめん。ちょっと頭を整理する……」
円香は小さな声で言って、自分の椅子に力なく座る。なにか励ます言葉をかけようとして、だけど相応しい言葉は浮かばなかった。
「とりあえず、谷口さんには俺の方から連絡しておくね。契約合意っていうのは、先走って言っただけだから」
邪魔さえ入らなければ、このまま契約に至る手応えはある。ただ、部長に報告した内容は、ずいぶんと先走った内容だった。
自分の席に戻ろうとした時、「待って」と円香が引き止めた。
「今朝、なにかあった?」
一瞬、質問の意味が分からなかった。困惑が顔に出たのか、円香がさらに続ける。
「甲斐くん、なんだか昨日と別人みたいだから。午前中に何かあったのかなって」
「ああ」
たしかに、驚かれるのも無理はないかもしれない。それくらいに、ここ数日の自分とは違う自分でいる自覚はあった。平たく言ってしまえば、吹っ切れていたのだと思う。
「なんだろう……。やっぱり、モブじゃなくなりたかったのかな」
それが相応しい言葉だったのか、口にした後でもわからない。ただ、とにかくじっとしていられない衝動だけが胸の中を支配していた。
円香は小さく苦笑を浮かべる。
「なんだか、入社してすぐの頃を思い出した」
「え、なんで?」
「ううん、気にしないで」
円香はそう言って強引に話を切り上げると、パソコンを開いて自分の仕事に移った。智章は一度首を傾げてから、自分のデスクに戻る。
今さらになって、心臓がバクバクと早鐘を打ち始めた。自分でも、ずいぶんと大胆なことができたと思う。けれどそれは、決して嫌な感覚ではない。
ひとまずの問題は解決したが、やらなければいけないことはまだまだたくさんある。
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